那珂と伊都・地名由来 : 民族学伝承ひろいあげ辞典
「なか」「いと」地名に関していくつかをパックにして。
引用文(こう書いておかないと「」を見落とすあわてモノがいるので)
「福岡県の博多は昔「那(な)国」とか「那ノ津」と呼ばれていた。現在も「那ノ津大橋」や「那の津通」等にその名残が見える。また、博多区には「那珂(なか)」という地名もあり、その名をとって福岡市の都心を貫き、博多湾にそそぐ川の名を「那珂川」という。「那国」は、後漢の光武帝から授かった例の金印に書かれた「漢委奴国王」に見える「奴(な)国」のことである。」
「長島温泉で有名な三重県桑名市長島(ながしま)町は、町全体が木曽三川(木曽・長良・揖斐)の形成した三角州にあり、周囲をぐるりと堤防に囲まれた完全な「輪中集落」である「川中島」の呈をなしている。本来なら「中島(なかしま)」となるべき地形名であるが、この輪中は南北に細長いので「長島」と濁音になってしまった。「中」が「長」や「永」に変わってしまった地名も各地に多く見られるので、注意を要する。」
「長野市「長野」は・・・背後に丘陵地を控え、南向きで日当たりもよく、このあたりでは一番良い場所に寺を建立したと思われるので、やはり地名の由来は「中野」ではないかと思う。長野市の北方、北信の中心地には正真正銘の「中野市」があるが、長野市と発音が似ており、よく間違えられて困る、と中野市民はなんとなく憂鬱を抱えている。」
「石川県金沢市の都心部には「中橋」「中村」「長田」があるが、この「長田」も「中田」であろう。岐阜県恵那市の中心部には「永田」「長島」「中野」という地名が一箇所にかたまっている。いつのころからか「中田(なかた)」が「永田(ながた)」になり、「中島」が「長島(ながしま)」になり、さらに「長島」を「おさしま」と呼ぶようになった。日本の常民の発音の妙と情念の豊かさを感じる。 」 「中(なか)」地名の魅力 : 目からウロコの地名由来
「なか」地名の点在についてはここでも以前、それが海人族地名であることを分析した。
2013年09月01日 22:24
「那賀」「那珂」などの「なか」は多くにごって「なが」と同じである。
分析すると「な・か」に分けられる。
「な」の基層語は縄文倭語の「灘 な」である。つまり海岸線や湾曲(わんど)、河川沿い、海・水をさす言葉。「なーみ」「なーには」「なーだ」。
「か」は助詞の「が」でいにしえの「の」ある。「灘が土地=海のある場所」が「ながと」である。
筆者近隣地名では宇佐市のそばに「長洲」がある。「なーかーす」で、「長洲」はたいがいが漁師町。長い州は海岸線の海浜が長いという意味なのに、砂浜はさほどでなく、むしろ灘のそばの州=テリトリーなのであり、文化とか言葉に昔から違いがあった。はっきり言えば部落である。海岸線の部落はほとんどが古代海人族の頃からの流れである海人が住まう。気比も三方も美浜も伊方も玄海も福島中通も全部そうである。「木屋」とか「中洲」とか「なかすね」もそう。「灘が州根」である。
灘はそもそも「儺」を行う場所でもある。語源は同じであろう。「難」はあやうい場所である。
「なのつ」は福岡市の湾をさす。「灘の津」→「那の津」と表記が変化した。
「那」と言う文字には「耳」という意味があり、湾の形状が耳のようであることを示すが、同時に耳は「王」に準じる身分の役職をも指し、「王の海」という意味も持つ。中国が「奴国」と、卑字「奴」を用いた国がここにあった。那珂川。
一方、那珂川を挟んで西側を「伊都 いと」という。
「い・と」一文字で糸であるが「怡土」、かつて伊都国があった土地である。
「い・と」一文字で糸であるが「怡土」、かつて伊都国があった土地である。
「い」「と」
「糸島市三雲を中心とした糸島平野の地域に伊都国があったとする説が有力である。弥生時代中期後半から終末期にかけて厚葬墓(こうそうぼ)(王墓)が連続して営まれており、それが三雲南小路遺跡・平原遺跡である。井原鑓溝遺跡は遺物の点から「将軍墓」の可能性が高いとも言われる」
伊都国 - Wikipedia
「い」を「倭」の中国音「うぇい」から転じて「倭国」であるとする人もいるが、倭人が自らを「倭」と名乗ったはずはない。自分で「小さな人」「おろかな人」などと言う民族は世界中探しても皆無である。馬鹿馬鹿しい。それならば同じく中国人から見て「異土」だったなども言えることになってしまう。他者が地名に干渉するのは西欧の大航海時代以後の産物で、魏志の地名は地元の地名音に中国人が漢字を当てたと考えるべきである。
この場合、普通は「奴国」のように卑字を使うわけであるが「伊都国」には卑字は使われていない。「と」は「つ」「ど」で都のある港、土地である。では「い」とは?
