大分市の佐賀関半島の大火事が終息しない。
地形的に火事の場所は半島のくびれ部に当たる。
火事現場住所 大分市佐賀関1828 検索地図

位置マークの下が佐賀関港、左の道の突き当り上がったところが椎根津彦神社。
火事、佐賀関に関する詳細解説はこちらを
佐賀関の火事はどこで起きた?場所を地図付きで解説【大分市の大規模火災】
なぜ火事が起きたかの地形地勢的説明はこのリンク先に詳しいので、ここでは佐賀関の古い話をする。
椎根津彦神社とは「しいねづひこ・じんじゃ」と読み、椎根津彦とは別名が珍彦(うづひこ)で、古代の日下部や倭国造やまとのくにのみやつこ氏(倭直やまとのあたい氏)の祖神であると記紀が書いている。
神社の山を越えた裏側には早吸水日女神社(はやすひめじんじゃ)という女神が祭られた神社がある。どちらも珍彦に関係する海人族の神である。
現場にある椎根津彦神社はコンクリートで再建されているのでおそらく全焼は免れたろうと思う。
椎根津彦神社
当ブログの過去記事
いずれも火事現場、あるいは山の向こう側にあり、影響が心配されるが、この半島くびれ部佐賀関港を少し南下すると一尺屋(いっしゃくや)海岸があり、そこには中世の海賊であった若林氏がいた。
https://maps.app.goo.gl/U5scdB2oUtzTXJtWA

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地形的に火事の場所は半島のくびれ部に当たる。
火事現場住所 大分市佐賀関1828 検索地図
位置マークの下が佐賀関港、左の道の突き当り上がったところが椎根津彦神社。
火事、佐賀関に関する詳細解説はこちらを
佐賀関の火事はどこで起きた?場所を地図付きで解説【大分市の大規模火災】
なぜ火事が起きたかの地形地勢的説明はこのリンク先に詳しいので、ここでは佐賀関の古い話をする。
椎根津彦神社とは「しいねづひこ・じんじゃ」と読み、椎根津彦とは別名が珍彦(うづひこ)で、古代の日下部や倭国造やまとのくにのみやつこ氏(倭直やまとのあたい氏)の祖神であると記紀が書いている。
神社の山を越えた裏側には早吸水日女神社(はやすひめじんじゃ)という女神が祭られた神社がある。どちらも珍彦に関係する海人族の神である。
現場にある椎根津彦神社はコンクリートで再建されているのでおそらく全焼は免れたろうと思う。
椎根津彦神社
当ブログの過去記事
①祭神:椎根津彦、武位起神、稲飯神、祥持姫命(さかもつひめのみこと)………椎根津彦命の御姉で稲飯命の御妃。稚草根命(わかかやねのみこと)…………祥持姫命の御子(早吸日女神社考)。 他
②社格:
③創建:不詳 椎根津彦命が倭国造に任ぜられた時?
④由緒:日本書紀:神武天皇東遷の時当地、速吸之門(現在の古宮)にて珍彦の奉迎を受けられる。珍彦は神武天皇より「椎根津彦」と御名を賜わった後、水先案内として付従い、しばしば、勲功をたてた。天皇は大和国橿原宮に於いて、初代の天皇として即位され、天皇は論功行賞を行い、椎根津彦命が倭国造に任ぜられた。これを伝え聞いた里人らがその後、小祠を建ててお祭りしたのが創祀と伝えられている。
(倭国造は大和国の開拓者で奈良最古の氏族 。先祖が椎根津彦(珍彦)で浦島太郎のモデル。古墳では黒塚古墳が想定可能であり、この墓はまた邪馬台国の卑弥呼の弟王という推測もある)
●早吸日女神社(大分県北海部郡佐賀関町)
②社格:
③創建:不詳 椎根津彦命が倭国造に任ぜられた時?
④由緒:日本書紀:神武天皇東遷の時当地、速吸之門(現在の古宮)にて珍彦の奉迎を受けられる。珍彦は神武天皇より「椎根津彦」と御名を賜わった後、水先案内として付従い、しばしば、勲功をたてた。天皇は大和国橿原宮に於いて、初代の天皇として即位され、天皇は論功行賞を行い、椎根津彦命が倭国造に任ぜられた。これを伝え聞いた里人らがその後、小祠を建ててお祭りしたのが創祀と伝えられている。
(倭国造は大和国の開拓者で奈良最古の氏族 。先祖が椎根津彦(珍彦)で浦島太郎のモデル。古墳では黒塚古墳が想定可能であり、この墓はまた邪馬台国の卑弥呼の弟王という推測もある)
●早吸日女神社(大分県北海部郡佐賀関町)
祭神:八十枉津日神、大直日神、三筒男神、大地海原諸神
社格:式内小社
現在この神社が上記椎根津彦神社をも祀っている。
同名の神社は佐伯市蒲江浦にも存在(かわかつ)
記紀に「はやすなと」という海峡が出てくる。狭い海峡の神格化か?場所は兵庫の垂水か佐賀関かで意見が分かれる。社格:式内小社
現在この神社が上記椎根津彦神社をも祀っている。
同名の神社は佐伯市蒲江浦にも存在(かわかつ)
いずれも火事現場、あるいは山の向こう側にあり、影響が心配されるが、この半島くびれ部佐賀関港を少し南下すると一尺屋(いっしゃくや)海岸があり、そこには中世の海賊であった若林氏がいた。
https://maps.app.goo.gl/U5scdB2oUtzTXJtWA

