「晋書」名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 について : 民族学伝承ひろいあげ辞典
「晋書(しんしょ)」 巻九十七 「四夷伝(よんいでん)」
「舊以男子為主 漢末 倭人亂 攻伐不定 乃立女子為王 名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相 又數至 泰始初、遣使重譯入貢」
翻訳
「もと、男子を以って主となす。漢末、倭人みだれ、攻伐して定まらず。乃ち女子を立てて王となす、名を卑弥呼と曰う。宣帝の平ぐ公孫氏なり。その女王の遣使、帯方に至りて朝見す。その後、貢聘して絶えず。文帝、作相するに及び、また、しばしば至る。泰始の初め、遣使かさねて入貢を訳せり。」
解釈
『日本書紀』において、女王卑弥呼はまったく本文に登場させていない。させていない理由は、日本の天皇の世紀が4世紀の崇神以降から始まる事実を、書紀では神武以後の欠史八代がいたと書くことで延長させた、いわゆるヒエラルキー的な対外的な創作をほどこしてあるものの、実際には崇神以前には天皇はおらず、代わりに摂政としての神功皇后を卑弥呼として代用し、無理やり挿入。ところがのちになると神功皇后は持統天皇の正統性のために、アマテラス的女性として女帝正当化に利用した(それが蘇我氏の推古女帝の踏襲ととられることを避けたいがため、突如女神を国家神化して、持統は推古のような傀儡王ではないと矛先をかわそうとしている)ため矛盾が生じてしまう。
本文にはないが、注釈として中国三国志には卑弥呼なる女王がいたと言うと記載してあり、それは神功皇后紀の中であるから、当初は当然、神功皇后=卑弥呼と当てていたはずなのだが、藤原不比等の書紀編纂介入により、皇后は天皇家と無関係な卑弥呼などより持統女帝のために使われたわけである。ゆえに前半と後半に矛盾が生じた。そしてむしろ卑弥呼は、女帝の前例としの役目をしょわされることとなる。それは言い換えればアマテラス=天皇家の祖先神とするにも好都合だったはずだ。
さて、では卑弥呼が公孫氏の出身者だったというのが事実なら、卑弥呼が北魏(公孫淵)が魏によって滅んだとき、どうしようとするだろうか?と考えていただきたい。鬼道の本家本元が滅び、それをバックアップしてきた呉国も衰退して、神獣鏡を用いる卑弥呼の鬼道も意味がなくなったはずである。通用しなくなった鏡たちは墓にでも埋葬し、歴史とともに消すのが一番であろう。壊して割ってすることで、魏への忠義にもなるだろう。つまり神獣鏡は公孫氏がくれた鏡であって、魏王がくれたものではないということになるのだ。
日本古代史はこのように、8世紀の政治事情を常に念頭に置いて過去のことも分析すべきではないかと考えるものである。
でないと過去の権威たちのように、視野狭窄のごとき軽い分析に終始することだろう。木を見て森を見ずの軽薄な論考に何の意味があろうか?
「晋書」名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 について : 民族学伝承ひろいあげ辞典
卑弥呼は公孫度の姉・妹か? 古代日本と東アジア交流史4 : 民族学伝承ひろいあげ辞典
昨日22日に再啓上した記事「古代日本と東アジア交流史 3 漢から魏へ 女王卑弥呼の登場 歴史本義」をくまなく読まれた方は、いくらかは卑弥呼は公孫氏の血縁者だった可能性はないか?と感じられた方がいたのではなかろうか?再度3世紀の部分を貼り付けておこう。
ところが公孫氏は呉と通じて魏を脅かす存在に成長し、楽浪南部に を設置。高句麗・韓を支配せんと暗躍。人民を鬼道を用いて扇動しはじめてしまった。もともとその前の黄巾によって、この地域には道教以前の華南起源の神仙思想(太古からあった原始的神秘性を重視するシャーマニズム。よりしろに神獣鏡などを用いて、不老不死や祖霊憑依による口よせ的な神霊降臨思想)によって民心をたくみにあやつろうとした。
呉やのちに百済が生まれる帯方郡、つまりピョンヤンやソウルとの魏を挟み込む挟撃作戦と、北方異民族の烏丸・鮮卑をも手なづけた騎馬戦力、表向きは魏にすりよる格好だけしてみせる公孫氏の狡猾さは、長く遼東から韓半島・高句麗を巻き込んで魏を脅かし続けた。たまらず魏では遼東進撃を開始して、度の子孫公孫康(燕王を自称)を撃たんとする。」
