民族学伝承ひろいあげ辞典

文献・科学・考古学・遺伝子学・環境学・言語学・人類学・民俗学・民族学 あらゆるヒントを総合し、最新用語を解説、独自に解釈してわかりやすく説明します。 誰も書かない、目から鱗、鼻から牛乳、目から火花、頭の先からぴかっと電球

唐楓の紅葉と晩秋晴天



障碍神 しょうげじん。しょうがいじん。
さえぎる神のことです。
障礙神(しょうぎじん) とも言います。後ろ戸神とも。
宿神とも。来訪神、塞ノ神。客神、漂泊神、蘇民将来、武塔の神、さえぎ、スサノオなどとも。

何をさえぎるのか?
心の明暗をでしょうか。

マハーカーラ、サトゥリヌス、摩多羅神、猿田彦、庚申、荒神、アラハバキなどがこれでしょうか?まろうど神ともいいます。「うしろど」「うらど」とも。
大国主、大黒天マハーカーラ、シバ、弥勒ミトラつまり恵比寿、八幡神、悪魔などもそうでしょうかね?


共通点は全世界で一致します。
その姿は老年であり、人を喰うということです。
災害神です。人を食い、人を守護します。


哲学的になってしまいますが、種は種をつなぐ必要があります。
それを「永遠」と申します。
和合してしかわれわれ動物は種をつなぐことができません。

簡単に言いますとそれはセックスということになります。


植物は、徹底的に動かないことで
無駄なエネルギーを使わないことで、
固体が長生きします。しかし動物は移動するために寿命を縮める。
移動するのはえさを捕獲するための確率を大きくするための必然的選択でした。

待つことこそが植物の「気長な生き残り戦術」だったに対して、動物は、積極的に食物を探して動いた。
もとは同じ生命体です。


宗教も哲学も、まぐわいなくして種は存続できないことを暗黙に語ってきました。
ゆえに真逆の聖なるものでは、マリアから生まれたキリストのように、動物的なセックスではない生まれ方=ピュアを描くのでしょう。

しかし、科学では、どう考えても、セックスなしでは種は存続できない。つまり宗教はそういう直接的な表現はできませんでした。宗教が悪とした概念が、科学では道理・摂理です。

空海は、いや仏陀は、ちゃんとそこについて語り、種が増えなければ意味がないことまで説いています。種とは、同胞が増えていくことを目的として「みあれ」します。
みあれとは神の顕現、神が存在するということです。

子孫が増えていかないなら、それは自然界では、いずれは種が滅亡することだからです。


古代人は、ある時期なのですが、永遠とは長寿だと考えたことがあります。
するとそれは時間を越えたものが老人だとなり、それこそが神に近づく仙人の姿だとなった。


各地の神社に伝わる伝承でも、神が翁(おきな)の姿をしていて、わざわいをなす。それを退治しようとして英雄が立ち向かう。しかし英雄たちが10人それを滅ぼしに行けばほとんが死んだと書かれますね。


これがいわゆる「人を喰う神」であり障碍神です。民間ではサエの神と申します。「さえぎる神」であります。


西洋ではサトゥリヌスは、わが子を喰らい、結果的にそれはサタン、メフィストフェレスの原像となり、それがもとは神の使者エンジェルだっとされ、インドではマハーカーラ=シヴァはやはり大黒天=人の肝臓を喰らう=人を災害で殺す、ことでようやくそれ以上は災害を起こすのをやめてくれる神だとされます。摩多羅神も翁の姿で、爆笑しながら、災害によって人を喰うオロチ、それを殺すスサノオのようなモノです。

修験道ならそれは、猛悪大破顔する不動明王でしょう。


おわかりでしょうか?



悪魔とは自由そのものなのです。
それを律する心のないものにとっては、それはすべて悪魔です。しかしそうでないものにはそれは「限りなき自由」です。


自由とは何でも有りではない。
間違うとそれは世界を滅ぼす猛悪大魔神=転輪聖王になる。


それがトランプなんじゃないですか?




