というのをTVでやっていたのを歴史好きな方々はもうご存じだろう。
この説の大元は新発見された一通の書簡。
信長の敵討ち、秀吉「遅参」? 「山崎の合戦」中京大教授が書状入手:朝日新聞
そこに秀吉自身が山崎合戦に「遅参した」と書かれており、文章は自筆で花押もシンブツと判明。
さあ、それじゃあ誰が光秀の首を取ったかと言うと当時摂津にいた池田恒興だとなるらしい。
すると秀吉は中国大返しなぞしておらず、光秀との戦いにも間に合わず、首級を取ってもおらず、13日はまだ摂津富田(せっつとんだ)あたりをうろつきつつ、池田恒興に接近し、彼を密かに清須会議四人目の参加者にすることでのちの池田家の安泰と領地を約束、東国から戻れなかった滝川一益のかわりに恒興を秀吉後継者賛成派にしてまんまと信長の後を継ぎ、結局それを知っている恒興はのちに暗殺した・・・
ということらしい。(BS英雄たちの選択で例の磯田道史先生がやってた・・・ような気がする)
AI回答
信長の敵討ちに秀吉は遅参か 山崎の合戦めぐる書状分析に注目:山陽新聞デジタル|さんデジ
なるほど、中国大返しは後世の作りごとか・・・納得!
すると日曜日の大河ドラマは完全に嘘を描いたことになりますなあ。
歴史が変わるところ、なかなか生きてるうちに起こらないもの。ラッキーですな。
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この説の大元は新発見された一通の書簡。
信長の敵討ち、秀吉「遅参」? 「山崎の合戦」中京大教授が書状入手:朝日新聞
そこに秀吉自身が山崎合戦に「遅参した」と書かれており、文章は自筆で花押もシンブツと判明。
さあ、それじゃあ誰が光秀の首を取ったかと言うと当時摂津にいた池田恒興だとなるらしい。
すると秀吉は中国大返しなぞしておらず、光秀との戦いにも間に合わず、首級を取ってもおらず、13日はまだ摂津富田(せっつとんだ)あたりをうろつきつつ、池田恒興に接近し、彼を密かに清須会議四人目の参加者にすることでのちの池田家の安泰と領地を約束、東国から戻れなかった滝川一益のかわりに恒興を秀吉後継者賛成派にしてまんまと信長の後を継ぎ、結局それを知っている恒興はのちに暗殺した・・・
ということらしい。(BS英雄たちの選択で例の磯田道史先生がやってた・・・ような気がする)
AI回答
- 合戦当日の1582年6月13日の日中、秀吉は山崎(京都府大山崎町付近)から約12キロ離れた富田(大阪府高槻市)にいた。
- 姫路城の留守居役にあてた書状の中で、明日西岡(京都府長岡京市付近)に出陣すると書き記していた。
- 池田恒興ら織田家の先鋒隊が前日の12日にはすでに明智光秀方の城へ迫り、光秀を追い込んでいた。
- 光秀は13日に城から打って出て池田勢などと戦って敗れた。
なるほど、中国大返しは後世の作りごとか・・・納得!
すると日曜日の大河ドラマは完全に嘘を描いたことになりますなあ。
歴史が変わるところ、なかなか生きてるうちに起こらないもの。ラッキーですな。

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