「かつて宇陀郡宇太町平井鎮座の神社では人身御供をあげた遺風が今に存してゐるのを聞いた私は、今年の春その地に至って祭典の時の所謂『人身御供』といはれる御供物の話を聞いた。それによると白い米の粉を固め、その粉をまぶしたもので、これが人體のうづくまってゐる状を現はしたものだと云ふ。所が之は人身御供の遺風でもなんでもないが大變面白い事が存してゐる事がわかった、即ち昔は米の粉をシトミ(粢)と稱して之を食したもので、勿論神にも供へたもの、所が之は其の後餅や團子(団子)をこしらへるやうになると共にシトミそのものを供へる風がなくなった、それを平井の神社では昔そのまゝの言葉を保存してゐるので非常に面白い事だと思うてゐる。
このシトミのゴク(御供)を地方によっては白餅ともいってゐる。宇陀郡御杖村大字神末では土地の山ノ神に米をスリ鉢ですって米の粉餅を作り固めて木の葉に盛りてお供するといふ。白餅は伊賀附近から東にかけていはれる由である。」
このシトミのゴク(御供)を地方によっては白餅ともいってゐる。宇陀郡御杖村大字神末では土地の山ノ神に米をスリ鉢ですって米の粉餅を作り固めて木の葉に盛りてお供するといふ。白餅は伊賀附近から東にかけていはれる由である。」
シトミが米の粉、あるいはそれで作った餅そのものを指すとわかった。
同音異文字に「蔀」があるが、こちらは寝殿造りに用いられた格子の窓(板に格子を貼ってあり、上下に開閉でき、日光や雨風を防ぐ窓)。大阪の蔀屋地名はこの寝殿造りの屋敷が多かっために地名となったか?
奈良の吉野近くで人身御供が、米粉の団子を人間の身代わりとして、「ひとみごくう」であるところが「シトミゴク」と変化したという例証であるが、シトミという餅が、実は人の身代わり・・・代用品であり、つまり餅が生贄・・・のちのニエ、供物となっていったとなる。結局、団子・餅をシトミと呼んだのは、もともと人身御供の「ひとみ」から作り出した言葉だったということになるのかも知れない。
もしや蔀の方も、すきまから外の人を見るという「人見」=「瞳」に関係があった言葉かも知れない。また「しとみ」が格子そのものを指す場合もあるゆえに、格子=牢屋となるか。牢屋があった場所か?
あるいは人身御供があった場所を忌み、文字を代えて蔀屋としたか?いずれにせよ馬犠牲の出た蔀屋東遺跡があるから、こうした生贄に関した地名かも知れない。
あるいは人身御供があった場所を忌み、文字を代えて蔀屋としたか?いずれにせよ馬犠牲の出た蔀屋東遺跡があるから、こうした生贄に関した地名かも知れない。
ご存知の方はご連絡下さい。
「宮城二重櫓の下から白骨や古銭が出たので、やれ人柱だの、墓地であったのだろうだの、工事の際の傷死人を埋めたのであろうだのと、いろいろの説がある様だ。自分は単に新聞の報道でそれを知ったばかりで、まだ実地を知らないから、無論これに対して自信ある判断を下す事は出来ぬ。或いは自分の見た新聞の報道なるものが、幾分潤飾されていたものかもしれぬ。或いは誇大されていたのかもしれぬ。しかしながら、少くも自分の新聞を見て感じた限りでは、やはり所謂「人柱」の意味で埋められたものと解する。よしやそれが生埋めにしたのであったにせよ、或いは自殺し、もしくは自殺して後に埋めたのであったにせよ、或いは仮りにたまたま傷死した人をそこに埋めたのであったにもせよ、これをその建築物の下に埋めたという事が、ただちにこれを神に捧げた意味をあらわしているのではなかろうかと思う。いわんや古銭が伴っていたという事実あるにおいてをやだ。
建築物を建てるに際しては、まず以て地鎮祭を行うのが例である。地鎮祭はすなわち地の神を祭るの行事で、それには何らかの供物を捧げるのが例である。先年奈良の大仏殿修繕の際に、須弥壇の柱の下から黄金造りの刀剣二口、鏡鑑、珠玉、その他種々の貴重な物品が発見された。興福寺の須弥壇からも珠玉その他種々の物が出た。これらはいずれも地鎮に際して、地の神に捧げた供物であらねばならぬ。後世これを手軽にする場合に、これに代うるに銭貨を以てする習慣の起ったのは、神社に賽銭を供えると同じ意味である。賽銭はすなわち供物代で、もとは神に奉仕するものに銭貨を委托して、適当なる供物を調進して捧げてもらうの意味である。そしてそれが転じて、地鎮の場合にもただちに銭貨を埋める事になる。この場合普通に永楽通宝を選ぶ様であるが、それは「永楽」という文字を喜んだに過ぎないので、必ずしも永銭とは限らない筈だ。
