BS日テレで韓国歴史劇の「薯童謡 ソドンヨ 」(チャングム、イ・サン、商道などのイ・ビョンフン監督演出)
が再放映中である。タイミング的に現在は真ん中あたりにさしかかって、主人公チャン(武王、扶余璋プヨ・チャン=ドラマのソドン公)が立太子できるかどうかのクライマックスに差し掛かったので、少しこの番組と史実・・・と言っても5・6世紀の事実は日韓中ともに記録が不明確だが・・・違うところを抑えておこうと思う。(ソドンヨだけがSBS制作で、今一つ金がかかってない気もするが)


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韓国時代劇「薯童謠 ソドンヨ」|BS日テレ


まずこの時代は三韓並立時代で、日本は飛鳥時代、中国は隋の頃である。
百済王は26代聖明王の子・27代昌王(=威徳王読み方ウィドク・ワン、本名プヨ・チャン)の時代なので、日本は蘇我氏、推古女帝、聖徳太子(厩戸皇子みこ)の時代。遣隋使の頃と言えばわかりやすいか。

(聖明王は日本での呼称で、韓国では聖王、読み方ソン・ワンで、25代武寧王(読み方ムリョン・ワン、本名扶余璋プヨ・チャン)の子で継体大王と同時代人)



百済は新羅や高句麗と対立と協調を繰り返すが、この時代は聖王が新羅と激しく対立し、結果的に敗北して斬首された百済史上最大の恥辱の時代。当然史実では、威徳も新羅と対立して倭国や高句麗とは協調した時代であるが、ドラマでは新羅とはあまり戦わない状態にし、当然、高句麗、倭国からの援助の話や、昌王が大和の元興寺(最初は飛鳥寺で、がんごうじ、のちの法隆寺。伽藍形式が百済王興寺とそっくり同じ)五重塔建造のために五人の技術者を贈った話も無視されている。ちなみにこの技術者はペルシャ名を持っていたという意見もある(当記事「飛鳥のペルシア人」)人々である。百済も新羅もペルシアとつきあいがあったのは考古学的には認めてもよさそうである・また隋から五人のペルシア(またはバクトリアのようなスキタイ系国家群やトカラ人)技術者が百済に送られたと言う記録もある。

※飛鳥寺(蘇我蝦夷菩提寺)→法興寺→法隆寺 元興寺は伽藍が奈良へ移転して今に至る。
発掘された西院伽藍が飛鳥寺伽藍?いずれにせよ百済王興寺建立は百済威徳王=昌王で、飛鳥寺建設には百済から外国人らしい技術者が贈られた。それは考古学発掘による五重塔基礎部から昌王署名入り仏舎利容器が出たことで確認できた。百済と倭国は新羅対策で手を結んでいて、仏教もこの時に来たことがはっきりした。


「はい、その理解で概ね合っています。発掘された西院伽藍は飛鳥寺の伽藍であり、百済王興寺の建立は百済の威徳王(昌王)によるものです飛鳥寺の建設には百済から技術者が派遣され、五重塔の基礎部分から昌王の署名が入った仏舎利容器が出土したことで、その関係性が確認されました。百済と倭国は新羅対策のために協力関係にあり、この時期に仏教が伝来したことも明らかです。」発掘された西院伽藍が飛鳥寺伽藍?いずれにせよ百済王興寺建立は百済威徳王=昌王で、飛鳥寺建設には百済から外国人らしい技術者が贈られた。それは考古学発掘による五重塔基礎部から昌王署名入り仏舎利容器が出たことで確認できた。百済と倭国は新羅対策で手を結んでいて、仏教もこの時に来たことがはっきりした。 - Google 検索


さておき、
昌王が時の宰相である蘇我(馬子)氏に対して五重塔の下に埋める仏舎利壺や署名入りの箱などを贈ったのは発掘が証明しており、理由はもちろん新羅が中国へ近づこうとしていたからである。