古代日本と東アジア交流史 3 漢から魏へ 女王卑弥呼の登場 歴史本義 : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)
公孫氏と卑弥呼の血縁関係を研究されたサイトは、過去いくつか存在する。
邪馬台国は朝鮮半島にあったのか-3 卑弥呼は公孫氏の係累ではない - 縄文と古代文明を探求しよう! (joumon.jp.net)
卑弥呼は公孫氏の類縁か | oyasumiponのブログ (ameblo.jp)
下のサイトの方は、その理由を三つにまとめて挙げておられる。
①中国の史書に、公孫氏と卑弥呼の関連がかかれた箇所がある。
②日本の新撰姓氏集に、公孫淵の後裔の氏族がいる。
③公孫氏は鮮卑族の可能性があり、倭国と密接な関係のある金管(ママ→官)伽耶も鮮卑族の可能性がある。
①については、すでに誰もが、倭人伝の「鬼道」でのかかわりを書いている。考古学では三角縁神獣鏡の画題が公孫氏とつながりが深かった呉国で多用されたの神獣画であることがある。これは三国時代に呉と公孫氏が真ん中の魏を挟撃するための同盟という視点でわかりやすい。すると半島をも公孫氏が挟撃すようとするなら、手を結ぶ先は日本列島倭国しかないとなる。
さらに中国史書のこの記述をあげる。
「晋書(しんしょ)」 巻九十七 「四夷伝(よんいでん)」
「舊以男子為主 漢末 倭人亂 攻伐不定 乃立女子為王 名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相 又數至 泰始初、遣使重譯入貢」
山形氏の訳文
もと、男子を以って主となす。漢末、倭人みだれ、攻伐して定まらず。乃ち女子を立てて王となす、名を卑弥呼と曰う。宣帝の平ぐ公孫氏なり。その女王の遣使、帯方に至りて朝見す。その後、貢聘して絶えず。文帝、作相するに及び、また、しばしば至る。泰始の初め、遣使かさねて入貢を訳せり。」
②については、『新撰姓氏録』には常世連(とこよのむらじ)が公孫淵の末裔としてあるが、公孫康の息子である淵では年代が卑弥呼より若くなり、採用しにくい。それに渡来系常世連はのちの赤染氏(あかぞめ・香春神社祭祀者で秦氏末裔?)で、秦氏だと思われるので、『新撰姓氏録』氏族の多くが自称を書かせたと思われる。
③については、後者が、公孫康の娘が卑弥呼でその弟なら200年ごろ倭国に来れたかもとしている。
つまり総じて、公孫度より前の親族の子、という視点では書かれていないことになろうか。
公孫度の父は、延だが、ほとんど資料はない。そして公孫氏が東北に覇を唱えるのは子供の度の189年だから、その娘では倭国大乱に間に合わないのである。
そこでしかたなく③説が出てくることになる。親族でないなら鮮卑族の誰かではないかという、少し無理な話である。しかし資料がない。
要するに倭の女王・卑弥呼は公孫度の国家が魏から独立してからでないと、魏を挟撃する意思を持ち、その同盟の相手国としての倭国はまだ必要がないわけである。ところがこれらの検証には度に姉か妹がいたというような着想はない。それはつまり次の太守公孫康のおばという視点だ。
上記サイトにあったように中国史書では
「名を卑弥呼と曰う。宣帝の平ぐ公孫氏なり。」とあり、意味は卑弥呼は公孫氏である
となっているのだから、何も公孫度や公孫康の直系血縁でなくとも、ほかの親戚でもよいことになろうけれど、度の兄弟が系譜にないので、ならば同じ記録がないのなら度の兄弟で考えてみたまで。
なにしろ189年倭国大乱前には卑弥呼は倭国に来ていなければならないわけだから、度の娘ではいわゆる倭国との共闘のための人質には若すぎるし、姉や妹がいたなら可能になる。そうなれば宗女台与は康の娘となって年齢的に齟齬はなくなる。
ま、一考察に過ぎない。面白いと思ってくれればそれでいい。
いずれにいせよ卑弥呼が公孫氏なら、その国の範囲はまだ九州だったことになるのかもしれない。2世紀のヤマトにはまだ大きな国家がないからだ。纏向遺跡が3世紀半ばからで、それは公孫康末期~公孫淵の時代なのであるから。だから邪馬台国は九州から近畿へ動き、先にヤマトにいた吉備王家と争ったことになる。つまり狗奴国は奴国だったとなり、キビと奴国はのちに外戚関係になったことが、九州の嫁、吉備の王という大王家の基礎になったと考えられるのであるが。
卑弥呼は公孫度の姉・妹か? 古代日本と東アジア交流史4 : 民族学伝承ひろいあげ辞典
