2 .チパング島
「チパングは東海にある大きな島で、大陸から二千四百キロの距離にある。住民は色が白く、文化的で、物資にめぐまれている。偶像を崇拝し、どこにも属せず、独立している。
黄金は無尽蔵にあるが、国王は輸出を禁じている。しかも大陸から非常に遠いので、商人もこの国をあまりおとずれず、そのため黄金が想像できぬほど豊富なのだ。
こ の島の支配者の豪華な宮殿についてのべよう。ヨーロッパの教会堂の屋根が鉛でふかれているように、宮殿の屋根はすべて黄金でふかれており、その価格はとても評価できない。宮殿内の道路や部屋の床は、板石のように、四センチの厚さの純金の板をしきつめている。窓さえ黄金でできているのだから、この宮殿の豪華さは、まったく想像の範囲をこえているのだ。
(中略)
これらの島がある海を「チンの海」とよぶが、これは「マンジの海」という意味で、チンとはマンジのことである。この辺をしばしば訪れ、十分経験をつんだ水先案内や船員たちのいうところによると、チンの海の東部には七千四百五十九の島があり、船がしばしばそこを訪れるということだ。これらの島はどれも沈香などの高価な香木や、種々の香料を産する。例えば黒胡椒を大量に産するほかに、雪のように白い胡椒もある。たしかにこれらの諸島では、黄金や宝石、種種の香料などの資源がゆたかなのだが、大陸からあまりにはなれすぎているので、運ぶことができないのだ。したがってザイトンやキンサイの船が危険をおかしても、とにかくそこへ行きさえすれば、大した利益をあげられる。
こ の航海は普通、冬にでかけ、夏に帰ってくるので、一年かかる。風の方向が二つしかなく、一つは冬に大陸から諸島にふき、一つは夏に諸島から大陸にふくからである。これらの地域はインドからは非常に遠く、航海もながくかかる。この海はチンの海とよばれているが、やはり大海の一部である。
「チパングは東海にある大きな島で、大陸から二千四百キロの距離にある。住民は色が白く、文化的で、物資にめぐまれている。偶像を崇拝し、どこにも属せず、独立している。
黄金は無尽蔵にあるが、国王は輸出を禁じている。しかも大陸から非常に遠いので、商人もこの国をあまりおとずれず、そのため黄金が想像できぬほど豊富なのだ。
こ の島の支配者の豪華な宮殿についてのべよう。ヨーロッパの教会堂の屋根が鉛でふかれているように、宮殿の屋根はすべて黄金でふかれており、その価格はとても評価できない。宮殿内の道路や部屋の床は、板石のように、四センチの厚さの純金の板をしきつめている。窓さえ黄金でできているのだから、この宮殿の豪華さは、まったく想像の範囲をこえているのだ。
(中略)
これらの島がある海を「チンの海」とよぶが、これは「マンジの海」という意味で、チンとはマンジのことである。この辺をしばしば訪れ、十分経験をつんだ水先案内や船員たちのいうところによると、チンの海の東部には七千四百五十九の島があり、船がしばしばそこを訪れるということだ。これらの島はどれも沈香などの高価な香木や、種々の香料を産する。例えば黒胡椒を大量に産するほかに、雪のように白い胡椒もある。たしかにこれらの諸島では、黄金や宝石、種種の香料などの資源がゆたかなのだが、大陸からあまりにはなれすぎているので、運ぶことができないのだ。したがってザイトンやキンサイの船が危険をおかしても、とにかくそこへ行きさえすれば、大した利益をあげられる。
こ の航海は普通、冬にでかけ、夏に帰ってくるので、一年かかる。風の方向が二つしかなく、一つは冬に大陸から諸島にふき、一つは夏に諸島から大陸にふくからである。これらの地域はインドからは非常に遠く、航海もながくかかる。この海はチンの海とよばれているが、やはり大海の一部である。
チパング島の住民はマンジやカタイ(ともに中国大陸)の住民と同じ偶像崇拝教の信徒である。崇拝している偶像も同じだが、これら偶像のうちのあるものは、牛の頭をしているものもあるし、豚、犬、羊などの頭をしたのもある。頭は四つ、またはそれ以上あるものもあり、それが肩の上にのっかっているものもある。手も四本のものとか、十本のものとか、千本のものさえある。千本の手をもっている方が、よけいに信仰されている。キリスト教徒が、偶像はどうしてこんなにいろいるの姿をしているのかと尋ねると、「私たちより前の人々がこのように伝えてきたので、そのままで後代に伝えるのです」と答える。こうして永久に伝えてゆくつもりなのだ。偶像の前で行なわれる儀式たるや、実に悪魔的で、とても紹介することはできない。