人柱ということは、やはり供物として生きた人間を神に捧げるという意味にほかならぬ。すなわち地鎮の際における
物
物自分の解するところによれば、もともと人身御供とは人間を食物として神に供するの義ではなくて、神に仕えしむべくこれを贈呈するの義であろうと思われる。戦闘に際して捕獲した敵人を奴隷として使役することは、古代において一般に行われたところである。特に婦女の少い社会にありては、しばしば隣国を襲撃して婦女を掠奪する。これを掠奪して殺して喰うのではなくて、これを妻妾とし、もしくは侍女として使役せんが為である。我が国においても今なお往々僻地に存する所謂掠奪結婚の遺風の如きは、かつてかかる事の我が国に行われた証拠と解する。そして敗戦の際に敗者が媾和の条件として、もしくは兇暴なる敵人の襲撃から免れんが為に、合意的に人間を敵人に提供する事があったならば、これすなわち人身御供でなくて何であろう。勿論この場合敵に提供するものは、必ずしも人間とのみは限らぬ。敵の要求する物品またこれを辞する事は出来ない。漢の天子が匈奴の襲撃から免れんが為に歳幣を約し、婦女を送ったというのはすなわちこれである。かの有名な王昭君の故事の如きは、たまたまこれが犠牲となった可憐なる一つのローマンスにほかならぬのである。
同じ人間同士であっても、その生活の風習を異にし、或いは民族を異にする場合において、これを人間以外の鬼神ででもあるかの如く語り伝えられる場合がある。
ことに日常の生活に困難な社会にあっては、必要上産児の制限が行われる。適切に云えば育児の制限が行われる。所謂「間引き」が行われるのである。そして多くの場合において、その間引きの犠牲となるのは女児であるから、自然にその社会には婦女の払底を生ずる。これは今も内地の生活に困難な漁村などにおいて、往々実見せられるところである。よし今日その風習はなくなっていても、古代にそれがあった所は少くない。そしてそんな所には必要上妻を隣人に求めて、往々掠奪結婚が行われたのであった。酒呑童子が都の婦女を掠奪したと言われるのも、実際はやはり山住まいに婦女が欠乏であった為である。彼はその掠奪した婦女を侍女とし、妻妾として栄華を極めた。そしてそれに倦きた場合にはこれを殺して喰ったと伝えられる。これは彼が伝説化して鬼となっているが為である。勿論彼らの必要とするものは婦女ばかりではない。生活上必要な物資もまた遠慮なくこれを掠奪するのである。凶暴なる山人や海人はその脅威されたる生活を緩和せんが為にしばしば出でて里人を襲撃する。それが伝説化すれば戸隠山や鈴鹿山の鬼神となり、鬼が島のお話ともなる。そして平素その襲撃に悩まされた隣接村落の人々が、その山人や海人の掠奪から免かれんが為めに、なお漢が匈奴に歳幣を約したが様に、毎年一定の物資や婦女を彼らに供給するという様な事も、村全体の平和の為には我慢せねばならぬ場合もあったであろう。かくて彼らが姦鬼邪神と呼ばれ、はてはそれが伝説化せらるるに至っては、幣物とともに妙齢の婦女を人身御供として白木の唐櫃に蔵め、暗夜に社殿に送るという俗話も起って来るのである。
自分は今昔物語その他の古書に見ゆる人身御供の話を以て、事実そんな事があったとは信じえない。しかし神が時として人間を犠牲として要求するという思想が存在した事は、到底これを否定し難いのである。突然海上で風波の難にあい、舟とともにこれに乗ったすべての人々の生命が奪われる

生きた人間に対して提供せられる犠牲は生きたままの人間で、或いはこれを奴婢とし、或いはこれを妻妾とするのであるが、既に伝説化して人間社会以外に脱出し、鬼神或いは妖怪変化の類となっているものに対しては、生きたままの人間では間にあわぬ。出没自在の妖怪変化或いは鬼神の類にあっては、地上にあってその行動に甚だしい束縛を免れざる人間を伴うことが出来ぬ為である。ここにおいてか人身御供となり、人柱となれるものは、必ず死して人間界の束縛から脱離することを条件とする。なお死者に対して殉死者があると同一思想に基づくものである。殉死者は決して死者の食物とならんが為ではない。なお生前においてこれに仕えたと同じ様に、死後なおその左右に侍して、これが使役に供せんが為である。我が国においても古代には殉死の風習があった。垂仁天皇これを禁じ給うたと伝えられてはいるけれども、後にもなおそれが事実上行われていた事は、大化の改新においてさらにこれを禁ぜられた事によって明らかである。殉死の場合には或いは自ら進んで身を供したものもあろうが、多くは嫌がるものを絞殺してこれに
