国家と修験その1
日本の修験道の始まりは、記録からも地理的条件からも九州東部、つまり豊前地方からであろうかと思える。最古の記録では記紀用明二年(587)、豊前宇佐出身の「豊国法師」が朝廷に突然現れる。この「法師」という言葉が、いわゆる今で言う仏僧などではなく「行者」「修行者」であろうかと考えられる。と言うのは厳密に、仏教の戒律が正式に朝廷に入り、国家が僧侶に免許を与えるようになる時代は、随分あとのことになるからであろう。つまり豊国法師は優婆塞(うばそく)=在家修験者なのだろう。
日本の修験道の始まりは、記録からも地理的条件からも九州東部、つまり豊前地方からであろうかと思える。最古の記録では記紀用明二年(587)、豊前宇佐出身の「豊国法師」が朝廷に突然現れる。この「法師」という言葉が、いわゆる今で言う仏僧などではなく「行者」「修行者」であろうかと考えられる。と言うのは厳密に、仏教の戒律が正式に朝廷に入り、国家が僧侶に免許を与えるようになる時代は、随分あとのことになるからであろう。つまり豊国法師は優婆塞(うばそく)=在家修験者なのだろう。
ちなみに優婆塞とは
「梵語ウパーサカ (upāsaka) の音写。 男性の在家の信者。 四衆の一。」だとある。
「梵語ウパーサカ (upāsaka) の音写。 男性の在家の信者。 四衆の一。」だとある。
もっともこう書くと大阪葛城山の役行者(えんのぎょうじゃ)は修験の開祖ではないのか?と強い批判が出るかもしれない。しかし役行者(役小角(えんのおづぬ))が記録されるのは飛鳥時代の700年代で豊国法師に遅れる。しかし確かに「修験者」としての記録は古い。私見では役行者は「葛城修験道の開祖」であり、それは大和地域では開祖である。
役行者
役行者
豊国は遠賀川の東・小倉から南を言う。遠賀川東地域は弥生文化が入っても、縄文的生活様式を捨てなかったと考古学者が言う特殊地域である。しかしその遠賀川式土器はその後ずいぶん各地に広がった。つまり人の移動があったようである。4~5世紀には田川郡香春郷に秦氏眷属が大量に入っている。これは辛嶋勝(からしま・かつ)一族などの秦氏が、香春の山にあった石灰岩から竜骨や銅を採取するためであるが、その辛嶋という氏族名からも彼等が朝鮮半島からやってきて、豊前各地に鉱物を求めて峰入りしていったであろう痕跡が、そのまま求菩提山(くぼて・さん)や英彦山(ひこ・さん)、犬鳴山などに修験道道場として残されてきた。
要するに豊前田川は日本の修験道の開始された場所だと考えられる。(中野幡能や中沢新一・大和岩雄など多数の研究あり)
田川地名は修験に関わる鷹羽(たかは)が語源であるし、香春と書いて「かわら」と読ませるのも、瓦、焼き物(サンスクリット語でカッバーラと言う)、川原がそこにあったからであろう。田川は筑豊炭田で繁栄した土地柄でもあるが、その前は竜骨や窯業のメッカである。今でもここの特徴は赤いレンガ塀である。実地調査はすでに何十回も行っているが、香春岳の麓にある採銅所(さいどうしょ)では銅鏡が作られた。この氏族も長光(ながみつ)といい秦氏関係者である。
古代から中世は鉱山と修験はリンクしている。
その始まりは田川からだろう。
その始まりは田川からだろう。
銅成分を多く含む凝灰岩が非常に多いので、ここからずっと東南の宇佐、国東半島にかけて奇岩が群れており、銅成分がカエデを好むゆえ、風で西の大陸から飛んでくるカエデの種を、この奇岩の隙間に密生させる。それが英彦山山塊の南山麓にある名勝・耶馬溪(やばけい)である。