チパングでは(ほかのインド諸鳥でも同様だが)敵を捕虜にしたとき、身代金が支払われないと、自宅に親戚や知人をよびあつめ、捕虜を殺して肉をたべてしまう。世界にこれほどうまい肉はないといっている。チパング関係のことはこれくらいにしておこう。」
マルコ・ポーロ著・青木富太郎訳『東方見聞録』社会思想社 昭和44年チパングでは(ほかのインド諸鳥でも同様だが)敵を捕虜にしたとき、身代金が支払われないと、自宅に親戚や知人をよびあつめ、捕虜を殺して肉をたべてしまう。世界にこれほどうまい肉はないといっている。チパング関係のことはこれくらいにしておこう。」
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『東方見聞録』の日本記事はあくまでマルコの中国での伝聞であって、どこまで信憑性があるか知れない。香木や胡椒などとれるはずもないし、島々がそんなにあるはずもないのだが、マルコは大真面目で聞き取った事を書いている。
マルコ・ポーロの生きた時代は日本ではちょうど武士の時代の鎌倉時代あたりである。
日本を黄金の島と中国人が見ていたのは、その時代の奥州藤原氏の貿易で砂金が大量に交換物資に使われていたからにほかならない。まして偶像が千手とか牛の頭とかいう記事などはもともとは中国伝来の千手観音や牛頭天皇だから、なぜそれが中国で珍しいのか見当もつかないし、また羊頭・狗頭・豚頭の仏像などありえず、まったく馬頭や牛頭から考え出された空想に過ぎない。聞いた相手がおそらくあまり品性よろしからぬ海の住民だったのだろう。
マルコ・ポーロの生きた時代は日本ではちょうど武士の時代の鎌倉時代あたりである。
日本を黄金の島と中国人が見ていたのは、その時代の奥州藤原氏の貿易で砂金が大量に交換物資に使われていたからにほかならない。まして偶像が千手とか牛の頭とかいう記事などはもともとは中国伝来の千手観音や牛頭天皇だから、なぜそれが中国で珍しいのか見当もつかないし、また羊頭・狗頭・豚頭の仏像などありえず、まったく馬頭や牛頭から考え出された空想に過ぎない。聞いた相手がおそらくあまり品性よろしからぬ海の住民だったのだろう。
ここで問題にしたいのは、最後に書かれた「儀式が悪魔的でとても紹介できない」とか「捕虜を殺して肉を食べる」といったまるで異界の夜叉のごとき書きっぷりである。
マルコ・ポールも、うわさを聞いた相手の中国人たちも、倭人を人食いだと思っていたようである。その野蛮さの大元はおそらく鎌倉の坂東武者たちの骨肉をかけたいくさ好きから来たかと大西俊輝は書いている(『人肉食の精神史』1998)。
『見聞録』はイエスズ会を通して多くの宣教師や知識人が読んだから、あとの信長の時代になっても、彼の残虐さには宣教師たちも大いに納得したことだろう。少なくとも民間でも、まだ堕胎や間引きは平然と行われ、旱魃があれば共食いもされていたであろう。
『見聞録』はイエスズ会を通して多くの宣教師や知識人が読んだから、あとの信長の時代になっても、彼の残虐さには宣教師たちも大いに納得したことだろう。少なくとも民間でも、まだ堕胎や間引きは平然と行われ、旱魃があれば共食いもされていたであろう。
もちろんこうした凄惨な事件は日本だけでなく、世界中でまだ存続していた。それは中国も西欧も実は変わりないままだった。ただキリスト教では早くから人を生贄にする儀式は禁忌されたし、人肉食は悪魔・魔女の所業としてこれも嫌われていた。
●しかしモンテーニュの書いた『エセイ』(16世紀)には、
「私は死んだ人間の肉を食うよりも、生きた人間を食うほうがずっと野蛮だと思う。まだ十分に感覚の残っている肉体を責め苦と拷問で引き裂いたり、犬や豚に噛み殺させたりするほうが、(われわれはこのような事実を書物で読んだだけでなく、実際に見て、生々しい記憶として覚えている。それが昔からの敵だけでなく隣人や同胞の間にもおこなわれているのを、しかもなおいけないことには、敬度と宗教の口実のもとにおこなわれているのを見ている。)死んでから焼いたり、食ったりすることよりも野蛮であると思う」(第三十一章「」)
とあり、16世紀西欧においてもまだ、地域によってそうした古い慣習は残存していたようではある。