ここにおいて自分はさらに飜って宮城二重櫓の白骨について考えてみたい。ここに一つの特殊の建築物の下から数体の白骨が古銭とともに発見されたというのは事実である。しからばこの事実をいかに解すべきかが当面したる問題である。墓地説もあるらしい。傷死者を埋めたという説もあるらしい。しかしその伴える古銭が寛永通宝鋳造以前の通貨であって、その埋葬がそう古いものであるとは考えられぬ事において、墳墓説は到底否定されざるをえぬ。何となれば、その時代に墓地に普通の屍体を埋葬するにおいて、単に通貨のみを副葬して、他に何物をも伴わぬという事実のあるべくも思われぬからである。勿論自分は親しくそれを調査したのではない。したがって古銭と白骨とがどんな関係で発見されたかを詳かにせぬ。或いは別々のものであったのかもしれぬ。しかし既に白骨が甚だしく腐蝕されずによく保存されたという事から考えると、もしそれが墳墓であったならば、必ず多少の木棺存在の形跡があるとか、甕棺が存在するとかいう事実がなければならぬのではあるまいか。またそれが墓地であり、しかもかく局限されたる場所から多数の白骨が発見される様であったならば、埋葬の深さは通例そう深いものではないのであるから、築城工事に際してそれに心付かぬという様な事もあるまじく、既にそれに心づいた以上、それをそのままにして上に厚く盛り土をなし、その上に神聖なるべき城櫓を建築したとも考えられないではないか。
或いは傷死者の多かったという記録によって、それをそのままその場所に埋めたというならば、これはただちにその死者を人柱に応用したものと解せねばならぬ。何となれば、屍体は不浄として忌避されたものであった。したがってそれを単に埋葬の意味を以て神聖なるべき建築物の下に埋めらるべき筈はあるまじき事である。ただそれを地神に捧げ、或いはそれを城櫓の永き守りとなすと想像する場合においてのみ、その埋葬の理由が肯定せられるのである。しからばそれはただちに人柱でなくて何であろう。
しかしそれが既に人柱である以上、たまたま生じたあり合せの屍体をそれに応用するという事は、神に対する誠意を披瀝する意味においていかがであろう。永代を期するこの大城郭の築造において、そんな所謂間に合せが行われたとは信ぜられない。昔の所謂人柱とか人身御供とかいうお話は、多くは伝説に過ぎないものであって、その伝うる如き事実が果して存在しなかったにしたところで、さらにこれを死を見る事帰するが如く、甚だしくこれを重大視しなかった武家時代の思想からこれを考えてみてはいかがであろう。殉死という事は大化に禁じられた以来において、そう引き続き行われたものとは思われない。しかしながら武士の間にはそれが再現された。戦場において主人が戦死した場合、それが到底免れないのであったと云えばそれまでだが、或いは自暴自棄に陥ったと解すればそれまでだが、ともかくその子弟従者がその父兄主人の死に殉ったものは少くなかった。そして平和の時代においてもこれが引き続き行われた。将軍が死すれば大名が殉死する。大名が殉死すればその家臣が殉死する。その殉死者にさらに殉死者がある。仙台に遊んで瑞鳳殿に参拝し、かの伊達政宗の殉死者の墓標の並樹の如く列をなせるを見るものは、何人もその当時の武士の死を軽んじたることについて、一種の感慨を催さぬものはないであろう。幕府はその弊に堪え兼ねてこれを禁じた。しかし大名の間にはなおそれが行われた。津軽家の如きは主家の子弟の死についてすら殉死があった。かくの如きの時代において、永世を期すべき城郭の建築において、ことにその工事困難にして、しばしば崩壊して多くの人命を損した様な場合において、地神に供せんが為に「伝説上の人柱」が実現されたと想像する事は、最も合理的なる解釈ではあるまいか。いわんやこれが通貨を伴い、明らかに地鎮の行事が行われた事を証するものあるにおいてをやだ。