修験道を全国的に伝播したのは秦氏出身で白山開基した泰澄(たいちょう)である。英彦山は善正が開基祈願し、宝満山は心蓮(しんれん)が開いた。各地の修験の山には実在の開山僧以外に、架空の開山者がよく付与されているが、国東六郷満山では開祖は架空の人物である仁聞(にんもん・人聞とも)しか出てこない。仁聞とはなにか?それは大地を作った母神であると中沢新一は解いている。
そういう背景にあったのが、秦氏の修験、すなわち豊国法師だったわけであろう。
この法師がなにをするために大和天皇家に呼ばれたかと言えば、医術(方術)によって用明天皇のやまいを治癒するためなのである。だから修験者は医療の知識があったことになる。
この法師がなにをするために大和天皇家に呼ばれたかと言えば、医術(方術)によって用明天皇のやまいを治癒するためなのである。だから修験者は医療の知識があったことになる。
鉱山→登山→怪我をする→薬の開発
という構図は容易に考えられる。
しかし実際には、この構図はもっと複雑。
まず修験道は仏教よりももっと古い道教・・・その前にある天文遁行に始まっている。中国仏教がこれを取り入れたのが密教である。もともと陰陽五行を生む背景のほうが、インドから仏教が来るよりも随分古い。
つまり仏教の薬師信仰の前にはもう山岳修験の医療があった。
加持祈祷の前にすでに悪霊退散があるわけで、悪霊とはとりもなおさず病気なのである。決して怨霊の祟りなどではなく、大元には病原菌などの科学的な原因があることを宗教者はちゃんと知っていた。その点、無知な信者の思い込みなどより、相当に宗教家たちは現実的である。またそうでなければ治療や信仰拡販などできるはずもない。
しかし実際には、この構図はもっと複雑。
まず修験道は仏教よりももっと古い道教・・・その前にある天文遁行に始まっている。中国仏教がこれを取り入れたのが密教である。もともと陰陽五行を生む背景のほうが、インドから仏教が来るよりも随分古い。
つまり仏教の薬師信仰の前にはもう山岳修験の医療があった。
加持祈祷の前にすでに悪霊退散があるわけで、悪霊とはとりもなおさず病気なのである。決して怨霊の祟りなどではなく、大元には病原菌などの科学的な原因があることを宗教者はちゃんと知っていた。その点、無知な信者の思い込みなどより、相当に宗教家たちは現実的である。またそうでなければ治療や信仰拡販などできるはずもない。
○○信者はメンタルでもよく、妄想家でもかまわない、いや、むしろその方が都合がよい、しかし信仰を広める側はそんなお人よしではいられるはずがない。冷徹で科学的な人物である必要がある。○○
宇佐神宮や英彦山神宮には八幡神が来る前から男女双体信仰という原始信仰があった。
これが比売神で表される陰陽の極意である。そもそも陰陽の始まりはオスメスの交配にある。これを二進法にしたのが八卦、易である。つまりここにはすでに「国家」的着想がある。陰陽五行とはのちの殖産興業、産めよ増やせよ、繁栄せよの基礎なのだ。わかりますか?
次回葛城役行者、一言主と国家の対立の実態へ
その2 雄略、一言主、役行者・・・新大王家と葛城旧王家の確執
その3花郎と修験
その2 雄略、一言主、役行者・・・新大王家と葛城旧王家の確執
国家とはなにか?