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『日本書紀』虚像としての任那日本府 中央集権への道3 元興寺と王興寺まで : 民族学伝承ひろいあげ辞典

同時に高句麗にも援助を求めねば当時の百済は三国では一番小さく、技術は立派だが実力はなかった。結局、百済王家は天智天皇の時代に滅んで、扶余豊璋(プヨ・プンチャン・日本名ほうしょう、韓国では豊。先祖の璋をはばかって豊としか書かない)らも倭国に亡命し、技術者は近江国、王族は河内国枚方にかくまわれたと考えられる。
藤原不比等4 仏教伝来その2 百済がくれた仏教 : 民族学伝承ひろいあげ辞典



さてドラマには史実上はいなかった人物が何人か入れられている。
まずは『日本書紀』にしか記録のない威徳王第一子の阿佐太子(アジャ・テジャ)は『日本書紀』にしか記録がない人で、いたかどうかがわからぬ人。『日本書紀』には日本に来て聖徳太子の絵を描いたとされ、太子というより画家だとされることが多い。

このドラマは『日本書紀』『三国遺事』『隋書』などの数少ない史料を参考に、わからぬものは補い、創作してできているわけである。

ドラマの相関図
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モンナス(木羅須)博士・・・苗字は木羅なので氏は木氏である。つまり『日本書紀』などが書く蘇我氏の先祖である木羅満智(もくら・まち)=蘇我満智?の先祖に当たる。名は須。木羅須でモンナスと読むらしい博士。百済を技術立国だったとしたい作者の創作した技術力の象徴的人である。主人公チャンの母ヨンガモの婚約者。ヨンガモも創作の人。

そもそもチャン(武康太子・ソドン公)そのものが創作されている。武王は確かにいたが、日本の歴史では武王は威徳王の弟で叔父である恵王の子孫であり、中国では威徳の子となっていてはっきりしていない。当の韓国には史書記録がなく、墓だけが海中に沈んでいる。本名はプヨ・チャンなので、そこはドラマも採用してある。

サテッキル・・・『隋書』に寄れば百済の八大姓は沙氏、燕氏、賛氏、解氏、貞氏、國氏、木氏、苗氏となっている。上佐平・沙宅己婁から創られた想像上の人物。沙宅氏は百済の氏族名。上佐平ならば王の弟と同じ地位になってしまうから、ただのあだ名にしてあるようだ。『日本書紀』にだけ登場するこの人物は新羅王に使えたとされているが?それだけ採用してあるような。

彼が出てくる記事
【大姓八族】『隋書』百済伝 参考
行宋元嘉暦、以建寅月為歳首。國中大姓有八族、沙氏、燕氏、賛氏、解氏、貞氏、國氏、木氏、苗氏。婚娶之禮、略同於華。喪制如高麗。有五穀、牛、豬、雞、多不火食。厥田下濕、人皆山居。有巨栗。毎以四仲之月、王祭天及五帝之神。並其始祖仇台廟於國城、歳四祠之。國西南人島居者十五所、皆有城邑。

『日本書紀』巻十九欽明天皇四年(五四三)
十二月◆十二月。百濟聖明王。復以前詔普示群臣曰。天皇詔勅如是。當復何如。上佐平沙宅己婁。中佐平木州麻那。下佐平木尹貴。徳率鼻利莫古。徳率東城道天。徳率木州昧淳。徳率國雖多。奈率燕比善那等。同議曰。臣等禀性愚闇。都無智略。詔建任那。早須奉勅。今宜召任那執事。國國旱岐等。倶謀同計。抗表述志。又河内直移那斯。麻都等猶住安羅。任那恐難建之。故亦并表乞移本處也。聖明王曰。群臣所議。甚稱寡人之心。

十二月に、百済の聖明王、復前の詔を以て、普く郡臣に示せて曰はく、「天皇の詔勅、是の如し。当復如何にせむ」といふ。上佐平沙宅己婁・・・(中略)・・・、同議りて曰はく、「臣等、稟性愚に闇くして、都て智略無し。任那を建てよと詔したまふ。早に勅を奉るべし。・・・(以下略)