人身御供と人柱と、それは人を殺して神に仕えしめる意味のものである。なお死者に対する殉死と同じ意味のものである。神がそれを食物とするという思想は後の転訛であらねばならぬ。そしてその殉死が盛んに再現せられた時代において、人柱の実現さるるという事は当然の成り行きである。自分は問題の白骨についてこの以外に合理的の解釈を見出しえぬ故にあえてこれをいう。」
(大正十四、七、十一、奥州岩谷堂の客舎において)
底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社
2008(平成20)年1月30日初版発行
初出:「中央史壇 第一一巻第二号生類犠牲研究」
1925(大正14)年8月
入力:川山隆
校正:しだひろし
2010年9月4日作成

八岐大蛇やまたのおろち神話
2006年04月26日 02:36
大林太良が記録した長江南域の大蛇神話。『捜神記』
「東越の庸嶺(福建省)の西北の湿地に大蛇がいた。
長さ七,八丈、大きさは十余抱えにもおよんだ。
大蛇は誰かの夢や巫祝を通して「少女のいけにえを要求した。」
毎年、役人たちは奴隷の生んだ子や罪人の娘を捜し出しては大蛇に捧げ、その数は合計「九人におよんだ」。将楽県の李誕の家には六人の娘がおり、寄(き)という末娘がいけにえを志望してきた。
寄はよく切れる剣を懐にして、蛇を噛む犬をともなって八月一日の朝、蛇の洞窟近くの廟におもむき、中に座った。
あらかじめ用意した蒸し米で団子をこしらえ、それに密と煎り麦の粉を混ぜ合わせたあんをかけ、穴の中に置いた。
匂いに誘われて出てきた大蛇に犬が噛みつき、寄は剣で斬りつけた。
大蛇は庭に出て死んだ。
越王はこれを聞いて寄をきさきに迎え、父を知事にした。」
記紀神話のネタ元を探る2 参考資料と文献 : 民族学伝承ひろいあげ辞典
人から獣・かたしろへ。神事生け贄の変遷記述 : 民族学伝承ひろいあげ辞典
兵庫県篠山市沢田・八幡神社・鱧切祭・・・人からハモへの変遷。
宮崎県高千穂町・高千穂神社・猪掛祭・・・人からイノシシへの変遷。
岡山県津山市一宮・中山神社・猿神退治譚・・・「さてそれより後(生け贄を食らっていた猿神を退治してのち)は、すべて、人を生贄にせずなりけり。其後は、その国に猪、鹿をなん生贄にし侍りけるとぞ」(『宇治拾遺』)
中山神社ではかつて「神鹿祭」が行われていたと『作陽志』にある。
岩手県花巻市葛・諏訪神社・・・葛氏とは中世の土豪・稗貫(ひえぬき)氏の配下にいた土着の郷士である。彼らには人身御供伝承がもともとあった。
諏訪神社裏手には供養塚もある。碑文にはこうあるという。
「往古三年に一度、生娘を犠として奉れる習あれど、年を経て止む。郷中の者これを愁い、鹿を替わりとして奉る。それを埋めたる塚の跡今に残る。鹿の犠、成り難くなりてより、雲南堀よりの鮭を奉り後は深紅の海魚を替わりとして奉る」
同じ記事は『二郡見聞私記』諏訪やしろの項にも記載がある。
この記事では当初神は蛇である。長野の諏訪大神のことであろう。
滋賀県草津市下笠・老杉神社・おこない・・・赤飯を神饌とする以外に琵琶湖の恵み、山の恵みで豪華料理を並べ、そこに人形を置く。
蛇を象ったしめ縄を「八岐大蛇」と呼ぶ。
食事の内容は、銀葉・・・米の粉に熱湯を入れて練り、ゴマとホンダワラのみじん切りを混ぜせんべい状にのばし蒸し、さらにのばし、重ねてへぎの上に三角にしばって置いたもの。
めずし・・・いわゆるフナ寿司だったものがやがて酒粕を団子状にして串で刺したものへ。
雀・・・当日とってきた雀の足を赤と青(生と死)の紙でしばったもの。
そのほかにタイ、カマス、大根、ゴボウなどを調理したもの。
ここの神はなんともグルメであるが、人の代わりとも成ればそれぐらい奮発しなければ恐ろしことが起こるのだろう。
人形は柳の鏑木で作る。二股を利用。この風俗は「山の神」的である。「甑取り」というかけ声を出す儀式があるから、やはり山の神=鍛冶神・鉱物神であると言ってよかろう。
蛇縄はひきだして鳥居に巻き付けるなどの荒事も行う。
記紀神話のネタ元を探る2 参考資料と文献 : 民族学伝承ひろいあげ辞典
人から獣・かたしろへ。神事生け贄の変遷記述 : 民族学伝承ひろいあげ辞典
兵庫県篠山市沢田・八幡神社・鱧切祭・・・人からハモへの変遷。
宮崎県高千穂町・高千穂神社・猪掛祭・・・人からイノシシへの変遷。