中沢新一は自著『対称性人類学』の中で次のように国家と王を規定しようとしている。
「国家のない社会では、力の源泉は自然の奥底にあるものと考えられ、森の動物の王者である熊のような存在が、そのような「真実の力」を体現していると思考されていました・・・・「王」という存在の出現が、そういう状態に決定的な変化をもたらします。王はかつての首長と同じように、社会的秩序を創出し、維持する働きをおこないますが、それを首長が持つことのなかった権力を背景としておこなうのです。その権力を王はどこから手に入れることができたのでしょうか? もともとそれは自然の奥底に潜んでいるものでした。そこにある力の源泉に手を触れることができるのは、かつてはシャーマンや戦士だけだったのですが、王は一人のシャーマンとして、また戦士として力の源泉に触れ、それを携えて人間の世界に立ち戻り、社会の内部の力の源泉を組み込むことに成功した、と主張した人物だったわけです。」
要するに、王とはもともと巫者であり勇者なのである。
王がまだ出現しない世界では、この世界=宇宙を動かす力の源泉は自然の領域・・・つまりシャーマンの手元にあった。巫女、巫覡の託宣は宇宙=神の声でありえた。しかし王はそれを力でも体現し、自らの欲望があたかも神の意思であるかのようにふるまい、そして勝ち、国家を樹立した。それはシャーマンよりも即物的に眼に見える能力であった。
ゆえに人々は王とシャーマンのどちらを選択すればいいのか迷うようになった。
王がまだ出現しない世界では、この世界=宇宙を動かす力の源泉は自然の領域・・・つまりシャーマンの手元にあった。巫女、巫覡の託宣は宇宙=神の声でありえた。しかし王はそれを力でも体現し、自らの欲望があたかも神の意思であるかのようにふるまい、そして勝ち、国家を樹立した。それはシャーマンよりも即物的に眼に見える能力であった。
ゆえに人々は王とシャーマンのどちらを選択すればいいのか迷うようになった。
”「宇宙の根源の力」を持っている点において両者は外見上そっくりであったのである。”
このシャーマンと王の相似について『日本書紀』は葛城一言主と倭王雄略の出会いで表現した。
先祖の数々の侵略と自らの知略で、名実ともに倭王となった雄略は、葛城の山に狩りに出かける。そこで自分達一行とまったく同じ服装の一団に出会う。「おまえは誰だ?」と居丈高に聞くと、相手は「われこそは葛城の神である」と応える。雄略はそれを聞くと慌てて下馬し、ひれ伏して帰順するが、やがて本性を表し、葛城の神・一言主をなめてかかるようになる。そして最後には大和の先住民である葛城一族を滅ぼしてしまうのである。
先祖の数々の侵略と自らの知略で、名実ともに倭王となった雄略は、葛城の山に狩りに出かける。そこで自分達一行とまったく同じ服装の一団に出会う。「おまえは誰だ?」と居丈高に聞くと、相手は「われこそは葛城の神である」と応える。雄略はそれを聞くと慌てて下馬し、ひれ伏して帰順するが、やがて本性を表し、葛城の神・一言主をなめてかかるようになる。そして最後には大和の先住民である葛城一族を滅ぼしてしまうのである。
雄略が手にしたのは完璧な統率者としての王権である。
しかしやがて慢心し、卑劣な暴君へと様変わりして行く。
しかしやがて慢心し、卑劣な暴君へと様変わりして行く。
この一言主という神は大阪と大和の境にある葛城王国ともいうべき古い先住国家の首長を象徴している。河内から大和に入って間もない新参者の雄略は王から大王へという野望に満ち溢れているこの国の最初の王である。王と首長の違いはここにこそある。首長は地域のリーダーでしかなくその手にはそれでもリーダーとしての呪力があった。それはあくまでも自然の摂理を神とし、神に従属する存在で、大自然にとって決して脅威ではない。しかし王は神の代弁者であるとともに、やがて神をも上回る存在を求めようとする、摂理そのものになろうとする者である。それは地球の摂理から見れば脅威である。
なぜなら、現代の戦争を見ればわかるように、人間はやがては地球を圧迫できうるだけの武器を開発してしまう生き物だからである。人間とはそもそもただの猿の延長線上にある善良な一動物に過ぎない。しかしそれが王を、国家を持ったとたんにおぞましき悪魔になる。
