NHKが藤原京を扱った番組をやっていた。
藤原京の発掘は話題になり、その規模の大きさで平城京に匹敵するとも言っており、
作ったのは持統女帝だと言っている。
確かに藤原京は天武天皇の皇后である持統天皇である。
しかし藤原と言う土地を都になるように改良した人物が別にいる。

藤原は以前は葛原(くずはら)で、名の通りあまりよい土地ではなかったろうと推定している。
それを改良して京に適した土地にした氏族が、その功績から、父親が天智天皇から一代限りでいただいた姓名をなぜか不思議なことに引き継げた男・・・それは藤原不比等(ふひと)しかいない。
父親とは中臣鎌足である。不比等は鎌足の次男だった。
彼の子孫がのちの藤原四家になっていく。したがって不比等は藤原氏中興の祖と言えるだろう。
不比等の功績はあまり歴史の教科書が扱わないから知らない人も多かろう。
淡海公が通称であり、その墓は、祖人鎌足を祭る奈良の談山神社の下にひっそりと置かれている。
不比等はもとより目だたぬような生き方をしたが、言い換えるとそれこそが彼が持統藤原朝のフィクサーであることを語るのである。
持統天皇と言う女帝を背後からささえ、『日本書紀』という藤原氏にとって都合のいい歴史に影響を与え、持統=太陽神アマテラスとした、それが藤原不比等だったと筆者は考えている。
出雲の紀氏(木氏・岐氏)を盟友とし、紀氏の持つ氏神神話を『日本書紀』のバックボーンに忍ばせる。それが出雲神話、スサノオ神話なのである。紀氏の祖神が実はスサノオの子・五十猛命であり、彼らが出雲を譲り紀州熊野に住まったときから姓を紀氏と名乗るようになり(以前は木氏だった)、出雲神話を創出した。だから熊野は紀州と出雲にあると考える。
若き不比等は実はやがて政敵としていく蘇我入鹿とは学問の同級生でもあった。
入鹿をしりぞけ大化の改新をなしとげたのは父鎌足。そして律令政治をとりこんで国家体制を固めたのが不比等である。しかしその律令体制の基盤は実は蘇我馬子、蝦夷。入鹿が先に作っていたものを不比等が持統の手柄に仕立てたものだったと考えている。
歴史的に、ヤマトの大勢は最初に物部氏が和邇氏から奪い取り、それを狙った葛城氏を滅ぼされた後、葛城同族だと主張する蘇我氏が先祖のなしえなかった政権奪取を聖徳太子と成功させたと考える。
ただし厩戸皇子がそれで聖徳太子になったのではないだろう。太子の出現は多くが藤原氏の創作であった。それが蘇我氏を滅ぼした藤原氏の一種の敗者の神霊化であることは充分想像できる。蝦夷・入鹿の霊魂がたたらぬような配慮として太子は作られたと言えよう。
『日本書紀』で国家神を女性の太陽神アマテラスに変えるのも、持統以下の女帝政権の正統性のためである。なぜならば持統以下の政権が文武までみな「天智血脈」だからそう言えるのである。
持統は天智の娘なのだ。したがって娘たちの元明・元正・文武も一見天武の子孫に見えて実は持統の父で鎌足の乙巳の変での盟友だった天智天皇(中大兄皇子)の血脈だったのである。乙巳の変で蘇我入鹿は殺されている。これはクーデターだった。
こうした血の流れを持統はじっと見つめてきた。そこには鉄の女としての強烈な目が養われる背景が見えるのだ。
ころもほしたりあまのかぐやま・・・
私は今から太陽神アマテラスの化身となるのだ・・・
筆者には彼女の女帝への意思が見える。
蘇我氏が親族の推古をアマテラスと考えたように、不比等は持統をアマテラスにしようとしたに違いないのだ。
紀氏にとっておそらくは葛城系の武内宿禰子孫ではなかっただろう蘇我氏は不比等同様心の敵だったのではないか。おまけに蘇我氏は祖人をなんと朝鮮の木氏(もくら)だとしており、それこそは紀氏の祖だったのではないか?
藤原氏にとって蘇我氏は、こうして敗者としてのスサノオや出雲氏族であった。
そこに太子と言う鎮魂観念が生まれ出る必然性が見えるのだ。
これはまさに鬼やらいだった。
こうして葛の氏族だった不比等は藤の氏族として歴史の表舞台に静かに登場する。
藤原京がこうしてできあがったのであった。
時まさに紅葉の季節へ向かう。
談山神社の錦繍の秋を見に行かれたら、ぜひ神社下にひっそりたつ淡海公不比等の石塔にも参られていただきたい。彼こそが藤原道長の先祖だ。
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藤原京の発掘は話題になり、その規模の大きさで平城京に匹敵するとも言っており、
作ったのは持統女帝だと言っている。
確かに藤原京は天武天皇の皇后である持統天皇である。
しかし藤原と言う土地を都になるように改良した人物が別にいる。

