ではもう一度唐本御影にご登場してもらおう。
おspらく日本人ならほぼ全員がこれが太子像だと
思っているだろうが、実は違いう可能性が高い。
まず1 衣装が奈良時代の衣装 太子は飛鳥時代初頭の人なので、これは奈良時代の想像で着せられた衣装か、あるいは別人と考えるしかない。そしてこの絵は平安時代の複写で原本でもない。
唐という名前は、唐の様式で描かれているからであり、御影とは皇族の聖徳太子だからであるが、別人となると御影はおかしいことになる。いい加減なものである名前なんて。
太子にまつわるエピソードや遺物のほとんどは後世の造作である。
玉虫厨子にしても実は叔母に当たる推古天皇のコレクションなのだという説が内部では強い。
つまり厨子が太子の時代からあったとはどこにも記録はなく、玉虫厨子の名前は鎌倉時代になって初めて登場し、それが太子のおばである推古天皇の持ち物というのも、鎌倉時代の「鑑定」だったに過ぎない。少なくとも、この厨子が確かに日本に伝来したのは745年を遡れないのである。
聖徳太子と忍冬とカササギ その正体を探る1 : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)
なぜそうなるかと言うと、推古も太子も暗殺された蘇我氏の血筋の人だからである。当然、あとからいろんな改ざんは起こる。
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おspらく日本人ならほぼ全員がこれが太子像だと
思っているだろうが、実は違いう可能性が高い。
まず1 衣装が奈良時代の衣装 太子は飛鳥時代初頭の人なので、これは奈良時代の想像で着せられた衣装か、あるいは別人と考えるしかない。そしてこの絵は平安時代の複写で原本でもない。
唐という名前は、唐の様式で描かれているからであり、御影とは皇族の聖徳太子だからであるが、別人となると御影はおかしいことになる。いい加減なものである名前なんて。
太子にまつわるエピソードや遺物のほとんどは後世の造作である。
玉虫厨子にしても実は叔母に当たる推古天皇のコレクションなのだという説が内部では強い。
天平19年(747年)の『法隆寺資材帳』[2]には金堂に「宮殿像二具」があることを記し、そのうちの「一具金埿押出千仏像」と記載されているものが玉虫厨子にあたると推定されている。「押出」とは、薄い銅板を型に乗せて、槌で叩いて図柄を表した像のことである。鎌倉時代の『古今目録抄』には、「推古天皇御厨子」とあり、「玉虫厨子」という名称は鎌倉時代に遡る。制作年代は7世紀と推定されている。前述のようにもとは、法隆寺金堂に安置してあったが、現在は大宝蔵院に安置してある。」Wiki玉虫厨子
つまり厨子が太子の時代からあったとはどこにも記録はなく、玉虫厨子の名前は鎌倉時代になって初めて登場し、それが太子のおばである推古天皇の持ち物というのも、鎌倉時代の「鑑定」だったに過ぎない。少なくとも、この厨子が確かに日本に伝来したのは745年を遡れないのである。
聖徳太子と忍冬とカササギ その正体を探る1 : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)
なぜそうなるかと言うと、推古も太子も暗殺された蘇我氏の血筋の人だからである。当然、あとからいろんな改ざんは起こる。

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