これは難解である。
かつては古代言語学からの提示で、「い」「ヰ」「ゐ」の違いが言われてきたが、これは上代(万葉集時代)に限った朝鮮書記官が作り出した特殊音韻で、先史時代には該当してはならない。
「い」「ゐ」の区別は古代にはあいまいであったとするのが正しい。これは「やまと」の「と」でも同じである。
また西日本の地名にアイヌ語語源説を持ち込むのも意味がわからない。
「い」は神、王、井戸である。伊都国の範囲を考古学では三雲・井原鑓溝遺跡周辺としている。井原は「い・わら」。井は水の湧く場所。つまり聖地である。6世紀筑紫国造家も代々糸島半島の西側にあった。筑紫国造磐井の名称はヤマト側があとから名づけたものと考えるのがよいだろうが、もともと水を手繰る祭祀一族だったからの銘銘だっただろう、というのは森浩一も書いている。磐井の「イ」も湧水・岩清水を指している。筑後の高良山にも「岩井」の水が湧いている。湧水は祭祀の場であることは間違いなし。
伊都国は半島の東側になる。纏向と同じように、生活街というよりも王都、官庁街といったほうがよかろう。大宰府にも似る。
第一次邪馬台国があったとすれば伊都国のすぐそばであろう。奴国だった可能性が高い。
1~2世紀には那珂地域で一番の国家は奴国。伊都国は奴国より遅い成立であろう。最初は奴国の祭祀場であり津であろうか?
「な」が海乃至は河川、水場であるなら、内陸の長野もまた「灘が野」起源だと想定できる。海人族が入った場所なのだろう。
倭人の言葉はアイヌとか上代特殊仮名遣いの音韻とかで考えるのは場違いで、
むしろ倭人のふるさとである長江以南の少数民族の呉越語や、オーストロネシア基層言語から考察されるべきだろう。
むしろ倭人のふるさとである長江以南の少数民族の呉越語や、オーストロネシア基層言語から考察されるべきだろう。
この私説は、今後も変遷の余地大いにあり。
股(箕「き」氏)起こる
紀元前770 中国夏王朝(姫「き」氏)の末裔太伯呉を起こす
紀元前445 夏末裔杞国滅び北上す、半島に杞人移住
紀元前445 夏末裔杞国滅び北上す、半島に杞人移住
縄文晩期~弥生前期 北西九州菜畑で稲作開始
博多湾那珂川周辺に渡来文明人登場
南九州霧島周辺に移住、南朝と直接外交
半島南経営のために出雲に一部が移住?
半島で秦氏と交わる?八幡宮辛島氏とはスサノヲ・五十 建で同祖
一部は霧島・内から出て太平洋を北上、徳島県那賀郡から紀伊半島那賀郡に至る?海部氏・尾張氏と同族化?瀬戸内経由では吉備で倭直氏と同族化?