あきらかにそれを選んだアメリカ人が処分すべき猛悪ですね。



はやく消しなさい。でないとあれは世界を暗黒へ導くスサノヲ、斉天大聖孫悟空と成長し、世界の秩序、宇宙の摂理を打ち壊すデビルをなるであろう。


はやく、はやく・・・・・・・・・・・・


ユール・ミトラ・サトゥリアヌスの関連性

北欧の冬至祭の始まりはミトラ教(ゾロアスター)の太陽神ミトラ=マイトレーヤ、東洋では弥勒ミロクに当たる神への信仰を起源とする。冬の長い北欧では太陽は憧憬すべき最大の対象物となり、太陽=光=炎=生命力の根源=大地母であった。太陽神には山羊などの生贄をささげ、災害神として、あるいは生命の再生への願望を聞き届け、さらには天体としての太陽の永久をも願い、ひいては太陽を生んだ根源である宇宙観念そのものへの畏怖へと発展していったと思われる。

フン族の侵入によって民族大移動が起こると、北欧の民人たちはみな南欧や西欧を目指して移動してゆき、そうした古い信仰をプロヴァンスなどの地中海沿岸地域へ浸透させていくとともに、血脈の混合が起こった。このときにローマではもともとキリスト教を取り込む前から存在した、やはり古い民族信仰の神々といわば「神仏混交」的融合を認めざるを得ず、信仰のいわば混乱が引き起こった。これを国家としてローマはひとつにする必要に迫まられたであろう。そこでかつて自らが処刑したイエスが、ローマ民衆の心をつかんでいたのを逆転の思想で持ち上げようとする。宗教統一=国家統一が古代社会のはじまりである。キリスト教もミトラ教や、それ以前の農業神サトゥリニウス(時の神クロノス)を祭ってきた冬至祭サトゥルナリアをキリスト教へと置き換える作業の中で、ミトラ太陽神はイエスの母マリアへ、サトゥリニウスや牧神パンのような山羊や羊の形をした農業神はデビルへとすり替える。


民族学伝承ひろいあげ辞典わが子を食らうサトゥリヌス参照されたし
サトゥルナリア


「キリスト教のライバルだったミトラ教は、ゾロアスター教発祥で、太陽神ミトラを崇拝しており、このミトラ神が再生する日が冬至(その当時は12月25日)であった。キリスト教は、旧約聖書の「マラキ書」の「義の太陽」にイエスをなぞらえ、ミトラ教同様に、12月25日を祝うようになった。325年のニカイア公会議で、キリスト教会は、12月25日をイエスの誕生日に正式決定する。キリスト教とミトラ教の融合、そして、冬至祭の伝統を持つケルト民族やゲルマン民族を統合する狙いがあったと言われる[21]。また、真冬の時期で、えさの少ない小鳥のために、ユール・ネックと呼ばれる、の穂束を立てるならわしもある[12]



サートゥルヌスの像

ユール・ログ、ユール・ゴート、ユール・シンギング(家々や果樹園を訪ねてキャロルを歌うこと)その他のユールに関する系統のものは、キリスト教以前からの祭りで、はっきりした日付は分からないが、13世紀の時点では、11月14日から12月13日の間であったといわれる。その後、年末の時期となったが、ユールの時期を、いつかであるか特定するのは難しい。神々に供物をする時期は、他に参考となるものが見つからず、真冬の祭りに一体化させるというのが、一番信頼性があると思われる[26]。また、初期のゲルマン人の天文学の知識は大雑把なものだったともいわれている[27]

ユールは、古代ローマの冬至祭であるサトゥルナリアに起源があるともいわれる[28]。この祭りは元々、ローマ神話農業の神サートゥルヌスギリシャ神話クロノス)を祝うもので、12月17日に行われてのが、1世紀ごろに12月23日に行われるようになった。この日は完全な安息日で、には偽王(モック・キング)[注釈 4]が登場した。古代ローマにはカレンズ英語版という年明けの祭もあり、これもサトゥルナリアと同じやり方で行われた[30]。」
以上Wiki ユールより


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こうしてクロノスはわが子を食べてしまう悪神とされ、悪魔とされながら、民衆のガス抜きとしての正反対観念、悪魔=堕天使(だてんし)ガブリエル=ルキフェル 、イエス=ユダヤの敵、マリア信仰=大地母神といった、裏表観念を容認するダブル・スタンダードな観念が生まれたのである。この大陸的な逃げ道は、現代の政治にもその多くが残存し、二枚舌外交のはじまりがそこにあったと見ることが可能である。そして民主主義の根幹でもある二大政党による政治交替によって治安を維持しようとする形も、まったくこの踏襲から生まれた手法と考え得るのである。


