【独自】泥岩層から出土した大伽耶初の「大王」の痕跡…1500年の謎を解くか : 文化 : ハンギョレ新聞 (hani.co.kr)
172047650410_20240709



「大伽耶は、約1500年前に慶尚道西部と全羅道東部にかけて繁栄し、新羅と競合した強力な小国家だった。大伽耶の人々が最高首長を当時の新羅のように「大王」と呼んだことが推定できる遺物が出土した。

 先月27日に発掘調査が終った高霊(コリョン)の大伽耶邑延詔里(テガヤウプ・ヨンジョリ)555-1番地の「大伽耶推定宮城跡」I-1区域の堀(防御用の池)跡の内部の底の泥岩層から出土した土器のかけらがまさにそれだ。先月21日に発掘機関である大東文化財研究院が、宮城跡と堀跡についての現場説明会を開いた直後に出土した、6世紀初めごろの大伽耶系の土器で、未公開の遺物だ。

 この土器のかけらを調べたところ、下の部分に明確な「大」の字と、一部字形が崩れて「王」または「干」の字と推定できる不完全な形の1文字を垂直の構図で続けて浮き彫り(陽刻)にした模様が確認された。」



伽耶はいろいろな民族の小国家集合体の呼称だったと考えられている。
その中に金官伽耶国もあったとされる。
筆者はその王は葛城氏であったと考えている。その証拠に葛城氏は直弧文を持っていた。

その葛城氏は日本書紀では5世紀に秦氏を蔚山=ウルサンから連れてくるとされ、考古学的に秦氏の最初の居留地が奈良県の葛城であったことがわかっている。そこには京都で婚姻関係となる鴨氏も隣接して入っていて、のちに田辺を経て京都へ入り同族関係になっている。つまりこの三者は、伽耶滅亡時にほぼ同時に葛城で同族関係を結んだと考えてもよいだろう。全部が伽耶王だったのかも知れない。

私はその半島からの逃避行ルートに出雲~吉備ラインがあっただろうと思う。吉備から熊本へ出向した火葦北国造の子供は熊本宇土にある鴨籠古墳に埋葬され、その石棺にも直弧文が刻まれていた。

images
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村









人気ブログランキング