「私は死んだ人間の肉を食うよりも、生きた人間を食うほうがずっと野蛮だと思う。まだ十分に感覚の残っている肉体を責め苦と拷問で引き裂いたり、犬や豚に噛み殺させたりするほうが、(われわれはこのような事実を書物で読んだだけでなく、実際に見て、生々しい記憶として覚えている。それが昔からの敵だけでなく隣人や同胞の間にもおこなわれているのを、しかもなおいけないことには、敬度と宗教の口実のもとにおこなわれているのを見ている。)死んでから焼いたり、食ったりすることよりも野蛮であると思う」(第三十一章「」)
とあり、16世紀西欧においてもまだ、地域によってそうした古い慣習は残存していたようではある。
意外なことかも知れないが、人間を神に食わせたりする人身御供や、部落内外の人肉を刈って来て生命力を得ようとする供儀儀式(カニバリズム)、またそれとは別に飢饉で人を喰う行いは、けっこう最近まで世界中に残っていた。西欧諸国でも、キリスト教が広まっていた都市部の、都会人だけがそのような野蛮な人食い行為を「もうあり得ない」と見ていただけのことである。
「もうあり得ないだろう」という思い込みは、現代人の口からもよく聞こえることがあるが、その対象は例えば被差別部落への差別行為などについてよく聞くことができる。つまり現代人の無知と驕りがこの言葉になって都市中心部でのみまかりとおっている。それが本当に戦後日本でなくなっていたのなら、60年代に岡林信康が「私の好きなみつるさんが・・・」と歌う必要はなかったはずである。
私の好きな みつるさんは
おじいさんから お店をもらい
二人いっしょに 暮らすんだと
うれしそうに 話してたけど
私といっしょに なるのだったら
お店をゆずらないと 言われたの
お店をゆずらないと 言われたの
手紙 岡林信康
視聴→http://umeland.air-nifty.com/blog/2007/11/post_9ceb.html
おじいさんから お店をもらい
二人いっしょに 暮らすんだと
うれしそうに 話してたけど
私といっしょに なるのだったら
お店をゆずらないと 言われたの
お店をゆずらないと 言われたの
手紙 岡林信康
視聴→http://umeland.air-nifty.com/blog/2007/11/post_9ceb.html
(かつて日本を訪れたエドワード・モースは、日本人が人を喰っていたと書いた。
考古学による古代人の大森貝塚遺跡から人骨が出て、そこに食人痕跡があることからの想像である。そこに外国人の見た日本人観が差別的だったのではないかと観ることは不可能ではない。ただし古代人の食人痕跡は世界中で散見され、日本だけに限ったことではない。日本では縄文人が人を喰った遺骨は愛媛県と高知県境の石鎚山遺跡から出ている。極限状況で人が人を喰うのはなかったはずがない。日本軍が南島でそういうことをしていたのも極限状態だったせいだ。)
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カニバリズムと聖餐と差別 2 聖書 : 民族学伝承ひろいあげ辞典
話が横に行ってしまった。
この記事のテーマは差別ではなく、あくまでも「聖餐」である。
この記事のテーマは差別ではなく、あくまでも「聖餐」である。
●聖書『創世記』アブラハム
二十二章
「これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。
アブラハムは朝早く起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。
三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。
アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。」
二十二章
「これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。
アブラハムは朝早く起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。
三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。
アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。」
●「燔祭(はんさい・ばんさい)」とは何か?