サトゥリヌスのStwuからサタンSatanの名称も考え出されたのだろう。その実態が斎の神であるのは時間=永遠。つまりそもそもは災害神のもう一つの性格である宇宙神、生命の誕生の根源・摂理としてのクロノスである。それがキリスト教徒の手に掛かると今度はわが子を食らう奇神として描かれた。つまり異端の鬼神である。わが子を食らうとはそもそも生贄を捧げて災害や一族の永遠を願う対象だったのであり、ミトラ教等の古い原始信仰においては悪鬼どころか善神だったのである。ところが宇宙神が災害神でもある以上、神には常に世界中で善神と悪神の二律背反はつきまとっていた。そこを利用するのである。

神が老人や童子の姿であることはそういう意味で当然である。神とはそういう表裏が一体化した観念として最初から始まるのである。なぜなら、自然がまさにそういうものだったからにほかならない。

これでわかることは、日本のアマテラス・ツクヨミ・スサノヲの三神もまた当然、自然現象やそれを引き起こす宇宙の摂理の表裏を三つに分けたものであり、根本ではひとつであることだろう。太陽・月・地球。そしてツクヨミ=スサノヲとなるだろう。月は地球の恒星であって二つで一つなのだから。


神も大地も海も、おしなべてあるときは限りない慈悲と恵みを与え賜うが、時には限りなくすべてを奪い去る。神と悪魔は常にひとつの摂理である。時に迷惑、時に有難い。ゆえにこそ人も、政治も、宗教もみな、この地球の生み出したものは両面性を持った両性具備の不完全なものにできあがったのであろう。


完璧は永遠に起こりえない。
二律背反と三位一体とガス抜きによってかつがつ世界は動いている。ひとつになれるはずもない世界にわれわれは生まれてくる。滅ぼすか圧迫するかなだめあうしかない。かくして平和は永遠の観念の中の願い事になった。当然である。


実現不可能。






ちなみにYULEのつづりは北欧でJUL。
フランスの小説家ジュール・ヴェルヌ つづりはJulesであるので、もしかするとユールを信仰した北欧人の血が混じった家柄の名前なのかも知れない。

日本にはなぜか夏至だ夏至だと神社信仰を考えたがる人がいるようだが、農業にとって夏至よりも冬至であったことは再認識していただきたいものである。太陽への希求という面で、それが消えてしまう冬と、猛暑が災害ばかりもたらす夏のどっちが太陽神への憧れが強いかという単純なことである。







常にロジックで書いて来たつもりだ。
「人を食う神」とか生贄とか、食人風習とか扱った理由は、冷徹な人間分析でしかない。

なぜなのである。古い信仰が、宗教が、なぜそうした感受性や迷信から抜け出せないのかを知りたいのだった。

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結論は、それらの信仰のあまりに古い観念、主観性、魔術・神秘性というまやかしだった。


もう30年も前にそのことに気づいていた。オーム真理教が登場する前から、ぼくの中では宗教などは、弱者にしか必要のないものだった。

ところが今や弱者になった自分でさえも宗教や信仰は必要のない無駄である。無信仰であることは自由だ。フリーダムとリバティの違いがわかる人ならアグネス・チョウ(周テイ)のどうなったかは気にならないはずはない。


リベラリティは左に近くなるケースが多い。政治的だ。
フリーダムは心の自由だ。どっちが日本語の自由かを見極めるのが大事だろう。




■サトゥリヌス(ローマ神話の神)とは英語ではサタン、つまり堕天使から悪魔と変化(へんげ)した老いた神である。
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GOYA わが子を喰らうサトゥリヌス(プラド美術館所蔵 原色世界の美術より)

ギリシャではクロノスといい時間を表す。
時間=老人で表現される。それは日本の浦島太郎が玉手箱を開く=時間の経過=と白髭の老人に変化したことと同じ観念である。
クロノスと、今ひとつカイロス・・・これも時間の神の名であったが、それは古代のことで中世になってからはギリシャ人は時間を老人の姿で考え始めるのである。

カイロスは韋駄天・・・両肩と踵(かかと)に羽を持ち、天空を凄い速さで駆け巡った。すなわち若々しく駆け巡っていたはずの「若い神」だった時間枠は、中世の陰鬱の中で、それは老人=翁の姿へと変化して行った。

日本でも、古代には童子神=聖徳太子的イメージの=「小さ子」には時間の経過を表す意味があったと思われ、子どもこそが時のいきいきと過ぎる象徴だった。それが中世になると、例えば八幡神は最初、鍛治の翁として顕現し、やがてそれが童子、金の鷲に姿を変える。