弥生中期 岡村遺跡(和歌山県海南市)水稲栽培始まる
202 太田・黒田遺跡(和歌山市)発展へ
391 紀氏、紀の川流域に勢力をはる
紀角宿禰半島に攻め込む
「西の庄」巨大製塩遺跡
紀ノ川を遡上して吉野から大和・山城南部に入り葛城連合体として倭直・倭国造となる? 紀州で尾張氏・海部氏らと、大和で物部氏と婚姻?これらが吉備王氏族・葛城氏族らと合体し纏向に連合体。 出雲紀氏南下して和歌山へ。
5世紀後半 紀ノ川北岸に大きい前方後円墳
紀氏、ピークの時代に岩橋千塚古墳築かれ始める
源流は高句麗
5世紀末 大谷古墳(馬冑)
6世紀初 紀直と紀臣に分離開始
※河瀬直 =紀直
夏王朝~呉の南朝を始祖とし、呉太伯の末裔とも称したと見えて、この系譜は隼人の主張に同じであるので、紀氏は最初南九州で隼人あるいは熊襲の曽於族を懐柔した神武系譜の大元になる伝承を持っていたと見られる。この曽於族については今の曽於郡を本拠として熊本の球磨地域の球磨族と合わせて大和側は「熊襲」と一括する。しかし熊襲はもともと「熊曾」という表記が正しかったはずで、その後奈良の二文字・良字表記命令で「熊」は「球磨」に、「曾」は「曽於」になった。わざわざ熊襲と「襲」の悪字を記録があてたのは、ちょうど葛城氏の祖でもあった葛城沙至比跪 (曾津彦)が『日本書記』によって「葛城襲津彦」とされたのに相通じており、熊襲征伐記録に伴った大和側の勝手な改変であろう。
紀氏と尾張氏・海部氏との出会いは南九州ですでにあったと思われ、北部九州の壱岐対馬や遠賀川では物部氏・宗像氏・安曇氏つまり倭直の祖と出会っているはずだ。倭氏の祖である天火明(あめのほあかり)と物部氏の祖神ニギハヤヒは合体して天照国照彦天火明櫛玉饒速日となったわけだが、天火明は尾張・海部のいわゆる海部連合体の祖神でもあり、尾張氏と物部氏は大和では同祖とされているのだから、みなつながっていたわけである。これは渡来するさいに安曇や五島隼人や久米を使った証拠であり、彼らの部となった海人族が、それよりも古くから海人ネットワークでつながっており、日本海・瀬戸内・太平洋沿岸は彼らなしには成り立たなかったのである。だから記録の要所要所で水先案内者が出てくるわけで、伊勢の猿田彦などは『伊勢国風土記』逸文にまった同様の姿かたちで「伊勢津彦」なるものが登場するのだが、彼は「くなどの神=岐の神」であったとされる。岐とは分かれ道のことで、海では「くなど」とは「ふな土」で船の案内者=水先案内=木の股神=国津神=山の神・海の神という意味である。ということは国土の最初の神である大山積神と綿積神そのものが天孫にはナビゲーターだったのだから、最初の懐柔=結婚をする相手になるのは当然である。これらの先住氏族のすべてが山の神と海の神の出会いから生じた皇別氏族で海人族の管理者であるのは、むしろ当然のことと理解できる。当時の長距離移動手段は船しかないわけだから。今で言えば海人族とはジェット機の持ち主であり客船・貨物船のオーナーなのである。だから古語では海も空も「あま」と言うのである。
だが大和国造はなぜか黒塚古墳の3世紀後半ころから中心地から離れたところへと移動した。つまりこれこそが政権交代であろう。黒塚古墳の主は「灘=な」がつくところから来た人であろう。「なしめ」「な王の子孫」。