こうした時代の離れた記事から切り取って創作した人物。そもそも沙宅氏は百済氏族で、新羅の人が名乗ってもすぐ素性が知れてしまう氏族名である。朝鮮の氏姓はそのように氏で素性がすぐわかる仕組みになっている。ドラマのサテッキルの本名は金で、これは新羅の氏姓。

王冠・・・新羅の王冠は歩揺が揺れていて、これは実はイランの王朝様式であり、百済の王冠は歩揺ではなく二山式だったはずだ。継体大王も二山式、武寧王も二山式である。

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上百済、下新羅
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新羅の様式は藤ノ木古墳、バクトリアやイランに同じようなものがあり(ティリア・テぺ遺跡など)、イランへは新羅の姫が嫁入りした記事がある。理由は中国をはさみこんで牽制するため。
一挙掲載 スキタイとアイアンロード 1 : 民族学伝承ひろいあげ辞典



ソドンヨ・・・武王が作った歌謡というのは伝説でしかなく史実は不明で、武王は新羅の王女とは結婚もしていないし、新羅の女王で三女ソンファ姫というのも創作、または中国記録にしか出ていない。そこには次女の善徳女王の妹とだけある。敵対しているはずの新羅との政略結婚で和議が・・・などはまったくの虚偽創作である。

政治的に、このドラマが作られた時代は韓国は日本寄りのノ・ムヒョンであるので、こんなドラマが作れたと考えるべきだろう。反日で、新羅至上主義の大統領だったら絶対無理である。新羅系韓国人は百済も高句麗も下に見て差別してきたからだ。

ウヨン姫・・・百済恵王(威徳王の弟、チャンの叔父)に女子はいない。


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この『日本書紀』の百済王系図の、恵王(惠王。へワン)は威徳王の弟で小心な愚者に描かれるプヨゲ、法王(ポプワン)が尊大でおろかに描かれるプヨソンである。そして書紀には武王はプヨソンの子となっていて、威徳(昌王)に子はいないとされている。これは日本史料の系図である。

(『隋書』百済伝には「昌死、子余宣立、死、子余璋立。」とあり、昌(威徳王)の子の宣(法王)、その子の璋(武王)という系譜を記しており、恵王の存在は認識されていないようである。『日本書紀』には欽明天皇16年(555年)2月に聖明王(聖王)が亡くなったことを知らせるために威徳王が送った使者としての名で現れ、威徳王の弟であることを記している。『三国遺事』では威徳王の子とし、別名として献王という。Wiki恵王)

中国では武王は威徳王の子となっていて、韓国には詳しい資料が残存しない。なぜならそれは仕方がないというのは、三国が争っていたのだから、滅ぼした国の歴史は消されて当然だからだ。いわゆる焚書されたのである。

だからドラマも日本と中国の資料に従うしかないわけで、双方をうまいこと取り込んで組み合わせてある。つまりソドンヨというドラマは歴史ドラマと言うよりも時代劇、創作的理想劇というほかない。最近では日本の大河ドラマもそういう感じになってきてしまっており。視聴者・視聴率を意識してより面白くして、史実は無視が流行ってきているから何も言えないが。大河ももはや時代劇というほかなくなった。


百済王朝始祖系図で百済成立の前提を知る。
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始祖王である朱蒙(チュモン)は、ある東アジアに共通する始祖王誕生系譜で生まれてくる。
それは中華の始祖であろうとも、日本の神武天皇も、新羅の王も、すべて同じ方程式になっている。


中国『大越史記』の百越始祖系譜を図式すると以下のようになります。

炎帝神農氏・・
・・三世孫帝明
   :・・・・末子江陽王
  南嶺遷女山岳 :・・・貉龍君
        洞庭君女神龍 :・・・雄王百男
              帝明夜叉孫嫗姫

