盾型鏡と蛇行剣が出て、円墳で、4世紀後半となると推定できる氏族はほぼ決まってくる。
富雄丸山古墳は、奈良県奈良市丸山にある古墳。形状は円墳。史跡指定はされていない。出土品は国の重要文化財に指定されている。 円墳としては全国で最大規模の古墳で、4世紀後半頃の築造と推定される。 ウィキペディア
1 円墳は王族ではなく地方氏族の墓。ここのはホタテ貝式に近い。
2 4世紀後半で最大級サイズの円墳となると、王家とかなり近しい氏族で実力者
3 蛇行剣は隼人の剣であると言われているが2mもあるとは相当な実力者。
4 盾は王家の守衛者の印で、それが鏡になっているのは、墓により来る邪を払うもの。
5 最も早く大王家に従ったのは阿多隼人、次に大隅隼人。『日本書紀』では神武に従う。
6 しかし隼人の言葉が初出するのは天武天皇時代の8世紀で、それ以前なら熊襲である。阿多隼人はそのなかの曽於族になるか?当時はまだ日向国(のちに薩摩国が分離)霧島から薩摩半島居住。


模様の分析が必要・円形の鏡が大小三枚描いてある?
結論、4世紀後半の大王家の門番であり、靫負軍団の長。
阿多隼人あるいは靫負軍団の隊長である大伴関係者。隼人など海人族の長である物部・尾張関係者。
と推定可能。意見はいろいろあるだろう。
参考過去記事

さらに
富雄丸山はホタテ貝式前方後円墳だと証明できればヤマトタケルは比比羅木の八尋矛 ひいらぎのやひろのほこを持っていると古事記にあるのだから、2mの蛇行剣がそれに該当できるから、被葬者候補のひとりになるだろう。とも昨日書いた。
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富雄丸山古墳は、奈良県奈良市丸山にある古墳。形状は円墳。史跡指定はされていない。出土品は国の重要文化財に指定されている。 円墳としては全国で最大規模の古墳で、4世紀後半頃の築造と推定される。 ウィキペディア
1 円墳は王族ではなく地方氏族の墓。ここのはホタテ貝式に近い。
2 4世紀後半で最大級サイズの円墳となると、王家とかなり近しい氏族で実力者
3 蛇行剣は隼人の剣であると言われているが2mもあるとは相当な実力者。
4 盾は王家の守衛者の印で、それが鏡になっているのは、墓により来る邪を払うもの。
5 最も早く大王家に従ったのは阿多隼人、次に大隅隼人。『日本書紀』では神武に従う。
6 しかし隼人の言葉が初出するのは天武天皇時代の8世紀で、それ以前なら熊襲である。阿多隼人はそのなかの曽於族になるか?当時はまだ日向国(のちに薩摩国が分離)霧島から薩摩半島居住。


