韓国は本来、中国に大きな恨みがある。
その怨念の歴史は日本よりもはるかに古い。
ところが韓国は表面的には日本を責め立ててみせる癖がある。
朝鮮民族が日本人を恨むようになったのは豊臣秀吉からで、家康の頃は仲良くなり、明治時代にまた恨み始め、太平洋戦争後に恨みが爆発しているという流れだろう。
林子平の地図にある竹島や壱岐対馬
その怨念の歴史は日本よりもはるかに古い。
ところが韓国は表面的には日本を責め立ててみせる癖がある。
朝鮮民族が日本人を恨むようになったのは豊臣秀吉からで、家康の頃は仲良くなり、明治時代にまた恨み始め、太平洋戦争後に恨みが爆発しているという流れだろう。
林子平の地図にある竹島や壱岐対馬
「竹島は日本では「竹島」、韓国では「独島」(dokdo)、欧米では「リアンクール島」とよばる。リアンクールは一八四九年にフランスの捕鯨船がこの島を“発見”したときに付けられた名だ。
いまGNISサーチ(アメリカ地名委員会のサイト)でこれら三つの名を検索すると、いずれも所属国が「大韓民国」と出てくる。二〇〇八年の時点ではGNISはここを「どこの国にも属さない領域」と明示していた。ところが、その後の韓国大使とブッシュ時代のライス国務長官との話し合いにより、GNISはここを大韓民国領に訂正した。以来、日本は手を出せないでいる。」
https://1000ya.isis.ne.jp/1491.html
理由がはっきりしているのが竹島である。
上記のように一度アメリカが韓国領にしたからだ。
壱岐対馬に関してはここが詳しい。
「240年代の事実を記録した「三国志」ウィジ東移転によると、対馬島はこの頃から「大麻国」として鬱陵島の傘国、済州島の貞羅国のように反独立的勢力で存在した。 官職名記録により、この当時、大麻国が日本列島の覇権を握っていた山タイ国(ヤマト政権)の間接支配下にあったことが分かる。[2]」日本語が不完全で絵意味不明なところも多い。大麻国とは倭人でが言う対馬、一支のことか?対は「たい」だから「たいま」とも読めはするが?
つまり3世紀にはヤマトが対馬を支配下に置いていた。
しかし、壱岐対馬には倭人も朝鮮伽耶系倭人も共通の中継地として利用していた可能性が高い。
これは任那と言う概念も同じで、はっきり言うと、伽耶は倭人伝が言う「倭の北岸」なのであり、金官伽耶が倭人も住む支店のような場所だったわけで、実は反対に、朝鮮人たちにとっては壱岐対馬はそういう支店だった・・・はっきりいって、当時、半島南部と列島北部九州は共栄圏。国境なき共存地だったと考えたらよいのだろう。民族的も同じ倭族(インドシナ~ボルネオ発祥のホアビニアンの子孫)出自で、言葉も似ており、母は倭人で父は伽耶人の海人族。往古は世界でこういう共有地は多かったはずだ。
そこにはまだ怨念などあり得ない。
竹島問題と壱岐対馬は時代も理由も違う問題なのである。
韓国時代劇のすべてで、倭国より中国諸国からの王への要望や無理難題がちゃんと描かれており、倭国の干渉はあまり描かれない。これはそれらのドラマが今の韓国政府と日本政府の関係良好な時期に作られたからとも思われるし、興行的に日本にもドラマを買ってほしいからかも知れない。地元のほかのテレビドラマがどう日本を描いているかは想像するしかない。
筆者は4世紀に伽耶にいた倭人の氏族は葛城氏だったと思っている。もちろんこの時代の倭の古い氏族は和邇氏や物部氏、あるいは大伴氏などがあって、きっと邪馬台国の時代からいた氏族だろうとは思うが、名前がそのままだったかどうかは知るすべがない。秦氏を連れ帰ったのは葛城卒彦であるなら、彼らが伽耶に詳しかったからだろう。金官伽耶の王だったと言ってよいとも思う。
邪馬台国の卑弥呼がどこにいたかなどわかるはずもないが、彼女は遼東の公孫氏と通じていたのは間違いなく、2世紀から倭は遼東の燕国と通じていた。ところが同じ倭人かどうかは知らぬが、中国の曹操先祖とつきあった倭人もいたし、北海道の縄文遺跡などから中華の遺物らしきものすら出たりする。C型の耳輪も出る。縄文時代からあちこちの倭人は中国や韓半島・・・いやもっと広範囲に流通していたのはもはや否定できないのである。
遼東のとつきあうには舟ではなく大きな船がいるが、奇妙なのは、ヤマトが半島や中国と往来するには、琵琶湖経由で日本海なら新羅の方が近いのに、西側にある百済や燕国とつきあったというのだ。だったら途中で北九州を経る必要があり、壱岐対馬が必要なはずだ。ところが継体大王時代には九州の磐井が新羅と通じ、百済と付き合おうとする継体の邪魔をしたと『日本書紀』が言うのだから奇妙だ。
いまさら『日本書紀』がうそばかりなど、あえて言う必要もないほどあれは偽書なので、どこが嘘かと言えば、漢文で書いてあるということは明らかに中国使節団に日本史を読ませたいからであって、そこにはヤマトが本来の倭国だったと言いたいヒエラルキーがあるのがまるわかりだからだ。
そうしたいということは、つまり裏返せば九州が古くて、つきあいも深かったからにほかならぬ。
もし九州に邪馬台国があって中国に移動したと伝えたいなら、「ヤマトというところに移住して、ヤマト国を作ります」と伝えねばならないのだ。だがそんな史料はない。ないのは中国が三国時代に突入していくさになったからである。ヤマトはそこを逆手に取って正統性を造作しようとしたのだろう。
いまさら『日本書紀』がうそだなどと言う奴がまだいるとは笑える。全員、研究者はそう思って仕事をしている時代だからね。研究者も若返っている。もはや戦後の疑義の時代じゃない。権威たちはみな死んだのだ。渡来だろうと偽書だろうと書いてももう売れない。
当たり前なのだ。縄文交流でさえもが。
遺伝子の時代なんだ。それも核ゲノムだ。今頃Y染色体とかハプロとか言ってるようじゃ20年も時代遅れでしょうに。笑わせないでよ。そんなもん読んでるのは素人ですから。
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理由がはっきりしているのが竹島である。
上記のように一度アメリカが韓国領にしたからだ。
壱岐対馬に関してはここが詳しい。
「240年代の事実を記録した「三国志」ウィジ東移転によると、対馬島はこの頃から「大麻国」として鬱陵島の傘国、済州島の貞羅国のように反独立的勢力で存在した。 官職名記録により、この当時、大麻国が日本列島の覇権を握っていた山タイ国(ヤマト政権)の間接支配下にあったことが分かる。[2]」日本語が不完全で絵意味不明なところも多い。大麻国とは倭人でが言う対馬、一支のことか?対は「たい」だから「たいま」とも読めはするが?