始祖神ー三世の孫と龍神ーつなぎ王とおばー人間始祖王の誕生という形式である。


では日本の神話の系譜は、

天照大神・・
 三世孫ニニギ命
   :・・・末子山幸
 大山積娘此花咲也 :・・・瓊瓊杵尊 
       海神の娘豊玉姫 |・・神武   
              伯母玉依姫

(系図はPCで、あるいはスマホの場合はPC画面表示をやめると正確に表示されます)

まったく同じである。                               
二つの系図を要約するとどちらも・・・

天祖の三世孫が山(岩石)の神の娘を娶り、その子が今度は海の神の娘を娶り、つなぎの王が生まれ、金属のイメージを持つ「近親者」(おば)を娶って最後に始祖王が生まれる。

これはベトナム(元は南越国、)新羅、百済。高句麗などすべての東アジア国家に共通する。つまり基本は中華の帝王が神命により生まれたと言う帝王誕生神話のコピーであることが明白なのだ。言い換えると、『日本書紀』がいかに中華を意識して書かれたかということなのだ。
序論 東アジアの始祖系譜は中国古代系譜のコピー 1 : 民族学伝承ひろいあげ辞典

つまり始祖王神話などはみな、時の強力王権国家に追随してできていいるわけで、なにひとつ自慢できるものではない。日本などはいまだに、アメリカが作った憲法に追随しているのだから批判できるはずもないだろう。

これは神話の話であり、実際には百済は扶余族が作った国であり、それは高句麗も同じ。どちらも扶余族だが新羅だけは辰韓起源の不明な異民族の国家である。想像するに北方民族つまりモンゴルやスキタイ系民族かと思える。今の韓国やホクセンは新羅民族が作った朝鮮であるが、民族はひとつではないということは知っておく必要がある。だからいまだに中でごちゃごちゃがあるのだと。


さて、阿佐太子がいたかどうかは実は聖徳太子にも大きくかかわる問題であろう。
なぜなら聖徳太子像とされている唐本御影(聖徳太子二王子像)の作者を『日本書紀』は、来日していた阿佐太子であると書いてしまっているからだ。そんなはずがないだろう。阿佐という王子はいないはずなのだから。(こういうのは国の事情と中華への見栄えのよさなどが影響する。百済では継体大王とその子供二人が死んだといった記事もある。これも当時の事情から創られたのだろう。)

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しかし中国や韓国にないからといって、日本にはあるのだから、日本の歴史家は無下にいないとは言えないわけで、絵があるのだからいたに相違ないとしてきた。ところが御影の衣装は飛鳥時代のものではなく、唐の衣装ではないかとされだした。こいつは困った。そこで聖徳太子疑問を学者は無視を決め込むことになった。異説は無視・・・じゃないと先達権威の沽券にかかわる、学閥の沽券にもかかわる・・・ゆえに結論は出せないまま。むにゃむにゃである。

筆者などは聖徳太子とはまさか阿佐のことなんじゃないか?などとさえ疑いたくなる。だって百済王豊璋には藤原鎌足説があるくらいだし。いずれにしても御影はあとの時代の作品で阿佐が掻いたのではない。衣装から言えば奈良時代に聖武天皇時代の誰か・・・最有力は不比等の娘で聖武の妻である藤原光明子が、渡来絵師に描かせたので間違いはない。なんとなれば聖徳太子と言う存在すら、彼女の理想像、夢にでも見た創作、もしかしたら阿佐太子をモデルにして?だった可能性は高い。(笑えるかな?)






閑話休題







さて百済王家が日本に亡命してきたのは天智天皇白村江敗北直後である。その先祖が善光という人物で、彼は百済最後の王とされる31代義慈王の子であるらしい。日本に伝わる亡命百済王家の系図はこれだ。

QD01 百済王善光

なお来日した百済系氏族はいくつかに分類され、中に三松系などいくつかあるが、大きくは百済王神社と寺がある枚方市宮之阪には王族が入ったようで、そこはもとは物部守屋の物部氏(肩野=交野)物部氏の領地だったところだが、守屋の変により、蘇我氏にぶんどられ(とは言っても蘇我馬子の妻は物部太姫だったわけだが)、その後乙巳の変で藤原氏がぶんどり、結果的に百済王氏は藤原氏と政略結婚しているし、聖武天皇の大仏建立の際には百済王敬福(きょうふく)が東北出羽の砂金を献上することで地位を安んじられもした。この時、銅を献上したのは山口県美祢市の銅山(長門国長登銅山)だが。開発者はおそらく豊前の秦氏ではなかったか?