大和からは南朝に固執して反発する熊襲・隼人の経営のために氏族が送り込まれる。これを夷守(ひなもり)といい、宮崎県の韓国岳の北側に派遣。東北は新潟県頚城郡(くびき)に鄙守が置かれたと記録にある。頚城と言えば気多神社、内神社、そして弥彦神社などが近く、外来者がよりつく場所でもあり、蝦夷のメッカでもある。この「夷守」という役職は、倭人伝ではミミ=耳と同様に、中国から見て国派遣知事というよりも地元の王のように書かれている。つまり国造のような存在である。耳は「人のいうことをよく聞く人」でつまり王であるのはわかるが、ひなもりはただの地方警護者である。しかし当時から王の二番手のように見えたということは、耳が政治王ならひなもりは武力王だろう。これまでの調査で、阿蘇氏のように派遣されてその土地の王族伝承を取り込んでしまう氏族もあれば、まったく地元の実力者が国造になった例もある。すると熊襲のあさぎり町で古墳を作れた人は、まずもって大和から来たものであろう。そもそもここから南部周辺に古墳のない地域である。しかもそれは靫負氏族の日下部氏である。なぜなら群集横穴古墳に靫が描かれているからだ。その管理者なら、西の雄族だった大伴氏が一番ふさわしい。5世紀~6世紀に南朝とつきあえる氏族は大伴氏しかいまい。隼人や熊襲の王に権威のある金メッキ鏡まではくれなかっただろう。
大倭(おおやまと)氏 旧倭直氏・大和国造氏
倭氏は綿津見豊玉彦命(海神)の子で穂高見命の弟の振魂命を始祖としており、阿曇氏とは親戚関係にある。振魂命は尾張氏・津守氏の祖でもあり、「振」は石上神宮の布留御魂神の「布留」であり、物部首の祖・春日臣市河が和珥氏系であることから、和珥氏との関係も窺えるだろう。http://homepage2.nifty.com/amanokuni/yamato.htm
紀氏と倭直氏 浦嶋伝説はなぜ日本海に?熊襲征伐の裏側
紀氏
神魂命(かみむすび)の五世孫の天道根命(ニギハヤヒ随行者の1人)もしくは神魂命の子の御食持命を祖とする神別氏族、「日前国縣神宮」を祭祀。紀ノ川河口あたりの名草郡を本拠とし勢力を張り、その同族と称する氏族が伊都・那賀・在田・日高各郡に広がった。
神魂命(かみむすび)の五世孫の天道根命(ニギハヤヒ随行者の1人)もしくは神魂命の子の御食持命を祖とする神別氏族、「日前国縣神宮」を祭祀。紀ノ川河口あたりの名草郡を本拠とし勢力を張り、その同族と称する氏族が伊都・那賀・在田・日高各郡に広がった。
股(箕「き」氏)起こる
紀元前770 中国夏王朝(姫「き」氏)の末裔太伯呉を起こす
紀元前445 夏末裔杞国滅び北上す、半島に杞人移住
紀元前445 夏末裔杞国滅び北上す、半島に杞人移住
縄文晩期~弥生前期 北西九州菜畑で稲作開始
博多湾那珂川周辺に渡来文明人登場
南九州霧島周辺に移住、南朝と直接外交
半島南経営のために出雲に一部が移住?
半島で秦氏と交わる?八幡宮辛島氏とはスサノヲ・五十 建で同祖
一部は霧島・内から出て太平洋を北上、徳島県那賀郡から紀伊半島那賀郡に至る?海部氏・尾張氏と同族化?瀬戸内経由では吉備で倭直氏と同族化?
