というのをTVでやっていたのを歴史好きな方々はもうご存じだろう。
この説の大元は新発見された一通の書簡。

AS20260313000315
信長の敵討ち、秀吉「遅参」? 「山崎の合戦」中京大教授が書状入手:朝日新聞

そこに秀吉自身が山崎合戦に「遅参した」と書かれており、文章は自筆で花押もシンブツと判明。
さあ、それじゃあ誰が光秀の首を取ったかと言うと当時摂津にいた池田恒興だとなるらしい。

すると秀吉は中国大返しなぞしておらず、光秀との戦いにも間に合わず、首級を取ってもおらず、13日はまだ摂津富田(せっつとんだ)あたりをうろつきつつ、池田恒興に接近し、彼を密かに清須会議四人目の参加者にすることでのちの池田家の安泰と領地を約束、東国から戻れなかった滝川一益のかわりに恒興を秀吉後継者賛成派にしてまんまと信長の後を継ぎ、結局それを知っている恒興はのちに暗殺した・・・

ということらしい。(BS英雄たちの選択で例の磯田道史先生がやってた・・・ような気がする)


AI回答

  • 合戦当日の1582年6月13日の日中、秀吉は山崎(京都府大山崎町付近)から約12キロ離れた富田(大阪府高槻市)にいた。
  • 姫路城の留守居役にあてた書状の中で、明日西岡(京都府長岡京市付近)に出陣すると書き記していた。
  • 実際の合戦は13日の夕方(申刻)に始まったため、12キロ離れた富田からでは開戦に間に合わなかったとされる。 [1, 2, 3]
  • 池田恒興ら織田家の先鋒隊が前日の12日にはすでに明智光秀方の城へ迫り、光秀を追い込んでいた。
  • 光秀は13日に城から打って出て池田勢などと戦って敗れた。
  • 秀吉の本隊は光秀の敗走後に到着したとみられ、光秀を討ち取った実際の功労者は池田恒興らほかの武将であった可能性が指摘されている。 [1, 3]



  • 発給時期: 天正10年(1582年)6月13日昼(山崎の合戦の開戦前・同日夕方の開戦前)
  • 宛先: 姫路城の留守居であった小寺職隆、生駒七郎右衛門尉ら
  • 発信地: 摂津国富田(大阪府高槻市・山崎から南西に約12キロ)
  • 現代語の要旨: 「今日のうちには動かず、明日(14日)に西岡へ向けて出撃し、陣を布く予定である」と記されている。 [1, 2]
  • 「遅参説」を裏付ける背景
    • 実際の合戦経過: 13日午後4時頃には前線の織田家臣(池田恒興ら)と明智光秀軍が山崎で開戦しており、秀吉本隊が到着する前に戦闘が始まって勝敗が決した。 [1]
    • 遅参の隠蔽: 秀吉は主君・織田信長の敵討ちに間に合わなかった(遅参した)という不都合な事実を隠すため、のちに自身の功績を大きく見せる情報操作や記録の推敲を行ったと指摘されている。 [1, 2]

信長の敵討ちに秀吉は遅参か 山崎の合戦めぐる書状分析に注目:山陽新聞デジタル|さんデジ



なるほど、中国大返しは後世の作りごとか・・・納得!

すると日曜日の大河ドラマは完全に嘘を描いたことになりますなあ。

歴史が変わるところ、なかなか生きてるうちに起こらないもの。ラッキーですな。

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