『東大寺要録』諸神社
「一、八幡宮養老四年。大隅之国有軍事。依祈申大神供打平帰給殺多人云云 天平三年賢所現給
筑紫豊前国宇佐郡。厩峯菱瀉池之間。有鍛治翁。甚銑異也。因之大神比義。絶穀三年
篭居精進。即捧御幣祈言。若汝神者我前可顕。即現三歳小児立竹葉。詫宣云。我是
日本人皇第十六代誉田天皇広幡八幡磨也。我名曰護国霊験威力神通大自在王 。国々所
々垂|跡於神道。是初顕御座」

『扶桑略記』第三、欽明天皇三十二年条
「欽明32年のころ宇佐郡厩峯と菱形池(ひしがたのいけ)の間に鍛冶翁(かじおう)あり。 たまたまその地に大神比義(おおが・ひぎ なみよし)なる神主がおり、穀断ちすること三年、御幣を捧げて祈ったのち、「汝がもし神であるなら姿を顕すべし」と神に語りかけた。すると鍛治翁はたちまち三歳の小児に変じて「われは第十六代応神天皇でありまたの姿を護国霊験威身神大自在王菩薩(ごこくれいげんいしんじんだいじざいおうぼさつ)なりと託宣した。」

このように鍛治の翁とは永遠の時間を表す老人でありながら、小児でもあった。その姿が応神天皇だったとか仏教的菩薩の姿だったなどというのは付録である。歴史の中で応神天皇の王家が九州に縁のあったことを言い、それが今の王家よりも古い「本家」であるというための付加であり、八幡神が密教やインドのヒンズー教などを守護するのだという仏教世界から発生した神であることの説明でしかない。



大事なことは翁と童子という神の顕現する姿なのである。
ではなにゆえに鍛治神や堕天使や時間観念が、
世界中で悪鬼のごとく人を喰らうのか?

つづく

参考文献 山折哲雄『神と翁の民俗学』講談社学術文庫 1991



「空海はまだ若いころ、波濤万里をこえて中国に学んでいる。唐代の上昇気運にのる密教を学んで、帰ってきた。学ぶというより、ほとんど盗むことに耽溺して胸を躍らせていたのではないか。
 篋底(きょうてい=旅籠の底)に隠してもち帰ったのが、大判二枚のマンダラ(曼荼羅)だった。

金剛界マンダラ
胎蔵界マンダラ

と呼ばれる。略して、金・胎の両部(両界)、ともいう。」

「そのマンダラ(とくに胎蔵界)に、無数の女体群像が満天の星のようにちりばめられていた。タテ一八三センチ、ヨコ一五四センチの大きな画布(絹本著色・けんぽんちゃくしょく)に、四百尊をこえる仏・菩薩の像が、微細かつ克明に描きこまれていたのである。
 その仏・菩薩たちの群像が、すべて薄衣(うすぎぬ)をまとったヌードに近い女性たちで、嫣然(えんぜん)と微笑み、コケティッシュ(セクシー)に身をくねらせている。」山折哲雄『空海の企て 密教儀礼と国のかたち』 角川選書437 2008

両界曼荼羅は空海が創建した京都市の東寺に伝えられる、密教界屈指の宝物である。
それは山折哲雄が言うように、まさしく男女の二つの世界=金剛界と胎蔵界・・・言い換えれば陰陽の陰と陽の関係にある世界だった。
密教はもともとが陰陽と仏陀の教えが本地垂迹して日本に渡ってきたのである。
この時点で、空海以前の密教と以後の密教は、前者を雑蜜(ぞうみつ)、後者を純蜜(じゅんみつ)と分けて考えるようになったが、実際、その(天皇を)「看護する」という主目的において、実は両者にそれほどの根本的相違はない。

古くは豊国奇巫(きふ)、豊国法師の時代から、近くは玄昉げんぼう、道鏡どうきょうの天皇の心の病を回復させるための密教・・・すなわちはっきりと申せば、ひとつは麻薬と幻覚剤による護摩法要=巫術。ひとつは呪術が太古より持ち続けてきたジェンダーの開放=性的解放である。

不遜だろうか?