模様の分析が必要・円形の鏡が大小三枚描いてある?
結論、4世紀後半の大王家の門番であり、靫負軍団の長。
阿多隼人あるいは靫負軍団の隊長である大伴関係者。隼人など海人族の長である物部・尾張関係者。
と推定可能。意見はいろいろあるだろう。
参考過去記事
記事を追補して書き直した。2023年1月28日 Kawakatu
「爾に、天皇、亦頻て倭建命に詔りたまひけらく、「東の方十二道の荒夫琉神及摩都楼波奴人等を言向け和平せ。」と、のりたまひて、吉備臣等の祖、名は御午友耳建日子を副へて、遣はしたまふ時に、比比羅木の八尋矛を給ひたり。~比比羅の三字、音を以ふ。
~故、命を受けて、罷り行でます時に、伊勢の大御神の宮に参入りまして、神の朝廷を拝みたまひ、即て其の姨倭比売命に白したまひけらくは、「天皇、既く吾を死ねとや思ほすらむ。何なればか、西の方の悪はぬ人等を撃ちに遣はしたまひて、 返り参上り来し間、未だ幾時も経ざるに、軍衆をも賜らずて、今濘東の方十二道の悪はぬ人等を平けには遣はしたまふらむ。此に因りて思惟へば、猶吾に既く死ねとは思ほし看すなりけり。」と、まをして、患ひ泣かして罷ります時に、倭比売命、草那芸の剣 ~那芸の二字、音を以ふ~ を賜ひ、亦御嚢を賜ひて、詔りたまひけらく、「若し急の事あらば、枴の嚢の口を解きたまへ。」と、のりたまひき。故、尾張国に到りまして、尾張の国造の祖なる美夜愛比売の家に入り坐しき。乃ち婚ひせむと思ほししかども、亦還り上らむ時にこそ婚ひせめと思ほし、期り定めて、東の国に幸でまして、悉に山河の荒ぶる神及伏はぬ人等を言向け和平したまひき。 」
『古事記』景行天皇記
◆比比羅木八尋矛(ひひらぎの・やひろの・ほこ)
あくまでも「矛」である。「ほこ」とは長い柄の先にかぶせるように装着する武器。
これに対して柄に切り込みを入れて差し込むのが戈・槍である。
一般には「ヒイラギの剣」だろうかと解釈されている。
しかし原文にはちゃんと矛とある。
多くの場合銅矛にはパイプ状の「差し込み」がついており、この片側下部に丸い環(かん・輪)が付属している。ここには飾り房や飾り紐が結ばれており、高く掲げて行軍などの目印になる。
精錬したての銅戈・銅矛・銅剣は新品の10円玉のように赤銅色に光り輝いていた。例えば「アメノヒボコ」などはそういう矛を旗印にした軍隊を率いてやってきたのだろう。
「ひひら木」はヒイラギのような、である。
どのような矛だったかというと、説が二つ考えられる。
1 ヒイラギの葉の様に反りがトゲのようにある蛇行矛。
2 ヒイラギの葉のように勢い良く双方向へ開いた形状の戈。
であるが、一般によく知られるのは蛇行剣となっている。
ただし、「八尋の」と形容されているので、巾の広い巨大な銅戈だったのだろうから、「ひひら木の八尋桙根底附かぬ國(=新羅)」という慣用句も残っていて、おそらく地底にまで届こうかというほどに長くて広大なる矛だったのだろう。
ヒイラギの語源については、国語辞典などではトゲが刺さるとヒリヒリ痛むからなどと荒唐無稽な解説がなされているが、それならば何もヒイラギに限ったことでもなく、おそらく平木とも書くのだからヒラペッタイとか、元気良く開ききったという意味も含まれていることだろう。すると蛇行矛もさることながら、頂上がぱらりと二つに開いた王杖・威杖であったのかも知れない。

古墳から出る王杖や、松坂の宝塚古墳の船の埴輪に立てられたY字型(頂上がV字で杖柄部がつく)マストなどは、いわば魔よけの形状であり、また葛城氏の宮山古墳などで出ているハート型椅子状埴輪や靫埴輪、盾埴輪などでも上部がV字型に開いた形の形象埴輪が多い。
これらの「大きく左右に開いた形状」が「ひひらき」だったのかも知れない。
9537e732.jpg
ヤマトタケルは東国遠征に船で出かけるのだからV字型ヒイラギの矛を船につき立てたかも知れない。
おそらくこちらの方が正解だろう。
蛇行した戈や剣は出ているが、まだ矛は出ていない。
追補
以前、ヤマトタケルのヒヒラギ矛について、よそのサイトで、馬具の杏葉(きょうよう)の形状がヒイラギではという説を紹介したことがある。
また、ひらきとひいらぎについても書いたことがある。
さらに
富雄丸山はホタテ貝式前方後円墳だと証明できればヤマトタケルは比比羅木の八尋矛 ひいらぎのやひろのほこを持っていると古事記にあるのだから、2mの蛇行剣がそれに該当できるから、被葬者候補のひとりになるだろう。とも昨日書いた。
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