イスラエル民族から人身御供の習慣を絶つために『聖書』が書いたイサクの生贄儀式。この習慣はカナン地方ではモレク崇拝やバアル崇拝などで一般的に行われていたという。
イスラエル民族から人身御供の習慣を絶つために『聖書』が書いたイサクの生贄儀式。この習慣はカナン地方ではモレク崇拝やバアル崇拝などで一般的に行われていたという。
イサクの前の世代まで、イスラエルの民は大自然の神に、盲目的に生贄を捧げてきた。それはわが子だったのである。それを「創世記」はやめさせることでイスラエル全土にあった古いユダヤの考えを否定したことになっている。そして代わりに神は子羊を用意する。子羊はここでようやく人間の身代わりの御供として登場する。
●バアル祭祀
ヨシュア王は人々の人肉饗宴を中止させるが、王が詔を出さねばそれは止まらないほど普通に行われていたのである。
ヨシュア王は人々の人肉饗宴を中止させるが、王が詔を出さねばそれは止まらないほど普通に行われていたのである。
先史時代の考古学からは、「ヒトとはヒトを食うサルである」という激烈な表現もあった。
猿人が森から出て、二本足で立ったその瞬間から、ヒトというサルは、木の実だけでは充足せずに狩猟を開始した。その狩猟から得られる動物淡白がわれら人類の脳の発達に貢献したからこそ、人類は生き残った、というわけである。
しかもわれわれは蟷螂のように共食いをして生き延びた。
その何万年の習慣が火と科学を生み出すのである。
だから、そもそもヒトのそうした長い生き残りのための習慣は何万年も続き、むしろ人が人を喰わなくなった歴史はつい最近はじまるのである。
猿人が森から出て、二本足で立ったその瞬間から、ヒトというサルは、木の実だけでは充足せずに狩猟を開始した。その狩猟から得られる動物淡白がわれら人類の脳の発達に貢献したからこそ、人類は生き残った、というわけである。
しかもわれわれは蟷螂のように共食いをして生き延びた。
その何万年の習慣が火と科学を生み出すのである。
だから、そもそもヒトのそうした長い生き残りのための習慣は何万年も続き、むしろ人が人を喰わなくなった歴史はつい最近はじまるのである。
人身御供はもともと小さな村落内での生贄行為であり、縄文から続く長い歴史的な祭りである。だから当初の御供はあくまでも村落内の子供が対象であった。それが女になり、「うなり」「おなり」といったお櫃を頭に置いて神への食事を運ぶ形式に変化する。最初はリーダーの子供が殺され、神に捧げられたのは、その子が村長という強い生命力を持ちえていて、その子の魂が神をなぐさめ、祖霊のよりましとなって地上へ回帰し、新たな生命という繁栄をもたらすと信じられたためである。
『聖書』も『山海経』も『風土記』も、洋の東西を問わず、そうした儀式のあることを記録してきた。
その神は常に荒ぶる神であり、ときに猩猩や大蛇や妖怪の姿をしている。それはつまり中央の観念ではそれが、古い、旧態依然の信仰の神だったからにほかならない。聖邪が常に、中世以降、どこの世界でも神=魔物として表裏うらはらな観念であることの本意はここにある。つまり古い信仰への差別である。
『聖書』も『山海経』も『風土記』も、洋の東西を問わず、そうした儀式のあることを記録してきた。
その神は常に荒ぶる神であり、ときに猩猩や大蛇や妖怪の姿をしている。それはつまり中央の観念ではそれが、古い、旧態依然の信仰の神だったからにほかならない。聖邪が常に、中世以降、どこの世界でも神=魔物として表裏うらはらな観念であることの本意はここにある。つまり古い信仰への差別である。
つまり出雲もスサノヲも縄文の大地神も、そのほかのアマテラスより古い信仰の神々は流竄されたのである。
このように人類は少しずつ、蛇のように脱皮しながら前に進んできた。
このように人類は少しずつ、蛇のように脱皮しながら前に進んできた。
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人肉食風俗について長々と書いてきた。真夏の暑さに少しでも恐怖の風をと思い書き始めたが、少々饒舌になりすぎたようである。そろそろ結語にしたい。
神はそもそも食物に、これは食べてよい、これは食べてはならないといった差別を与えなかった。ヒトが猿人から原人、そして新人ホモサピエンスと進化していく過程のほとんどの時間を、サバイバルするためにヒトはヒトに食べられることは許容されてきた。小ざかしいヒトの英知の中から死生観とその亜種である宗教観が生まれでたことで、ヒトはヒトを食べるのをやめた。その背景には農業と牧畜の安定という大前提が必要であった。しかし、それは裏返せば、農業が気候変動によって崩壊した場合には、また簡単に復活する宿命を持っている。私たちはまたいつどこで人肉食に命運を託すことになるやも知れぬ。しかし生贄だけは復活しないで欲しいものである。

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