弥生中期 岡村遺跡(和歌山県海南市)水稲栽培始まる
202 太田・黒田遺跡(和歌山市)発展へ
391 紀氏、紀の川流域に勢力をはる
紀角宿禰半島に攻め込む
「西の庄」巨大製塩遺跡
紀ノ川を遡上して吉野から大和・山城南部に入り葛城連合体として倭直・倭国造となる? 紀州で尾張氏・海部氏らと、大和で物部氏と婚姻?これらが吉備王氏族・葛城氏族らと合体し纏向に連合体。 出雲紀氏南下して和歌山へ。
5世紀後半 紀ノ川北岸に大きい前方後円墳
紀氏、ピークの時代に岩橋千塚古墳築かれ始める
源流は高句麗
5世紀末 大谷古墳(馬冑)
6世紀初 紀直と紀臣に分離開始
※河瀬直 =紀直
太平洋側に「なか(中継地地名)」地名多数登場。
夏王朝~呉の南朝を始祖とし、呉太伯の末裔とも称したと見えて、この系譜は隼人の主張に同じであるので、紀氏は最初南九州で隼人あるいは熊襲の曽於族を懐柔した神武系譜の大元になる伝承を持っていたと見られる。この曽於族については今の曽於郡を本拠として熊本の球磨地域の球磨族と合わせて大和側は「熊襲」と一括する。しかし熊襲はもともと「熊曾」という表記が正しかったはずで、その後奈良の二文字・良字表記命令で「熊」は「球磨」に、「曾」は「曽於」になった。わざわざ熊襲と「襲」の悪字を記録があてたのは、ちょうど葛城氏の祖でもあった葛城沙至比跪 (曾津彦)が『日本書記』によって「葛城襲津彦」とされたのに相通じており、熊襲征伐記録に伴った大和側の勝手な改変であろう。
そもそも景行天皇とヤマトタケルが熊襲建や出雲建(=ほかならぬオオクニヌシのことであろう)を征伐した事実など一度たりともなく、それは吉備や紀氏らの先着渡来民らの時代ごとの対決をすべて天皇家の事跡として奪い取った記録ではないかと見る。彼らは決して熊襲や曽於・隼人族を絶滅させてはおらず、むしろふなど=水先案内者として雇ったと見たほうがいい。そのために何度も攻めたとされたが、攻めたというよりも文化水準の物まねと地理に疎いための船人としての利用価値を認めたからこそ西九州から有明海を南下して彼らを懐柔し、北上した伝承を取り込んだ天皇家側は、わざわざ天孫は太平洋に出たとなってしまうわけである。
紀氏と尾張氏・海部氏との出会いは南九州ですでにあったと思われ、北部九州の壱岐対馬や遠賀川では物部氏・宗像氏・安曇氏つまり倭直の祖と出会っているはずだ。倭氏の祖である天火明(あめのほあかり)と物部氏の祖神ニギハヤヒは合体して天照国照彦天火明櫛玉饒速日となったわけだが、天火明は尾張・海部のいわゆる海部連合体の祖神でもあり、尾張氏と物部氏は大和では同祖とされているのだから、みなつながっていたわけである。これは渡来するさいに安曇や五島隼人や久米を使った証拠であり、彼らの部となった海人族が、それよりも古くから海人ネットワークでつながっており、日本海・瀬戸内・太平洋沿岸は彼らなしには成り立たなかったのである。だから記録の要所要所で水先案内者が出てくるわけで、伊勢の猿田彦などは『伊勢国風土記』逸文にまった同様の姿かたちで「伊勢津彦」なるものが登場するのだが、彼は「くなどの神=岐の神」であったとされる。岐とは分かれ道のことで、海では「くなど」とは「ふな土」で船の案内者=水先案内=木の股神=国津神=山の神・海の神という意味である。ということは国土の最初の神である大山積神と綿積神そのものが天孫にはナビゲーターだったのだから、最初の懐柔=結婚をする相手になるのは当然である。これらの先住氏族のすべてが山の神と海の神の出会いから生じた皇別氏族で海人族の管理者であるのは、むしろ当然のことと理解できる。当時の長距離移動手段は船しかないわけだから。今で言えば海人族とはジェット機の持ち主であり客船・貨物船のオーナーなのである。だから古語では海も空も「あま」と言うのである。
