日牟禮(ひむれ)八幡宮
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「日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)は、滋賀県近江八幡市宮内町にある神社。「近江八幡市」の市名の由来となった神社である。

古くから近江商人の信仰を集め、二大火祭の「左義長まつり」と「八幡まつり」は国の選択無形民俗文化財である。境内地は八幡伝統的建造物群保存地区の構成要素。旧社格県社で、現在は神社本庁別表神社

伝承によれば、成務天皇元年(131年)、成務天皇高穴穂の宮に即位の時、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神(大国主神)を祀ったのが草創とされている(この大嶋大神を祀ったのが、現在の大嶋神社奥津嶋神社なのか、境内社の大嶋神社なのかは定かではない)。応神天皇6年(275年)、応神天皇奥津嶋神社から還幸の時、社の近辺に御座所を設けられ休憩した。その後、その仮屋跡に日輪の形を2つ見るという不思議な現象があり、祠を建て、日群之社八幡宮と名付けられたという。

持統天皇5年(691年)、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟禮社と改められたと云われる(「天降りの 神の誕生の八幡かも ひむれの杜に なびく白雲」)。」



今朝からこの神社の件と、今一つ「左義長」と「ぎっちょ」の由来について、かなり検索で遊べた。
検索機能、インターネットは、そのように知識に飢えた者にとって有益な道具だ。知識遊びは楽しい。

さて、なぜこの神社なのかというと、自分が過去書いたこの記事を再読したからだ。

「故、是に於いて、天照大御神、見畏みて、天石屋戸を開きて、刺許母理 (此三字音訓み、さしこもり 古神注07014)坐しき。爾(ここ)に高天原、皆暗く、葦原中國、悉(ことごとく)闇(くら)し。此れに因りて常夜往く。」神代紀七段 天岩屋戸


アマテラスの天岩屋戸籠りを日蝕と考えた最初は、江戸期の荻生徂徠であるとされる。
その後は近代、東京天文台(現国立天文台)名誉教授・故斉藤国治氏およびその後の天文計算の結果で247年3月24日に日蝕が起きたことが計算された。ただ、徂徠と違うのは、斉藤は日蝕が3世紀卑弥呼の時代に起こったかを検証したのであり、その結果としてついでに卑弥呼=アマテラス説も考えてみて面白がっているということである。およそ学者はこういうことを頭のリフレッシュ的にやってみる癖(へき)があるものだ。それを民間がまともに受け取ると、歴史は混乱してしまう。もう何十年も前に筆者Kawakatuも落ち込みそうになった落とし穴である。


この247年の日食は、アフリカから対馬沖までは皆既で見られるが、日本列島のほとんどの土地では部分日蝕で、ほぼ完全な皆既日蝕は九州の一部では見られるが,東へ行くほど貧弱になり,近畿では半分くらいしか欠けない。つまり記紀が言うような世の中が暗闇になるような日蝕は北部九州にしかなかったわけであろう。


さて、いつも申すように『日本書紀』記述は多くが藤原氏の正当性のために書かれている。ゆえに『日本書紀』は国史としては潤色の多すぎるしろものである。おそらく日蝕だったであろう「アマテラスの天岩屋戸引き籠り」記事も、当然アマテラス・・・つまり女帝時代の正当性を言うことによって、摂政である藤原家も正当だと言うがための創作であると考えるのが当たり前。そこには魏書の卑弥呼など毛頭念頭にはなさそうである。あるとすれば、中華が女王と認めてしまった大昔のどこかの女王が、藤原時代の持統以下の女帝たちが天皇となるために有利な前例、としただけのことである。


さて卑弥呼には大変アンラッキーなことだが、彼女の晩年に、もう1回皆既日食があり,それは翌248年9月5日の早朝だったという。これだけでも女王殺しの理由になるほど、二度の皆既日蝕は古代において重大すぎる事件である。ただの自然現象=事故なのだが事件になってしまう重大事だったろう。なぜなら卑弥呼は巫女だからだ。日蝕を二度も予言できなかったとしたら、それだけで王殺しの理由になれる。しかもこの時代、大陸は三国志の戦乱時代である。朝鮮半島情勢も大混乱のさなかであり、安定していた地域は中華三国の喧噪や、半島三国の喧噪から離れた「公孫氏燕国」だけである。ゆえに卑弥呼も公孫氏とのつきあいで、魏よりもむしろ孫権の呉と深く関わった。その証拠が神獣鏡などの呉のデザインの鏡であろう。呉は長江河口部にあって黄河河口部の魏よりも、南方系の道教より古い神仙思想のメッカであり、公孫淵の信仰もまた神仙思想に満ちた「鬼道」すなわち五斗米道のようなものだった。


