韓国へ行くと、プルコギであろうがピピンパであろうとサンパッだろうと、だいたい山ほどのナムルとサンチュがついている。こないだTVの「孤独のグルメ」を眺めていたら、ピピンパ風のまぜ野菜飯にもやはりサンチェがついていて、生野菜のまぜごはんを巻いて食べていた。で、ふと思ったのは魏志倭人伝の倭人の章句習慣に、生野菜を食すとあることだった。
上サンパッ、下サンギョプサル
韓国人の生野菜風習は、もちろん彼らの風習が韓半島南岸の倭種にも広がっていたという証明になるだろうが、つまり韓南岸倭種つまり海人族が、対岸である玄海灘沿岸にやってきて倭人になった、あるいは在来縄文異族と合体して倭人になったということになるんだろう。
ただ、有明海・東シナ海側倭人は遺伝子的に、玄海灘倭人と違って、中華や南方系のものが多くて、違っていることがわかっている。
南方系と書いたのは、これもTVNHKBSこの正月人類学番組における沖縄港川人の遺伝子が、スンダランドのインドシナ人や柳江人に近く、海を渡ってきた人々が沖縄から五島へと向かった、貝殻流通という必然がなせる業だったことを想起させるわけだ。
以前、バイカル湖沿岸地域での、ホモサピエンスとネアンデルタールの合体、あるデニソワ人との合体で生まれたハイブリットアジア人が南下して柳江人が生まれ、それがまた南下してインドシナ人となり、さらにはポリネシアンが生まれて、海を渡り台湾ヤミ族から、沖縄で港川人になったということはもはや疑う余地がなくなり、海側・貝輪貿易では、彼らがのちの縄文系倭人である隼人的民族となって五島や薩摩と合体、あるいは玄海灘沿岸で韓系倭人と合体し、済州島から半島からシャントン半島へ交易して血と文化が倭に持ち込まれたのもまず確定したと言える。ゲノム分析でもはや誰も文句のつけようもない。日本人起源はすでに解答が出たのである。今時ハプログループなどなんの役にも立たないものになっている。
日本人のゲノム分析2 列島にはデ二ソワ×ネアンデルタール×フローレンス人×新人サピエンスのハイパーハイブリッド先祖がやって来た? : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)
さて、七草がゆの風習も中国唐から平安時代に持ち込まれた七種菜羹(ななくさのさいのかん)の影響で平安の習慣だった若菜摘みと合体して七草がゆが生まれたのである。七草は要するに薬草であり、御所には何か所かの薬草園があった。紫野や鳥辺野、岩倉の今の植物園などは皆朝廷のための薬草園で、そこで正月七日に若菜を摘んだのである。
~君がため春の野にいでて若菜摘む・・・天皇の和歌に歌われる風習であり、武士たちはそれが動物の巻き狩りになった。野草を摘むことも狩りと言っていた。で、紅葉狩りなどと今も言う。武家の狩りは世間への、自分が地域一番の領主になったことのデモンストレーションでもあった。それは西洋貴族王族のキツネ狩りに等しい。
では、倭人たちは果たして本当に韓国のように生野菜でものを包み食べていたかは、痕跡もなく、科学的な証明はできない。その後の日本海人族は野菜を生では食わず、むしろ海藻を食べ、圧倒的長期間魚介食で通してきた。それは内陸日本人でも同じである。生野菜は明治になって西洋料理のサラダから始まったのだった。日本の野菜料理は、多くは根菜の煮物や、湯通ししたオヒタシや、味噌汁の具材であり、決して生食していない。これは倭人伝と矛盾してしまうのであった。
森鴎外は生涯決して生ものを口にしなかったことが知られている。彼自身軍医であるので、衛生面からだろうが、ドイツ留学の経験があるのだから彼の地ではサラダも食べねばならなかったはずだ。きっとそのとき食うあたりでもしたのだろう。往古の野菜は有機糞便農業だから、危険である。
そうした有機農法で弥生人が野菜を育てていたかどうかは今のところわかるはずもない。海産物も肥料にはなる。
海人族の風習に、生野菜食が残存していないのは不思議である。いつどこでそうなったのだろうか?