岡山県津山市一宮・中山神社・猿神退治譚・・・「さてそれより後(生け贄を食らっていた猿神を退治してのち)は、すべて、人を生贄にせずなりけり。其後は、その国に猪、鹿をなん生贄にし侍りけるとぞ」(『宇治拾遺』)
中山神社ではかつて「神鹿祭」が行われていたと『作陽志』にある。
岩手県花巻市葛・諏訪神社・・・葛氏とは中世の土豪・稗貫(ひえぬき)氏の配下にいた土着の郷士である。彼らには人身御供伝承がもともとあった。
諏訪神社裏手には供養塚もある。碑文にはこうあるという。
「往古三年に一度、生娘を犠として奉れる習あれど、年を経て止む。郷中の者これを愁い、鹿を替わりとして奉る。それを埋めたる塚の跡今に残る。鹿の犠、成り難くなりてより、雲南堀よりの鮭を奉り後は深紅の海魚を替わりとして奉る」
同じ記事は『二郡見聞私記』諏訪やしろの項にも記載がある。
この記事では当初神は蛇である。長野の諏訪大神のことであろう。
滋賀県草津市下笠・老杉神社・おこない・・・赤飯を神饌とする以外に琵琶湖の恵み、山の恵みで豪華料理を並べ、そこに人形を置く。
蛇を象ったしめ縄を「八岐大蛇」と呼ぶ。
食事の内容は、銀葉・・・米の粉に熱湯を入れて練り、ゴマとホンダワラのみじん切りを混ぜせんべい状にのばし蒸し、さらにのばし、重ねてへぎの上に三角にしばって置いたもの。
めずし・・・いわゆるフナ寿司だったものがやがて酒粕を団子状にして串で刺したものへ。
雀・・・当日とってきた雀の足を赤と青(生と死)の紙でしばったもの。
そのほかにタイ、カマス、大根、ゴボウなどを調理したもの。
ここの神はなんともグルメであるが、人の代わりとも成ればそれぐらい奮発しなければ恐ろしことが起こるのだろう。
人形は柳の鏑木で作る。二股を利用。この風俗は「山の神」的である。「甑取り」というかけ声を出す儀式があるから、やはり山の神=鍛冶神・鉱物神であると言ってよかろう。
蛇縄はひきだして鳥居に巻き付けるなどの荒事も行う。
熊本県阿蘇市一の宮町・阿蘇神社及び阿蘇国造神社・御田祭 : 民族学伝承ひろいあげ辞典
あそじんじゃ・おんたさい
あそこくぞうじんじゃ・おんたさい
旧暦6月20日~26日
最古の人身御供神事
14人の「うなり」が頭に鷹羽紋入りの黒塗りのおひつを乗せて、阿蘇の麓にある千枚田の中を運ぶ。
神社の祭神14柱にそれぞれ神饌を運び込む。
建前上は阿蘇の祭神は12柱であるのに、二つ多いことになる。これについては2柱の神がなんであるかについては神社で聞いてもよくわからないような説明をする。複雑怪奇。
たとえば阿蘇神社中央に鎮座する主神でさえいくつもの神を背負っている。この分析はまたいずれ。
国造神社は裏手の手野から急激に降りてきた場所にある。近隣に長目塚古墳群があり阿蘇氏の古墳群と言われる。
阿蘇神社と国造神社は祭りの期日をずらして行い、国造神社が先に行う。
うなりは、本来閉経後の女性が白装束に身を包み、顔に白ずきんを巻き、頭におひつを乗せて道中する。先を馬に乗った猿田彦が先導し、御輿やさまざまの役目のものがこれに続く。
年男、年女、矛などの人形(首だけ)が露払いするが、これはうなりの介添え役の頭屋夫婦。
大昔はうなりは神饌を神前に供えたあと自らの命を絶っていた。
真夏に行われるのはおそらく虫封じ、あるいは阿蘇山の噴火、あるいは台風などの天変地異の鎮魂、封じ込めのためでろう。
国造神社にはなまずのミイラが神として祭られる鯰神社があるので、地震封じもあるだろう。
神事いろいろ・福井県敦賀市櫛川・別宮神社・例大祭(記録) : 民族学伝承ひろいあげ辞典
つるがしくしかわ・わけみやじんじゃ・れいたいさい
この神事はすでに明治に廃絶
神社庁の記録によれば明治27~28年頃まではまだ行われていたというから、最後の秘事と言える。
旧暦4月3日
人身御供神事
五升の米で炊いた餅を頭にしょった少女が神社へ渡り、神前に神饌をささげていた。
櫛川ではおみくじを引いて当たったものが人身御供に出る義務を負わされていた。
いわゆる貧乏くじであるが、これによって籤というものが必ずしも富をもたらさないことがわかる。
大分県国東郡には富来町があって、町名にひっかけて富くじオリエンテーリングを村おこしにしているが、ここにもやはり櫛来川がある。同族だろうか?