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若林水軍
「若林 鎮興(わかばやし しげおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。大友義鎮(宗麟)から偏諱を受けた。
天文16年(1547年)、若林越後守の子として生まれる。若林氏は元々下野国の豪族で、室町時代初期より前に大友氏に仕えた。豊後国佐賀関郷一尺屋を所領とし、その地理的要素も加わり、大友氏の水軍衆としてその中核を担った」Wiki
「佐賀関半島の「海人(あま)」は、古代からこの地域の歴史と文化を築いてきた重要な存在です。彼らは特に、高級ブランド魚として知られる**「関あじ」「関さば」の一本釣り漁**や、素潜りによる海藻・貝類の採取といった伝統的な漁法を継承しており、その熟練の技は高く評価されています。」
今の佐賀関の漁師たちは彼らの子孫もまだ多い。
水軍の子孫である。
その子孫の中には考古学者の故森浩一がいる。
父親が佐賀関出身であった。
若林水軍以外には火事現場には往古中澤水軍だった大友家臣団の利光としみつ氏や吉岡氏が領地にした時期もある。
水軍 若林 鎮興(わかばやし しげおき)|ひでさん
ゆえに浦島太郎のモデルともいえる椎根津彦がここに祭られたのだろう。なお珍彦は神武東征の時豊後水道で水先案内をした神でもある。日下部氏の浦島はこの神から生まれた海の神だろうか。部の祖人として南は熊本から大分、瀬戸内、大阪湾、若狭湾などに伝承と神社が点在する。
理由は古代の古墳時代末期にヤマトから九州へ大伴家臣団が送り込まれ、その中に日下部靫負集団や的臣(いくはのおみ)らがあって古墳をも越している。そこには必ず弓矢、的、靫の装飾が掘られているからだ。
佐賀関の海人族は倭国造のおそらく家臣団だったろうが、中世に大友氏の侵略で半島に攻めて来て住み着いたのだろう。海部郡の地名は古代からある。
子孫たちの無事を祈る。
今の佐賀関の漁師たちは彼らの子孫もまだ多い。
水軍の子孫である。
その子孫の中には考古学者の故森浩一がいる。
父親が佐賀関出身であった。
若林水軍以外には火事現場には往古中澤水軍だった大友家臣団の利光としみつ氏や吉岡氏が領地にした時期もある。
水軍 若林 鎮興(わかばやし しげおき)|ひでさん
ゆえに浦島太郎のモデルともいえる椎根津彦がここに祭られたのだろう。なお珍彦は神武東征の時豊後水道で水先案内をした神でもある。日下部氏の浦島はこの神から生まれた海の神だろうか。部の祖人として南は熊本から大分、瀬戸内、大阪湾、若狭湾などに伝承と神社が点在する。
理由は古代の古墳時代末期にヤマトから九州へ大伴家臣団が送り込まれ、その中に日下部靫負集団や的臣(いくはのおみ)らがあって古墳をも越している。そこには必ず弓矢、的、靫の装飾が掘られているからだ。
佐賀関の海人族は倭国造のおそらく家臣団だったろうが、中世に大友氏の侵略で半島に攻めて来て住み着いたのだろう。海部郡の地名は古代からある。
子孫たちの無事を祈る。

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