さて面白いのは豊璋(プンチャン)の名前に先祖の大王だった武寧のあざなである璋(チャン)が使ってあると日本で書かれていることだ。普通、先祖の字は使うなら二文字の名にするのでそれはよいが、それにしても良字である豊を付けたのがどうもあやしく、これは日本だけの意図的なことかなと思っていたら、案の定、中国では彼は余豊と書かれていた。余は中華風週で貴族以外は苗字は一文字なので扶余のフをはずしたと考えていいが、名の豊だけとは?といぶかってしまいそうになる。やはり先祖が璋なので中国でもはばかってのことか?日本では「とよ」と読むこの漢字だが、さてさて藤原氏はもとは中臣氏で、読みは「なかとみ」なのだ・・・。豊は富と同じ豊富で豊かさに富むという意味がある。

いずれにせよ、この百済扶余豊璋に、天智天皇は中臣鎌足同様に名誉の称号「大織冠 だいしょくかん」を与えており、天智がこれを与えたのはこの二人だけだと書いておこう。しかも鎌足には同時に藤原姓が与えられたと『日本書紀』がはっきりと書いている。筆者はここに藤原家百済王家説の発祥を観るのである。



武王の墓

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武王のお墓は海中に埋もれている。
地元では倭国ににらみを利かせてわざわざ日本が見える海に作ったと解説しているが、当時の百済は日本とは友好状態であり、むしろ倭国に技術や仏教を供与するほど倭国の武力を期待しており、武王が倭国を敵視するはずがないのだ。


七支刀(しちしとう)
ドラマでは17代近肖古王(きんしょうこおう;クンチョゴ・ワン)から伝わった製造スピリッツで武王たちが作ったかのようになっているが、作成したのはまさに近肖古王の時代だとされる。年代差は250年もある。つまりドラマ上のうそだ。そして現物は日本にしかない。

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この奇妙な刀は祭祀用で、実用性がないからドラマで王が決まるとき使うのだろうが、それにしても韓国になくて日本にある。石上神宮に国宝としてうやうやしくも保管されている。銘文が刻まれており、
「泰和四年(369年)に百済の王族が「七支刀」を造り、多くの兵士を退ける力を持つ刀として、侯王に相応しい」とある。

阿佐が持ってきた?いない人は持ってこれない。あるとしたら白村江敗北後に百済王善光が?それはあり得る。ならばなぜ石上に?なぜ百済王神社ではないのか?

持ち込んだ時代に
1 百済に倭国の援助を必要とするわけがあり、
2 そのとき倭国で祭祀と武器管理を司った氏族が宰相クラスのトップ氏族で、
3 百済のものは新羅か高句麗が奪い、破棄した

そういう理由が合致するとすれば、近肖古王の時代西暦350年代なら・・・日本は古墳時代で・・・
大王の時代で、藤原や蘇我はいないので・・・古いのは葛城王家、物部王家くらいしかありえず、それはそのまま4世紀の日本の王権であろうとなるので・・・3世紀後半の邪馬台国時代の次の王が・・・物部王朝か葛城王朝か、でないいならもっと古い2世紀からの筑紫王権か2世紀半からの吉備王権しかないとなり・・・では卑弥呼の直属が物部氏だったら七支刀を受け取ったのは「邪馬台国日本を受け継いだだろう卑弥呼の宰相・・・筑紫の難升米の子孫が物部氏であろうか」などと妄想してみるKawakatuなのであった。小説なら面白いかも知れぬ。




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