昨日、磯田さんが富雄へ行っていつものようにごたくを述べておられた。
要点はほぼかつてぼくがここに書いたような内容だった気がした。

ffb07201



富雄丸山古墳 を含む記事 : 民族学伝承ひろいあげ辞典

bc647403


〇地名とみお これは鳥見である。信貴山かいわいが鳥見。
〇奈良にはとみ地名は二か所あり、4世紀の大王墓群の佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群に近いのは鳥見である。
〇鳥見には『日本書紀』などが書くには登美ナガスネヒコがおり、物部氏の祖神である饒速日命の妻の兄であるが、四世紀と言う時代より早い設定の時代なのでなんとも言えない(Kawakatu)
〇富雄丸山は最大級サイズの円墳だから大王の墓ではなく、向かい合う佐紀盾列の大王を代々守護してきた氏族の「いわば狛犬」のような守り神として街道の要所に作られてある。
〇円墳だが造り出しがあり、珍しい3段式造り出しで、最上部には石棺があった。これはこの墓の被葬者の巫女の殉葬であろう。また円墳中央には被葬者の石棺がある。
〇蛇行剣は2mもあり実用品ではなく、アメのヒボコのような進軍時の御印であろう。
〇ヤマトタケルのような人物かも

20230128042611


この氏族図で観る限りでは、最初3世紀後半に纏向の氏族(物部氏 や大伴氏)が大王家wp補佐していたのが纏向遺跡で、その前は唐古・鍵遺跡なのでこれを饒速日一族と仮定することは可能か?
ところが3世紀後半までのこの物部政権が突如四世紀になると佐紀へ墓が移動したことになる。そこは和邇氏の領域である。補佐役が和邇氏に代わり?さらに4世紀後半から5世紀には河内へ大根群が移動したわけだ。

発見当時、筆者が想定した被葬者は

1 葛城曾津彦(佐紀古墳群が神功皇后系陵墓ゆえ)
2 物部氏関係者
3 ヤマトタケル関係者
4 大伴氏靫負集団の長

磯田氏は結論出さずじまいで番組は終わった。

彼は専門外の時代については楽しみだけで答えは出さない。
学者だからしょうがねえな。

変だなと感じるのは作り出しの最上段に墓を作ったら、壇上でやるべき祭祀ができないんじゃないか?高すぎて巫女が上がれない。

円墳じゃなくてホタテ貝型じゃないのか?

8691


ま、いろいろあるね。記録は当てにしないのが考古学の鉄則。
文献は嘘だよ。

佐紀古墳群の被葬者・・・というよりもなぜ王権が3世紀の纏向から北部の佐紀・富雄へ遷るかが記録とは矛盾した動きだから、文献は役に立たない古墳群だということ。やれ神功皇后だ、称徳女帝だ、成務天皇だなんて言うような場所じゃないんだ佐紀は。記録上、ない王権だった墓群なんだここは。

そしてすぐに大古墳は古市へ動く。河内王権にすぐに切り替わっている。謎の四世紀の古墳群だから動乱期であり一瞬の王権だった可能性が高い。

奈良県遺跡マップ(地理院タイル使用)

応援お願いいたします!
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村


人気ブログランキング

PVアクセスランキング にほんブログ村