

太乙禹余粮(たいいつ・うよりょう 唐古・鍵遺跡・1世紀から出土、太乙余根)
◆まず中国年号「中平」について
中平(ちゅうへい)は、後漢の霊帝(劉宏=りゅう・こう)の治世に行われた4番目の元号で、西暦では184~189年頃とされる。
この時代の日本での出来事の記録
A 『後漢書』東夷伝倭伝など・・・
「桓霊間倭國大亂 更相攻伐歴年無主 有一女子名曰卑彌呼」
漢の霊帝の光和中(178-184年)倭国は大きく乱れ、何年も戦さを続けた。結果的に卑弥呼という一人の女性を共立して王とし国は治まった。
B 同上書東夷伝韓伝・・・・・・・「桓霊之末」
C 『梁書』・・・・・・・・・・・「霊帝光和年中」
D 考古学一級資料東大寺山古墳出土鉄剣銘・・「中平■年」
※「桓霊」の「桓」は霊帝の前の皇帝桓帝(147~168年)のこと
※東大寺山古墳は奈良県天理市和邇にある和邇氏の古墳。和邇氏が後漢とダイレクトに通じていた説と、間にあった東北部(遼東半島あたり)の燕国(公孫氏燕国)を仲介してもらった説がある。1世紀当時の和邇氏は尾張氏の媛を嫁にした記事が『日本書紀』に出ている。いわゆる建振熊命(たけふるくま)に関する両者の婚姻関係である。尾張氏の古くからの海運力も考えておくほうが良かろう。
※「光和」年の期間については確定しているとは言えない。だいたいその頃だろうといわれている。
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◆五斗米道
おおまかにとらえるなら、桓霊年間は中国が大いに乱れた時期で、その影響を倭国も受けていたと捉えるべきだろう。特に五斗米道を唱えた張一族が三代目の張魯(ちょう・ろ)の頃に拡大しながら漢の中原に移動して黄巾の乱が勃発、大国後漢がその神秘的な西王母信仰によっていとも簡単に倒れてゆく時期である。「大乱」はむしろ中国で起きていたと言える。
問題はこの五斗米道が「鬼道=きどう」と呼ばれていたことである。
◆鬼道
簡単に言うなら西王母=大地母信仰である。
主な目的は仙人になって達観した世界観を得ること。これを登仙(とうせん)と言う。このためのノウハウが仙薬製造服用(つまり麻薬によるトリップ・憑依)、ヒスイ玉・玉壁・銅器などを打ち鳴らして憑依、ようするにトリップして祖霊と交霊することで祖霊の加護と、短い人生や将来の不安を前向きに昇華(アウフ・へーベン=独語「止揚」)させようという原始的呪術の道である。この麻薬の煙から今の護摩や線香は出ている。そもそもイスラム以外の宗教にはこうした神秘性・あやかしによる誤魔化しがついて回る宿命にある。イスラムだけは純粋理論である。ただし悪用されて戦争に使われるという点で今は変わりないが。仏教ではなく仏陀の狭義は理論・哲学だがどうしてもその弟子たちは宣伝効果を狙う必要性があったので、仕方がないが。まずはそういう「煙に巻く」宗教的習慣と偶像崇拝・・・つまり目に見える荘厳さというのは詐欺の一種と冷徹に見極めておかないと、すぐにおばあさんのようにだまされますからご注意。ま、だまされているうちが花かな?楽しい時間をいただいてうさをわすれさせてもらったんだからね。天国の時間をもらったんならしょうがあるまいか?いわしの頭であるな。
とにかく五斗米道もアフリカやボルネオにあった原始信仰に近い。日本では巫女の霊媒などもここから出ている。
ただ、道具がなかなか文明的で、銅鏡に神仙・神獣などを描き、精巧な呪具を用いるようだ。その多くは宝珠のような玉や銅器であるからやはり長江文明的である。
中国南部長江流域派生の神仙思想に仏教やヒンズー教などがないまぜになって成立する道教の一派である五斗米道集団の信仰を鬼道と記録がある。『三国志』「魏書」は張魯(ちょう・ろ)が鬼道をもって民をよく教化した、あるいは「蜀書」は張魯の母が鬼道によって若々しい容貌を保ったと書いてある。
この張魯と母親の関係が卑弥呼と男弟のヒコヒメ的な政治体制に似ていると多くの学者が考えているようだ。
◆卑弥呼の鬼道は神仙思想だったか?唐古鍵遺跡が鍵
これを証明する遺物はまずは平原遺跡などの大量の前漢鏡と畿内では画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡、そして先に書いておいた九州と畿内で多く出る舟葬習慣、甕棺の十字型呪符だけでなく奈良県唐古鍵遺跡から出た「太一禹餘粮(たいいつ・うよりょう)」もそれにあたる。いわゆる自然に作り出された褐鉄鉱の容器の中に勾玉などを入れたもので、この褐鉄鉱を削って仙薬としていたのが五斗米道である。
褐鉄鉱の鉄分は医学的にヘモグロビンを増加させ、貧血を押さえるわけで、鉄分である。
禹余粮→禹余粮_百度百科
鳴石・褐鉄鉱容器→ヒスイ製勾玉を納めた鳴石(褐鉄鉱)容器/田原本町