藤原は以前は葛原(くずはら)で、名の通りあまりよい土地ではなかったろうと推定している。
それを改良して京に適した土地にした氏族が、その功績から、父親が天智天皇から一代限りでいただいた姓名をなぜか不思議なことに引き継げた男・・・それは藤原不比等(ふひと)しかいない。
父親とは中臣鎌足である。不比等は鎌足の次男だった。
彼の子孫がのちの藤原四家になっていく。したがって不比等は藤原氏中興の祖と言えるだろう。
不比等の功績はあまり歴史の教科書が扱わないから知らない人も多かろう。
淡海公が通称であり、その墓は、祖人鎌足を祭る奈良の談山神社の下にひっそりと置かれている。
不比等はもとより目だたぬような生き方をしたが、言い換えるとそれこそが彼が持統藤原朝のフィクサーであることを語るのである。
持統天皇と言う女帝を背後からささえ、『日本書紀』という藤原氏にとって都合のいい歴史に影響を与え、持統=太陽神アマテラスとした、それが藤原不比等だったと筆者は考えている。
出雲の紀氏(木氏・岐氏)を盟友とし、紀氏の持つ氏神神話を『日本書紀』のバックボーンに忍ばせる。それが出雲神話、スサノオ神話なのである。紀氏の祖神が実はスサノオの子・五十猛命であり、彼らが出雲を譲り紀州熊野に住まったときから姓を紀氏と名乗るようになり(以前は木氏だった)、出雲神話を創出した。だから熊野は紀州と出雲にあると考える。
若き不比等は実はやがて政敵としていく蘇我入鹿とは学問の同級生でもあった。
入鹿をしりぞけ大化の改新をなしとげたのは父鎌足。そして律令政治をとりこんで国家体制を固めたのが不比等である。しかしその律令体制の基盤は実は蘇我馬子、蝦夷。入鹿が先に作っていたものを不比等が持統の手柄に仕立てたものだったと考えている。
歴史的に、ヤマトの大勢は最初に物部氏が和邇氏から奪い取り、それを狙った葛城氏を滅ぼされた後、葛城同族だと主張する蘇我氏が先祖のなしえなかった政権奪取を聖徳太子と成功させたと考える。
ただし厩戸皇子がそれで聖徳太子になったのではないだろう。太子の出現は多くが藤原氏の創作であった。それが蘇我氏を滅ぼした藤原氏の一種の敗者の神霊化であることは充分想像できる。蝦夷・入鹿の霊魂がたたらぬような配慮として太子は作られたと言えよう。
『日本書紀』で国家神を女性の太陽神アマテラスに変えるのも、持統以下の女帝政権の正統性のためである。なぜならば持統以下の政権が文武までみな「天智血脈」だからそう言えるのである。
持統は天智の娘なのだ。したがって娘たちの元明・元正・文武も一見天武の子孫に見えて実は持統の父で鎌足の乙巳の変での盟友だった天智天皇(中大兄皇子)の血脈だったのである。乙巳の変で蘇我入鹿は殺されている。これはクーデターだった。
こうした血の流れを持統はじっと見つめてきた。そこには鉄の女としての強烈な目が養われる背景が見えるのだ。
ころもほしたりあまのかぐやま・・・
私は今から太陽神アマテラスの化身となるのだ・・・
筆者には彼女の女帝への意思が見える。
蘇我氏が親族の推古をアマテラスと考えたように、不比等は持統をアマテラスにしようとしたに違いないのだ。
紀氏にとっておそらくは葛城系の武内宿禰子孫ではなかっただろう蘇我氏は不比等同様心の敵だったのではないか。おまけに蘇我氏は祖人をなんと朝鮮の木氏(もくら)だとしており、それこそは紀氏の祖だったのではないか?
藤原氏にとって蘇我氏は、こうして敗者としてのスサノオや出雲氏族であった。
そこに太子と言う鎮魂観念が生まれ出る必然性が見えるのだ。
これはまさに鬼やらいだった。
こうして葛の氏族だった不比等は藤の氏族として歴史の表舞台に静かに登場する。
藤原京がこうしてできあがったのであった。
時まさに紅葉の季節へ向かう。
談山神社の錦繍の秋を見に行かれたら、ぜひ神社下にひっそりたつ淡海公不比等の石塔にも参られていただきたい。彼こそが藤原道長の先祖だ。

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