一見、神の代弁者であるシャーマンとまったくよく似た存在である王は、力を持った瞬間からメフィストフェレスになろうとするのである。これは神にとって脅威でしかない。
一方シャーマンの方は力を持っていてもただ山に入り、そこから呪力を得るだけで満足している。力は征服のために使われず、隣り合う地域との共存へ向かう。
役行者も葛城山に篭り、神から方術、呪力を得ても、なお山にとどまり、決して出てこようとはしない。しかし彼は山の神同様、麓の人々に畏れられ、崇拝されている。口を開かずとも、人々は山を遠くから見上げ、畏怖した。山とは遠くからながめて、そこにいる神を感じるだけでそこに規律と威厳と摂理を暗黙のうちに教えてきた。ところが王はその山の頂上に登ろうとする存在である。あまつさえ自身が神にならんともくろむ存在である。
呪力は同格、しかし目的がある王には、神はさほど畏れる存在でもない。むしろそれが邪魔でさえある場合もある。事実、雄略の先祖は、瀬戸内の吉備の首長でさえ殲滅して河内にやってきた。
こうして望まずして葛城の修験者たちは国家と立ち向かう宿命に落ちてゆくのである。
後の時代にも、織田信長はやはり一向宗や本願寺を圧迫している。宗教者と国家が二分され、不可侵となっていったのは西欧がいち早くそうした。民主主義が祭政不一致を原則とするのも、この歴史の中から生まれた知恵である。ようするに葛城修験道も吉備王も、そして出雲も五世紀の国家によって完膚なきまでに壊滅させられたのであろう。
日本の東九州に修験道が入るのとちょうど同じ時代、朝鮮半島の加耶でも、まったく修験道によく似た集団が生まれている。次回は半島の「花郎(ファラン)」と修験、その母子社会性について。東九州から対馬、加耶にかけて加耶系渡来人がこうした山岳における集団を形成する背後には母系社会と童子信仰があった。それと先住縄文からの山の民は英彦山で出会っている。猟師・藤原恒雄というきわめて不可思議な人物と・・・。
その3花郎と修験
ではいったい修験とはいつから日本で始まったのだろうか?
あくまでも人口に膾炙した理解では、泰澄の白山開基は養老一年、仁聞菩薩が六郷満山に修験道を開くのは養老二年のことだと言われている。葛城役行者もこのあたり、羽黒山の峰子皇子もだいたい同じ頃だとされている。養老二年にはもう、国家的仏教徒に登録していない行者の山林修行を禁止する太政官符が出されている。ということは養老二年までに、かなりの行者が山々に入って修行していたことになる。ところが太政官符が出されたというのに、かえって山に入る行者はますます増えている。
だから、個人的な山への行入はかなり以前から、人知れず行われていたに違いない。
だから、個人的な山への行入はかなり以前から、人知れず行われていたに違いない。
日本の山林修行が始まる50年以上前、朝鮮半島では花郎集会が始まっている。これは青年男子による結社あるいは組合のようなものである。『三国史記』では、花郎は主に貴族の子弟を集めて作った青年戦士組合だとされている。
本来は華々しい戦士を訓練する道場だったのが、いつのまにか美しく着飾り、武装したうえ、どことなく怪しげな・・・日本の旗本連のような塩梅に変化して行った。どうも中国の梁山泊のようでありながらどことなく女性的な派手さがある。ただ、花郎たちには、ちょうど男子ばかりが集まる集団が持ちたがる、男子ならではのイニシエーション儀式があったらしく、新参者には厳しい身体的・精神的試練が課せられた。
カトリック・キリスト教には、自らの体を傷つけることで神への信仰の証とする一群があったらしいが、その場合も若い道士が多かったようである。花郎の場合、カトリックよりもむしろ体育会系の特訓、修行で苦しむような儀式があったようだ。山をあたかもはやてのように登ってゆくほどの一団であるから、相当な鍛錬を好んだのでなければならない。この花郎集団も修験同様、最初は古代韓民族の間でひっそりと行われていたものが、やがて国家的組織として新羅時代に再編成されたものらしい。