対馬島/韓国の領有権主張
つまり3世紀にはヤマトが対馬を支配下に置いていた。
しかし、壱岐対馬には倭人も朝鮮伽耶系倭人も共通の中継地として利用していた可能性が高い。
これは任那と言う概念も同じで、はっきり言うと、伽耶は倭人伝が言う「倭の北岸」なのであり、金官伽耶が倭人も住む支店のような場所だったわけで、実は反対に、朝鮮人たちにとっては壱岐対馬はそういう支店だった・・・はっきりいって、当時、半島南部と列島北部九州は共栄圏。国境なき共存地だったと考えたらよいのだろう。民族的も同じ倭族(インドシナ~ボルネオ発祥のホアビニアンの子孫)出自で、言葉も似ており、母は倭人で父は伽耶人の海人族。往古は世界でこういう共有地は多かったはずだ。
そこにはまだ怨念などあり得ない。
竹島問題と壱岐対馬は時代も理由も違う問題なのである。
韓国時代劇のすべてで、倭国より中国諸国からの王への要望や無理難題がちゃんと描かれており、倭国の干渉はあまり描かれない。これはそれらのドラマが今の韓国政府と日本政府の関係良好な時期に作られたからとも思われるし、興行的に日本にもドラマを買ってほしいからかも知れない。地元のほかのテレビドラマがどう日本を描いているかは想像するしかない。
筆者は4世紀に伽耶にいた倭人の氏族は葛城氏だったと思っている。もちろんこの時代の倭の古い氏族は和邇氏や物部氏、あるいは大伴氏などがあって、きっと邪馬台国の時代からいた氏族だろうとは思うが、名前がそのままだったかどうかは知るすべがない。秦氏を連れ帰ったのは葛城卒彦であるなら、彼らが伽耶に詳しかったからだろう。金官伽耶の王だったと言ってよいとも思う。
邪馬台国の卑弥呼がどこにいたかなどわかるはずもないが、彼女は遼東の公孫氏と通じていたのは間違いなく、2世紀から倭は遼東の燕国と通じていた。ところが同じ倭人かどうかは知らぬが、中国の曹操先祖とつきあった倭人もいたし、北海道の縄文遺跡などから中華の遺物らしきものすら出たりする。C型の耳輪も出る。縄文時代からあちこちの倭人は中国や韓半島・・・いやもっと広範囲に流通していたのはもはや否定できないのである。
遼東のとつきあうには舟ではなく大きな船がいるが、奇妙なのは、ヤマトが半島や中国と往来するには、琵琶湖経由で日本海なら新羅の方が近いのに、西側にある百済や燕国とつきあったというのだ。だったら途中で北九州を経る必要があり、壱岐対馬が必要なはずだ。ところが継体大王時代には九州の磐井が新羅と通じ、百済と付き合おうとする継体の邪魔をしたと『日本書紀』が言うのだから奇妙だ。
いまさら『日本書紀』がうそばかりなど、あえて言う必要もないほどあれは偽書なので、どこが嘘かと言えば、漢文で書いてあるということは明らかに中国使節団に日本史を読ませたいからであって、そこにはヤマトが本来の倭国だったと言いたいヒエラルキーがあるのがまるわかりだからだ。
そうしたいということは、つまり裏返せば九州が古くて、つきあいも深かったからにほかならぬ。
もし九州に邪馬台国があって中国に移動したと伝えたいなら、「ヤマトというところに移住して、ヤマト国を作ります」と伝えねばならないのだ。だがそんな史料はない。ないのは中国が三国時代に突入していくさになったからである。ヤマトはそこを逆手に取って正統性を造作しようとしたのだろう。
いまさら『日本書紀』がうそだなどと言う奴がまだいるとは笑える。全員、研究者はそう思って仕事をしている時代だからね。研究者も若返っている。もはや戦後の疑義の時代じゃない。権威たちはみな死んだのだ。渡来だろうと偽書だろうと書いてももう売れない。
当たり前なのだ。縄文交流でさえもが。
遺伝子の時代なんだ。それも核ゲノムだ。今頃Y染色体とかハプロとか言ってるようじゃ20年も時代遅れでしょうに。笑わせないでよ。そんなもん読んでるのは素人ですから。

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