記紀はすべてを大和で起きた統一譚に仕立てているが、それは編集者・為政者が天皇を最初の統一者=はつくにしらす天皇にし、大和至上主義で描くからであって、すべての伝承がそうではなく、はじめの頃は邪馬台国以前の地方での懐柔策を大和に持ってきただけのことである。
つまり天孫がそれらをすべて行ったなどというのは大嘘で、卑弥呼や大王や天皇はただ彼らに担ぎ上げられた象徴王・祭祀者でしかない。いわば占いの大家であれば誰でもよかった。
つまり天孫がそれらをすべて行ったなどというのは大嘘で、卑弥呼や大王や天皇はただ彼らに担ぎ上げられた象徴王・祭祀者でしかない。いわば占いの大家であれば誰でもよかった。
シャーマンが王となれば、当然、どこの世界でもそのカリスマ性が薄くなれば王は交代させられる。だから万世一系などということは絶対にありえないのである。どこかで政権交代が起こる。
紀氏たち海人族には中継地が必ず必要で、要所要所に「なか」の土地が生まれ、そこでまた新たな氏族との合体・外戚化が起こる。その中からその時代にみあったシャーマンが選ばれたのが大王であろう。ということは卑弥呼や臺與もまた、吉備や豊の女性シャーマンだっただろうから、ちょっと地方の考古学を覗けば、豊後の築山古墳から女性シャーマンの遺骨が出ているし、吉備にも女性シャーマンの痕跡があるはずである。船の旅に海上安全を占うシャーマンはつきもので、倭人伝にある持衰などはその一例である。そういう中の成功者には土地や権威が約束されたわけで、そうなれば何度も成功したものなどはカリスマシャーマンであると同時に地方の大富豪をいうものも登場したはずであり、そこから最もシャーマン力の強いものが共立されたのが卑弥呼であろう。すると天皇も最初はそうした水先案内者の大カリスマ王だった可能性が出てくる。だから自分では政治や戦争には権限はなく、祭祀象徴王として大和で最高の人から始まった・・・例えば崇神。しかし纏向遺跡を見るとそれはどうやら吉備のカリスマだったと考えられる。となると紀氏なども最初の王家だったとなってもおかしくない。実際、大和国造は椎根津彦の子孫である倭氏だったのである。
だが大和国造はなぜか黒塚古墳の3世紀後半ころから中心地から離れたところへと移動した。つまりこれこそが政権交代であろう。黒塚古墳の主は「灘=な」がつくところから来た人であろう。「なしめ」「な王の子孫」。
このように紀氏は倭直という海部管理者とすでに吉備で出会っている。その後海部氏は尾張氏とともに伊勢湾へ入り、安八の木曽川を遡上して諏訪を経て日本海へ出る。半島外交のための港を求めて福井に向かい、若狭湾に入るのである(籠神社祭祀)。
大和からは南朝に固執して反発する熊襲・隼人の経営のために氏族が送り込まれる。これを夷守(ひなもり)といい、宮崎県の韓国岳の北側に派遣。東北は新潟県頚城郡(くびき)に鄙守が置かれたと記録にある。頚城と言えば気多神社、内神社、そして弥彦神社などが近く、外来者がよりつく場所でもあり、蝦夷のメッカでもある。この「夷守」という役職は、倭人伝ではミミ=耳と同様に、中国から見て国派遣知事というよりも地元の王のように書かれている。つまり国造のような存在である。耳は「人のいうことをよく聞く人」でつまり王であるのはわかるが、ひなもりはただの地方警護者である。しかし当時から王の二番手のように見えたということは、耳が政治王ならひなもりは武力王だろう。これまでの調査で、阿蘇氏のように派遣されてその土地の王族伝承を取り込んでしまう氏族もあれば、まったく地元の実力者が国造になった例もある。すると熊襲のあさぎり町で古墳を作れた人は、まずもって大和から来たものであろう。そもそもここから南部周辺に古墳のない地域である。しかもそれは靫負氏族の日下部氏である。なぜなら群集横穴古墳に靫が描かれているからだ。その管理者なら、西の雄族だった大伴氏が一番ふさわしい。5世紀~6世紀に南朝とつきあえる氏族は大伴氏しかいまい。隼人や熊襲の王に権威のある金メッキ鏡まではくれなかっただろう。