過去記事を二つ再掲載引用した。
それぞれ22年、23年に筆者が書いた記事だ。
そして今は卑弥呼のいた場所についてどう思っているかをメモっておきたい。
上記二つの記事を要約しておこう。
中国の
「晋書(しんしょ)」 巻九十七 「四夷伝(よんいでん)」
「舊以男子為主 漢末 倭人亂 攻伐不定 乃立女子為王 名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相 又數至 泰始初、遣使重譯入貢」
1 ヒミコ女王は公孫氏のヒトであるらしいこと
2 太守公孫康のおばという視点。=父・公孫度(たく)の女兄弟ではないかという可能性
3 『日本書紀』は藤原氏にとって都合がよい持統女帝の前例としての神功皇后を魏書の卑弥呼にし立てた
4 藤原氏は蘇我氏の真似と言われたくないために、持統を推古とは違う天孫アマテラスに仕立てる必要から神功皇后を作り出し、それが卑弥呼だったと思わせようと皇后紀に魏志の女王がいたことを書きこむ
5 神武から欠史八代を入れることが、蘇我氏の推古血脈と天智~持統の血統の違いであると言いたかった。つまりこっちの天皇は継体大王の直系で、崇神直系の推古らとは別系統だとする必要があった
の五点である。
しかしここには、その女性が倭国に来て女王になる視点しかなく、もしかすると遼東の公孫国家にいたままで、そこに第一次の邪馬台国を作って使者を用いて倭へ指示していた可能性はないかに言及していないのだ。
卑弥呼は魏志の東夷伝中の倭人伝では、どこにいたかわからず、彼女を見た者すら少ないと書いているのだから、逆に考えれば、どこにいてもよいわけだ。指示を使者に託せばいいのだから。
証拠
1 三角縁神獣鏡が呉の神仙思想を表す鏡で、呉の国と親しく神仙思想を政治の主としていたのは公孫氏だということ。つまりそれこそが鬼道であるなら、卑弥呼の鬼道もそうだったから神獣鏡を求めた
2 呉と魏が対立しており、公孫氏は魏から朝鮮半島支配のために派遣されたにも関わらず、命に反して呉と同盟し、魏を挟み込もうとしたこと。そのために倭国を以て半島挟撃の盟友としたかった。ゆえに親族を倭国へ贈り、スパイとした可能性
3 遼東地域から倭へ向かえば、日本海側の伊都国や奴国、あるいは出雲国から通ずる吉備が当時の二大大国だったこと
4 しかし公孫氏は3世紀に魏によって滅ぼされ、倭国(九州や吉備・出雲や近畿の丹後や大和や大阪曽根)は大いに迷うことになるが、女王卑弥呼はすかさず魏へ朝貢し、呉の神仙思想の鏡を欲している。魏王は辟易しながらもそれを用意して百枚もたせること。そうしないと魏は公孫や呉への郷愁残る倭国を恭順させられなかったという見方。苦肉の策。なぜ倭が必要か?倭人は水運民族で、船を手繰りシナ海の海運に詳しい。
倭人字せん
曹操は先祖が倭人と親しかったことを知っていること。魏がまだ黄河河口部にいた頃に曹操先祖の累代の墓がありそこから倭人字塼 (わじんじせん)が出ている。そこには倭人はわれわれと和して助けに来るのか?と書いてあった。
倭人字磚と曹操 : 民族学伝承ひろいあげ辞典
従ってこれが事実なら宗女トヨは公孫氏のやはり親族に当たり、豊国と吉備国の王族がその末裔である可能性すら考えねばならぬ可能性。
さらに考えれば、秦氏という一族が半島伽耶だけではなく、遼東とも関わった可能性すら?
日本人が弥生渡来人と縄文人の混血から始まったという考え方が、今や人類学では主流になろうとしているとニュースが伝えている。日本を作ったのは多くは弥生人であり、秦氏も弥生人であり、京都を開墾し、またその配下は山口~豊前を開発し、吉備を通じて出雲を開いていたと考えられる。(四隅突出型古墳や装飾古墳が両者にはある)。
北部九州が大乱によって衰退し、王族が出雲を通して、豊の水軍によって吉備に入ってからヤマトを奪ったという考え方もできなくはない。
二世紀まで何もなかった大和盆地に三世紀突然大古墳が生まれ、吉備式の土器が出る問題もそれであらかたすっきりする?
大阪南部の方言と博多弁の類似はヒントになる。
泉州でなにかを「しなさい」を「~しり」といい、博多の海人国奴国にある棟方周辺でも「しり」という。朝ドラではっきりしているし、イントネーションにも類似点が多い。
参考記事
公孫度 を含む記事 : 民族学伝承ひろいあげ辞典
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