ヒントはやはり肥料の変化にあっただろうとは思うが。
倭寇の倭人とは、アジア沿岸に住まう海人族すべてを指すから、日本の海人族も倭人であり、はらからだったと思える。つまり混血しているはずだ。海の生活とはおしなべてそうだ。あちこちの港に女がいて、子孫もいる。西洋人も同じだろう。
というわけで、生野菜食で見れば、韓だろうがインドシナだろうが、江南だろうが、ポリネシア、オーストロネシアだろうが、小笠原、沖縄だろうが、だいたい血のつながりはあっても何の不思議もないことになる。
東アジア、東南アジア人には、肌の色、言語、風習は違おうと、色濃く同じくネアンデルタールの遺伝子が含有されているのである。お忘れなく。
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上サンパッ、下サンギョプサル
韓国人の生野菜風習は、もちろん彼らの風習が韓半島南岸の倭種にも広がっていたという証明になるだろうが、つまり韓南岸倭種つまり海人族が、対岸である玄海灘沿岸にやってきて倭人になった、あるいは在来縄文異族と合体して倭人になったということになるんだろう。
ただ、有明海・東シナ海側倭人は遺伝子的に、玄海灘倭人と違って、中華や南方系のものが多くて、違っていることがわかっている。
南方系と書いたのは、これもTVNHKBSこの正月人類学番組における沖縄港川人の遺伝子が、スンダランドのインドシナ人や柳江人に近く、海を渡ってきた人々が沖縄から五島へと向かった、貝殻流通という必然がなせる業だったことを想起させるわけだ。
以前、バイカル湖沿岸地域での、ホモサピエンスとネアンデルタールの合体、あるデニソワ人との合体で生まれたハイブリットアジア人が南下して柳江人が生まれ、それがまた南下してインドシナ人となり、さらにはポリネシアンが生まれて、海を渡り台湾ヤミ族から、沖縄で港川人になったということはもはや疑う余地がなくなり、海側・貝輪貿易では、彼らがのちの縄文系倭人である隼人的民族となって五島や薩摩と合体、あるいは玄海灘沿岸で韓系倭人と合体し、済州島から半島からシャントン半島へ交易して血と文化が倭に持ち込まれたのもまず確定したと言える。ゲノム分析でもはや誰も文句のつけようもない。日本人起源はすでに解答が出たのである。今時ハプログループなどなんの役にも立たないものになっている。
日本人のゲノム分析2 列島にはデ二ソワ×ネアンデルタール×フローレンス人×新人サピエンスのハイパーハイブリッド先祖がやって来た? : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)
さて、七草がゆの風習も中国唐から平安時代に持ち込まれた七種菜羹(ななくさのさいのかん)の影響で平安の習慣だった若菜摘みと合体して七草がゆが生まれたのである。七草は要するに薬草であり、御所には何か所かの薬草園があった。紫野や鳥辺野、岩倉の今の植物園などは皆朝廷のための薬草園で、そこで正月七日に若菜を摘んだのである。
~君がため春の野にいでて若菜摘む・・・天皇の和歌に歌われる風習であり、武士たちはそれが動物の巻き狩りになった。野草を摘むことも狩りと言っていた。で、紅葉狩りなどと今も言う。武家の狩りは世間への、自分が地域一番の領主になったことのデモンストレーションでもあった。それは西洋貴族王族のキツネ狩りに等しい。
では、倭人たちは果たして本当に韓国のように生野菜でものを包み食べていたかは、痕跡もなく、科学的な証明はできない。その後の日本海人族は野菜を生では食わず、むしろ海藻を食べ、圧倒的長期間魚介食で通してきた。それは内陸日本人でも同じである。生野菜は明治になって西洋料理のサラダから始まったのだった。日本の野菜料理は、多くは根菜の煮物や、湯通ししたオヒタシや、味噌汁の具材であり、決して生食していない。これは倭人伝と矛盾してしまうのであった。
森鴎外は生涯決して生ものを口にしなかったことが知られている。彼自身軍医であるので、衛生面からだろうが、ドイツ留学の経験があるのだから彼の地ではサラダも食べねばならなかったはずだ。きっとそのとき食うあたりでもしたのだろう。往古の野菜は有機糞便農業だから、危険である。
そうした有機農法で弥生人が野菜を育てていたかどうかは今のところわかるはずもない。海産物も肥料にはなる。
海人族の風習に、生野菜食が残存していないのは不思議である。いつどこでそうなったのだろうか?
ヒントはやはり肥料の変化にあっただろうとは思うが。
倭寇の倭人とは、アジア沿岸に住まう海人族すべてを指すから、日本の海人族も倭人であり、はらからだったと思える。つまり混血しているはずだ。海の生活とはおしなべてそうだ。あちこちの港に女がいて、子孫もいる。西洋人も同じだろう。
というわけで、生野菜食で見れば、韓だろうがインドシナだろうが、江南だろうが、ポリネシア、オーストロネシアだろうが、小笠原、沖縄だろうが、だいたい血のつながりはあっても何の不思議もないことになる。
東アジア、東南アジア人には、肌の色、言語、風習は違おうと、色濃く同じくネアンデルタールの遺伝子が含有されているのである。お忘れなく。

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