カラー画像→鈴石(鳴石)、禹余粮(うよりょう)→鈴石(鳴石)、禹余粮 - Google 検索
簡単に言うならば血の気を増やして踊れ、歌え、憑依せい!という、単純な憂さ晴らしが、古代ではれっきとした宗教として成立し、これが国家を乗っ取ることさえ起きたわけだ。
そう考えるとまったくあほらしくなるが、後漢滅亡も倭国大乱もそうした馬鹿馬鹿しいような信仰によって起きたことになる。
しかしこの思想は後に道教と仏教の混合を引き起こし密教として大成し、空海が持ち帰ることになる。つまり奈良の大仏さんもそういう原始信仰をバックボーンに持って造られたと言っても過言ではない。それに現代のわれわれにも、いまだにこうした迷信を信じようとする、救いを求める心が残存することは、おそるべしなのである。
卑弥呼の鬼道は中国南部の神仙思想で間違いないだろう。ようするに憑依して民衆をひとつにすればよかったのである。大乱を収めるためにはよかれ悪しかれ心を平穏にし、ひとつにまとめることが巫女王、また今の為政者にも最重要である。なまずでおさまった現代日本もまったく同じ鎮静効果だ。
それにしても唐古鍵の禹余粮と纏向遺跡の祭祀建造物しか出ない遺構は、むしろ邪馬台国を裏付けている気がしてくる。やはり平原からの移住があって、祭祀にまい進したのだろう。
ただし東への大きな移住者は少なくとも二度、二種族あったと見なければ唐古鍵と纒向の違いは見えてこない気がする。四世紀以降の巨大古墳時代は、纒向型の数倍の大きさで、これは黄河文明=応神王家=騎馬民族の到来を語っている。一度目は長江文明人=青銅器・稲作文明、二度目は黄河文明人=鉄器・雑穀小麦文明。そう考えると大阪の粉食文化に納得が?半島からのフヨ族移住などはそのあとだ。倭人の中心人物はあくまでも中国黄河と長江人である。青銅器と鉄器が日本ではほとんどタイムラグがないわけはこれで解明できる。間断なく、100年ほどの感覚で縄文末期~弥生初頭に二度の玉突き渡海が起きたのだ。勝ったのは黄河人=倭五王=狗奴国だろう。だからその後の歴史で暗躍が起きて、何度も政権交代絵巻が演じられたのではないか?
◆邪馬台国の主要氏族は和邇氏・ルーツは長江中流域
いずれにせよ1世紀の唐古鍵遺跡に関与する氏族はやはり和邇氏しかいない。つまり和邇氏は邪馬台国の中心選手なのだ。これに海人族が加わったのは魏志にある北部九州倭人の風俗を見れば想像がつく。実際、大阪と奈良には舟形木棺、舟形木槨(もっかく)がたくさん出てくる。これは北部九州の西側に多い甕棺の次の埋葬風習である。甕棺氏族は黄河文明人であろうか?それまでの長江文明時代になかったものが黄河文明南下と同時に出現するからだ。あるいは逆にこうも考えられる。黄河文明人との戦闘によって大量の長江人死者が出るようになったか・・・?すると甕棺は長江文明人のものか?出てくる遺骨は頭部が前後に長い、長身となっている。
◆舟形木槨・木棺


最初は佐賀に届いた舟形葬風習。それが100年ほどで畿内、そして東海・関東に登場する。この風習は長江中流域で山ほど出てくる。埼玉県稲荷山古墳の木槨と木棺は有名である。昔は小林行雄らはこの船形を割り竹型のはしっこだけが変形してしまったと考えられ、「舟形はない」と決め付けられてきた。当時は丸木舟での渡海など絶対ありえないというのが学会の主流だったのだ。ついこのあいだまでそうだった。いくら九州や日本海から舟そのものや埴輪が出ても、先駆者たちは頑迷にこれを否定してきた。あわれな想像力・貧困な着想と哀れむしかない。戦前教育のなんと狭量なことか。
◆その後の五斗米道と理性派曹操
「こうして五斗米道は、三国時代直前には漢中に宗教王国とも言える組織を形成したが、建安20年(215年)に曹操が漢中に侵入してくると、これに帰順する。五斗米道は帰順後も漢中支配を実質的に容認されたが、曹操が五斗米道信者を強制的に北方へ連行した事から教祖を中心とした祭酒制度を崩壊、五斗米道そのものは一時中絶の危機に陥る。その後、西晋が滅亡し東晋が東遷した時に、現在の江西省にある竜虎山へ拠点を移した。」
つまり理性派曹操は神秘主義を排除してこれを消滅させたわけである。その曹操が建てた魏に卑弥呼や狗奴国王が朝貢したのは矛盾するように見えるだろうが、歴史は理論とはまた別で、覇者であるならその援助が必要。好みはまた別である。ということは曹操の息子王はよくこの「遅れた思想」の女王国を迎え入れ、しかも好物の神仙思想満載の鏡をくれたものである。つまり新たに彼女らのためにそれを作るはずがないのだ。曹操が奪い取った呉鏡こそが卑弥呼がもらった鏡なのである。
鬼道(きどう)・中平年号・桓霊年間 半島渡来よりも長江・黄河「渡海人」 : 民族学伝承ひろいあげ辞典
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