修験道の派生と時代も近く、対馬の天童法師と同じく「ソト」という聖域を持ち、それを支配した。ソトとは半島の鳥居とも考えられるソッテ「卒土」という柱を立てた聖域のことである。この柱はインドでいうソトゥパ=卒塔婆=塔のことである。塔は世界中で[t]あるいは[s]音で始まる言葉で表されるが、英語のタワーも日本語の「とう」も、サンスクリット起源のソトゥパが伝わったものである。仏教の五重塔や九輪塔、国東塔などもみな舎利を収めたものとされるが、やはりもともと聖なる場所という意味合いがある。
その形態は母系社会だと言われ、当初二名の美女を巫女のようにはべらせていたが、それでは風紀が乱れるため、やがて美少年の結社的な集団になってゆく。いわゆる対馬の天童も、美少年の集団で、象徴的よりしろとして天童童子像を持つ。つまりこれは子神であり、それを生み出す観念的な母神への献身という精神的支柱があった。ちょうど聖徳太子が童子の姿をして顕現していたと太子信仰や、宇佐の童形八幡に通じる、大地母と皇子神の関係がそこに見られる。きわめて中性的な存在で、ちょうど修験が中間人間だったことにあい通じている。中間の、現実の男でも女でもない戦闘集団が、なぜか厳しい鍛錬をする・・・あたかも信長が寵愛した森蘭丸のごとき、中世の大名がそういう寵童(ちょうどう)を持っていたことに似ている。鎌倉時代にも頼朝がやはり大友能直を寵愛したという記事がある。
またかの柳田國男は国東六郷満山開祖と伝説の菩薩・仁聞も、「人聞」「にんもん」「人母」で母神であり、それは八幡神の化身・・・すなわち神功皇后につながると考えたようである。九州北部から東部にかけて蔓延している姫神信仰の多さは、修験と大きく関わったはずだ。母なる大地から生まれ、母なる胎内であるべき山々をかけ巡る修行・・・そして決して山から出て行かぬ隠遁者のごとき存在。しかも方術を身につけ、ときに天狗やカラスや鷹に見立てられる妖怪・・・それが修験である。この世のものではない呪を身に着けた不気味な術者。
王にとってこのうえなく困った存在。方術が人を迷わせ、麓で、里で、田を耕さぬ者を増やしていく、国家の埒外の修験者・・・。雄略もまた、葛城のそうした不穏なところが怖かったのかも知れぬ。そもそも山の民で、鉱山採取者でもあった葛城の民は、国家には利用価値が高かった。鉄の威力で国家をまとめた王にとって、鉱物は大切な産業である。それをすべて奪いたい。
九州の英彦山で、開山に入った開祖が山の中で藤原恒雄(ふじわら・かんゆう)という山猟師に出会うシーンがある。この猟師の名前はなぜか苗字は日本の藤原姓でありながら、名前のほうは「かんゆう」という朝鮮の始祖を思わせるものになっており、山の民であることから先住民=縄文を思わせ、しかも山の人とは鉱山師をも思わせる。修験は山の奥深くに隠れ住む縄文、先住民、鉱山師たちまでを信仰にとりこむ危険性が高い。それは国家仏教以上に彼等の迷信の中に同居しやすく、仏教の難しい哲学・教義を容易に凌駕してしまう危険性を孕んでいる。つまり大地母神は先住民に共感を与える。なぜなら彼等自身、そうした大地、宇宙に母親、陰物を見てきたからだ。陰陽の大元にある陰陽石の信仰を彼等がもともと持っているからである。
これが国家には困る。ゆえに修験は国家にたてつく存在となってゆく。
国家ですら、最初は空海のような密教の意味をわかっていない。また聖徳太子という架空の観念、天童によって民衆をまとめようとした。最初はそれでよかった。しかし仏教が国家の宗教になった場合、陰陽はあまりに原初的で危険な存在となった。民衆がそちらへ向かうだけの神秘な方術も困った存在であった。
国家と修験 を含む記事 : 民族学伝承ひろいあげ辞典
1~3の2009年記事をまとめて再掲載した。
日本古代史では
物部氏を筆頭に、古くは葛城氏、尾張氏、大伴氏、あるいは紀氏などなど、新しくは蘇我氏というような「敗北氏族」があって、山間僻地に逃れつつ、あるものは流浪:漂泊の民となり、あるものは神社に巣くう犬神人となり、またあるものは中世以降、天皇家にはむかい、南朝に加担するなどなどの、ああ、これは古代にあった王家からの差別への怨嗟が続いた結果なのだろうという推測をするのが筆者である。


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