縄文時代末期、初めて九州などにやって来たのは伽耶の人々だったはずだ。
なぜなら朝鮮半島で敗北したのは大伽耶の国々だったからだ・・・。
参考yamaren20-035.pdf
このPDF文書によれば、
「伽耶を知れば日本の古代史がわかる」 コ・ジュンファン著の資料から引用した伽耶諸国が最初に鉄を利用し金官伽耶になる。この「金」とは広く鉱物を指す。朝鮮には金を姓とする氏族が非常に多いが、キム氏は新羅でも栄えた。しかし伽耶諸国は新羅(当時は斯羅)と隣接したため、いざこざが絶えなかった。やがて戦となり伽耶諸国は衰退して王族は海を隔てた倭へ逃れることになる。
そして王家を建てたかどうかは不明だが、PDF氏はそうだと書く。
その真偽にはまだ証拠が足りぬが、半島諸国の中で歴史的には一番最初に伽耶の人が日本に来るのは間違いない。次に百済と高句麗が滅びて逃げてくる。
さて、それ以前に倭人は存在したわけなので、倭人の成立はそれよりも早い。
すると魏志などが見た倭人とは伽耶人だけとは限らない。伽耶滅亡以前から海峡を往来する人々はいわゆる海の民であるから、半島南岸(倭の北岸(魏志))から人が来ていたのは縄文晩期からだったはずなのだ。
もっとも、伽耶は民族複合国家だったので、中には朝鮮民族以外の人も混じっていたはずだ。中華の渤海沿岸の人々や、北東部の黒竜江あたりの民族も、九州以外ならこれたはずだ。
それらが漢の滅亡で九州から東へ。大和にも入り込み、3世紀には国家が生まれただろう。
こんなせせこましい、しかもまだ中心部が大和川氾濫の湿地帯だった大和の盆地に彼らは入る。
大阪湾もこういう湿地帯で、外からの大きな船は容易には近づけない。
だからここを選んだのは間違いない。
なにしろ本国で敗北して、いくさはこりごりしていた連中だからだ。
ヤマトの倭人が弧文をステータスにしたのも命の大切さを知っているからだ。
クサカエにやってきた彼らが目の前の生駒山を避けて通路を求めれば結果的に大和川河口しかない。
そこを小舟で抜ければ大和盆地に至るわけである。そしてそこに隠れ住むには東側の山々のふもとしかなかった。だから纏向はそこにできる。
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なぜなら朝鮮半島で敗北したのは大伽耶の国々だったからだ・・・。
参考yamaren20-035.pdf
このPDF文書によれば、
「伽耶を知れば日本の古代史がわかる」 コ・ジュンファン著の資料から引用した伽耶諸国が最初に鉄を利用し金官伽耶になる。この「金」とは広く鉱物を指す。朝鮮には金を姓とする氏族が非常に多いが、キム氏は新羅でも栄えた。しかし伽耶諸国は新羅(当時は斯羅)と隣接したため、いざこざが絶えなかった。やがて戦となり伽耶諸国は衰退して王族は海を隔てた倭へ逃れることになる。
そして王家を建てたかどうかは不明だが、PDF氏はそうだと書く。
その真偽にはまだ証拠が足りぬが、半島諸国の中で歴史的には一番最初に伽耶の人が日本に来るのは間違いない。次に百済と高句麗が滅びて逃げてくる。
さて、それ以前に倭人は存在したわけなので、倭人の成立はそれよりも早い。
すると魏志などが見た倭人とは伽耶人だけとは限らない。伽耶滅亡以前から海峡を往来する人々はいわゆる海の民であるから、半島南岸(倭の北岸(魏志))から人が来ていたのは縄文晩期からだったはずなのだ。
もっとも、伽耶は民族複合国家だったので、中には朝鮮民族以外の人も混じっていたはずだ。中華の渤海沿岸の人々や、北東部の黒竜江あたりの民族も、九州以外ならこれたはずだ。
それらが漢の滅亡で九州から東へ。大和にも入り込み、3世紀には国家が生まれただろう。
こんなせせこましい、しかもまだ中心部が大和川氾濫の湿地帯だった大和の盆地に彼らは入る。
大阪湾もこういう湿地帯で、外からの大きな船は容易には近づけない。
だからここを選んだのは間違いない。
なにしろ本国で敗北して、いくさはこりごりしていた連中だからだ。
ヤマトの倭人が弧文をステータスにしたのも命の大切さを知っているからだ。
クサカエにやってきた彼らが目の前の生駒山を避けて通路を求めれば結果的に大和川河口しかない。
そこを小舟で抜ければ大和盆地に至るわけである。そしてそこに隠れ住むには東側の山々のふもとしかなかった。だから纏向はそこにできる。



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