日下部氏はこうして人吉地方から豊前地方までを斜めに横断する遺跡を残した。これが九州を南北にわける国境であろう。そこで日下部氏らがまずやったことは、在地氏族=草部の部民たちつまり熊襲残党であろうが、彼らの始祖伝承である神八井耳と日子八井伝説の取り込みと抹消である。その中に紀氏と彼らの婚姻譚がまじっていたはずである。こうして『日本書記』からは日子八井伝承と手研耳という地元王族の命が絶たれることとなった。残った神八井耳のほうは大和に元からいた摂津三島あたりの王族の神に取り替えられた。
日下部氏は倭五王衰亡とともに、大伴氏もろともに大和では力を薄くしていったかも知れぬ。そして間人王女につきしたがって丹後へ流れた。そこで海幸・山幸伝説の焼き直しをしたのが浦島太郎伝説である。
楽しい妄想の時間であった。
付録
大倭(おおやまと)氏 旧倭直氏・大和国造氏
倭氏は綿津見豊玉彦命(海神)の子で穂高見命の弟の振魂命を始祖としており、阿曇氏とは親戚関係にある。振魂命は尾張氏・津守氏の祖でもあり、「振」は石上神宮の布留御魂神の「布留」であり、物部首の祖・春日臣市河が和珥氏系であることから、和珥氏との関係も窺えるだろう。http://homepage2.nifty.com/amanokuni/yamato.htm
2)倭氏人物列伝
倭氏の祖を国神・地祇とする説。天神とする説。天孫とする説が併存している。筆者は新撰姓氏録に基づく地祇説で列伝を記すことにした。異説も併記したい。
本拠地は大和国山辺郡大和郷とされている。
・伊弉諾尊・伊弉冉尊
・綿積豊玉彦
①父:伊弉諾尊 母:伊弉冉尊
②子供:豊玉毘売(彦火火出見尊(山幸)妃)玉依毘売(鵜草葺不合尊妃)宇都志日金折命(別名:穂高見命:安曇氏祖)振魂命
・振魂命(海部氏・尾張氏祭神天火明命の父)
①父:綿積豊玉彦 母:不明
②子供:武位起命・天前玉命(尾張氏祖)・大鐸比売(オオヌテひめ)
・武位起命(たけいたて・たけくらたつ・たけくらき)
①父:振魂命(異説あり) ②母:不明
②子供:椎根津彦・八玉彦(八木氏祖) 別名:建位起
異説1(海部氏勘注系図)天孫系
父:彦火火出見 母:不明
父:彦火明 母:不明
異説2(先代旧事本紀・皇孫本紀)天孫系
父:彦火火出見 母:玉依姫?
異説3天神系
父:天神振魂尊(高皇産霊尊と同格の神) 母:不明
2-1)椎根津彦(しいねつひこ)
①父:武位起命(異説あり) ②母:不明(異説あり)
異説:海部氏勘注系図
父:天村雲 母:丹波伊加里姫
②子供:志麻津見 妻:不明
異説(海部氏勘注系図)子供:笠水彦 妻:豊水富(井比鹿)
別名:珍彦・宇豆彦・倭宿禰(勘注系図)・槁根津彦・神知津彦
③出自:皇孫本紀:彦火々出見尊の御子武位起命は大和国造等の祖。椎根津彦は武位起の子または孫、とある。
新撰姓氏録:地祇
④古事記神武段:東征伝で備前国高嶋宮で神武に会い道案内する。
亀の甲に乗りて釣りしつつ打ち羽ふり来る人、速吸門に遇ひき。爾れ喚びよせて汝は誰ぞと問はしければ、僕は国神と答え申しきーーー名を賜いて槁根津彦(しまねつひこ)と号す。
⑤日本書紀神武紀:珍彦は、豊予海峡とされる速水乃門で東征中の神武を迎える。ーーー因って問ひて宣す、汝は誰ぞやと、応えて申さく、臣は是国神なり、名を珍彦と白ふ。ーー水先案内人になる。神武から椎根津彦の名を賜る。倭直部の始祖。
また、倭(ヤマト)での兄磯城との戦いでも功を挙げた。
この功により神武天皇が即位後に初めて倭国造に任じられた。
⑥国造本紀:橿原朝の御世、椎根津彦を以て初めて大倭国造と為す。
海の民は蛇を自称した人々
古墳や入れ墨に三角形やひし形の蛇のうろこを描く。
のちの北条氏などももと海人であろう。
海の民は蛇を自称した人々
古墳や入れ墨に三角形やひし形の蛇のうろこを描く。
のちの北条氏などももと海人であろう。






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