『卑弥呼』の著者・富来隆は親がここ出身。
「ある年、櫛川の地頭の娘に籤があたってしまい、地頭は村人に身代わりを頼んだが断られる。ところが非常に貧乏な娘がいつも世話になっているという理由で身代わりを申し出た。
娘は祭の日に大唐櫃に入り、神社に供えられた。丑三つ時になると大蛇が現れ、櫃に首をつっこんだが「これはどうもいつものとわけが違う。これは神籤にあたった娘ではあるまい。だからふれることができないのだ。しかしながら自分はどうしても一年に一回、人間の生き血を吸わねばならない。おい、娘よ、帰って神主に伝えよ。このままでは生き血も吸えず、この池から立ち退かねばならない。そうならぬようにどうかこれからは人身御供の代わりに五升の餅を供えろ。さればたたりはなすまい」
これを聞いた娘は生きて帰り、大蛇の伝言を村人に伝えた。
これは八岐大蛇の亜流譚でもある。
これと言って劇的な退治シーンもなく、残虐シーンもなく、きわめて倫理的で抹香臭い。したがって明治ごろにかなり原型が曲げられた可能性は高い。やめるための理屈付けであろうか?
これらのお話を神のヨリマシと理解してはならない。
これは神の饗応役としての巫女=少女の存在を語っているのである。
後生になるほど、頭屋儀礼としての霊依りの意味は消えてゆき、ただ単に神になにかを喰わせれば今年は平安であるという迷信となっていったことを示している。生け贄はこうして終了し、身代わりをたてるようになってゆく。それは家畜や人形といった形代へと変遷し、祭もやがて形骸化してゆくきっかけとなった。
人は祭にパッション、精神の高揚、憑依を求めてきた。
しかしながら倫理や道徳はそれを消し去ろうとし、祭は本来の情熱を失ってゆく。
神事いろいろ・福井県敦賀市櫛川・別宮神社・例大祭(記録) : 民族学伝承ひろいあげ辞典
以上は
人身御供 を含む記事 : 民族学伝承ひろいあげ辞典
から一部記事を再掲載しました。
まとめますと、本来神とは人間が考え出した概念、と申すのは、神と言うものが生贄として、本来人を喰らいたい、人肉が一番好きだということになりましょう。
ですから神とは迷惑な災害の来訪だったことになります。古代日本ではでございますよ。
災害は多くの人が往古は亡くなりますもので、それをして人々は神は人を喰いたがるモノなのだと考える。だから災害が来る季節になると前もって生贄をささげた。その生贄の多くは子供や生娘だった。つまり生産性が最も少ない、言い換えれば人生の中心ではなく端っこにいる者たちで、まだ汚れていないものが好まれると・・・そう考えたのでございましょう。
美少女や美少年を人間も好みます。神にでもなったつもりでしょうな。
信長もN君も同じ勘違いを犯した。自分が神だと思い、生贄を受け入れた、とたんに彼らの神通力は消えて、ただの犯罪者になり、この世界から消されてゆく・・・。
おごり高ぶりが人を神にしてしまい、神ではあらぬ身ゆえに、にえを求めると噂になっていずれは消えて行くのが人間世界の常なのであろうかと、はい。思うのでございます。
最後に言えますことは、神は昔人肉を好んだ。神前に捧げる餅や米や獣肉や魚なぞはすべて人間の代用品だったとなりますねえ。漁師は船出前に死人をマストに吊り下げたそうで、そのわけは「神は死者を喜ぶ」だったそうな。ひひひひひひひひ・・・


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