卑弥呼の信仰も魏書は「鬼道」と記録しており、当然公孫氏、呉国と同じ神獣や西王母などを絵柄とした神獣鏡を用いたはずだ。ところが呉は魏に敗北し、公孫国家も滅ぼされたことで、卑弥呼の予知能力は完全に間違っていることになったわけだから、殺されて当たり前だった。なにも日蝕などなくても卑弥呼は殺されただろう。つまり日蝕など無関係に邪馬台国は一度滅ぶのであるし、その場所は皆既日蝕が見えずとも、どこでもよいのである。


さて、日蝕という名前の神社があるそうである。その名前はなんと藤原不比等がつけたのだそうである。面白い?


不比等は『日本書紀』によって持統と女帝時代、それを支える藤原摂政の正当性を言いたい。だからアマテラスをそれらしき場所に無理やり祀らせるのは当然だろう。全国の神社の祭神がアマテラスに置き換えられるのも国家統一イデオロギーの一環として当然の政治的行為だ。当時の神社は税務署であり裁判所であり、地方代官所、県庁でもあるのだから。ゆえに名前にアマテラスの岩屋戸を思わせる日蝕をつけても何もおかしくはない。



滋賀県日蝕山の日牟禮(ひむれ)八幡宮。
 JR近江八幡駅の北西約2.3km、八幡山(271.9m)の南麓にある神社。誉田別尊(ほんたわけのみこと)・息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・比売神(ひめかみ)の三神を祭神とする旧八幡町の総社で、平安時代の創建と言われ、九州の宇佐八幡宮の神霊を勧進したと伝わります。
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/201


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八幡宮
サイトより



「八幡宮のwikiによれば、「持統天皇5年(691年)、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟禮社と改められたと云われる(「天降りの 神の誕生の八幡かも ひむれの杜に なびく白雲」)。」とあります!
不比等は卑弥呼の霊を祀る日蝕神社に参拝して、社名変更を迫ったようです」


この方はいささか早計に考えておられるようだが、まず
1 滋賀県では3世紀の皆既日蝕は観られない
2 不比等自身が神社に出向いたり、社名を変えるのではなく、『日本書紀』以後に『日本書紀』記事に合わせさせる政治的動きは、神社自身からすすんで起こったのが当たり前
3 社名や祭神のアマテラス統一化は明治から敗戦前まで当然行われ、現在再びそうなっている。これは神社庁の時代錯誤した統一観念であろう。神社庁には自由主義も民主主義もないのである。
4 なんと言っても最大の理由はアマテラス=天皇家祖神という記紀イデオロギーが中心思想であり、卑弥呼、日蝕などはおまけでしかない。しかも神社庁や藤原家が意図したことではなく、江戸以来の民間学者が勝手にアマテラスと卑弥呼、神功皇后を結び付けた説が人気となって独り歩きしだしただけのこと。ほとんどデニケン的お騒がせ空想小説の世界である。



なお古代3世紀以前の日蝕は、ほかに150年代に一度ある。


筆者は邪馬台国は1世紀、九州の奴国にあり、それが3世紀、大陸の喧噪を避けて東へ移動する・・・遠賀川土器と稲作の異動と合致、という説だが、コースは応神天皇に一致する。稲作は最初朝鮮式水田が遠賀川から日本海を東北まで北上し、次に瀬戸内で松山、吉備、摂津から大和へ入る。大和のほうが水耕稲作は遅いのだ。その後菜畑の中国長江式水田が熊襲のいた南九州から太平洋を北上し、豊後水道から瀬戸内で香川や淡路島から大阪湾へ入る。これが神武東征コースに合致する。菜畑末羅国~日向~宇佐~吉備~紀州~ヤマトである。この伝承は明確に紀氏集団によって記紀神武東征に反映された。
アマテラス=卑弥呼、日蝕=天岩屋戸、藤原不比等策謀に見事にはまった空想小説 : 民族学伝承ひろいあげ辞典


図説12枚でわかる「奴国王東遷」・紀元前奴国は大和へ動いた!その1~3参照
図説12枚でわかる奴国王 を含む記事 : 民族学伝承ひろいあげ辞典


というわけであなたにもこれらの記事を再読願おうというわけでして。

左義長については次回書きたい。

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