金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅は陰陽であり、それは二進法であり、性行為そのものではないか。と、山折は問うのだ。

金剛というと、金剛組とか金剛力士とかが思い出されようが、あの金剛力士の屹立する肉体美はすなわち男根を表している。そして胎蔵界曼荼羅はまさに菩薩天使の名を借りた天女の舞である。往古から大日、菩薩、仏像、あるいは神の世界の住人であるべきアマテラスなどのすべてが女体でもって、あるいは身をくねらせる少年美の肉体で表現されてきたのは、そもそも菩薩、天使、如来などの神仏の多くが胎蔵界=陰=胎内=マトリックス=子宮=蓬莱山=墓所だったからにほかならない。
空海が盗んでまで持ちかえった両界曼荼羅こそは、中国密教が陰陽の奥義に源を発していた証拠品なのであり、それこそが秀才・最澄が考え及ぶことのかなわぬ世界。入唐するのに漢語にも呉語にも通じていた空海だからこそたちまちに理解できた観念。一方、入唐に弟子に漢語を学ばせて通訳とした最澄。これが非常に大きかった。
そして空海は「嵐に遭難し難破」したのではなく、最初から密教の本場を南朝に定め、渡ったこと。
桓武時代が漢風文化のさかんな導入時代であり、漢文による教義取得を望んだはずの桓武の意向を無視してでも、「道教の本場」「陰陽の大本であるヒンドゥー教の派生地・天竺により近い」「混沌の世界である」長江の南の世界へ、空海は自ら求めて渡ったからこそ、真の密教に迎え入れられた。最澄の持ち帰った北朝の漢文経典は、実は翻訳であり、「三教」=道教・儒教・仏教の真の混沌は南にあったのだ。(注;儒教は桓武以後取り込まれて言った新しい宗教であり、その契機となったのは玄昉・道鏡の行いのせいである。しかし実は二人の行為はただの希望的呪術「加持祈祷による治癒」だった。自然治癒を待つだけのまやかしに過ぎなかったのだ。震源の治癒能力に頼るほかなかった凡庸なににせ僧侶である。頼朝の弟とさして変わりはない。)

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道鏡は称徳天皇(孝謙天皇重祚)の「たぶれ」てゆく心を看護したことから、その治療法である女体とのまぐわいにまでことが及んだのは、彼女のやまいがまぎれもなく、政治抗争に生じた鬱病だったことの証拠である。
玄もまた聖武天皇の政争による鬱病を回復させるためには、まず実の母親である藤原夫人(宮子)の引きこもり=鬱病を治癒するのを優先する。これもはっきり申せば女体=この場合「玉胎」との接合によって、心を解放しようとしたのだろう。

護摩というものの本体が芥子であったことは『源氏物語 葵上』に「御修法(みしほ)」として記録されている。もののけとして現れる六条御息所(ろくじょうの・みやす(ん)ところ)の生霊を祓う法会・・・。葵上に憑りつこうとする六条の生霊は無事祓われ、葵上は無事出産(夕霧)。六条はそれを伝え聞いて内心ほっとするが、ふと自分の衣からただよう芥子の香りのしがみついていることにはっとする。
御修法で焚いていた護摩の香りが、その場にいなかったはずの六条の衣に染み付いているのである。髪を洗い、着替えをしてもその匂いは決して消えることがない・・・。そこでようやく六条は自らが生霊となって葵上を呪おうとしていたことに気付くのである。哀れなる女のサガが、このシーンには燦然と煌いている。

ハッシシ、コカイン、大麻・・・・世界中の呪術師が、患者の病調伏、怨霊・精霊・生霊の退散に、必ず用いる媚薬たち。トリップさせ、心を解放し、ダークサイドへ向かおうとする鬱や引きこもりの人々を救い出すのが、これらの麻薬であり、セックスであり、享楽であり、カニバリズムであり、合法が求められる世界ではそれを線香の煙で「代用」している。西欧でも同じ。煙はあのコンクラーベの際でもふんだんに使われていたことをテレビの画像で見たはずである。
映画「ダ・ヴィンチ・コード」「天使と悪魔」でもそうだった。

金剛界の金=男根
胎蔵界の胎=子宮

■空海の加持祈祷解釈
加持とは
加とは力を加える作用
持とは力を受け入れる作用

さらに
加は金剛界の金
持は胎蔵界の胎

つまり要するに上に書いた方程式が導き出される。
密教を象徴する曼荼羅とはセックスである。

それはどういうことなのか?!
そもそも仏教とは釈尊が唱えた禁欲的宗教教義ではなかったのか?
空海の教えは、釈尊に真っ向から立ち向かう「反仏陀」の教えになってしまっているではないか?!

釈尊も空海も天才である。
そのようなモノにわれわれは絶対になれないし、その教義もまた絶対に理解できない。
釈尊の教えは空海にとっては理解でき、またそのように生きることは可能だろう。
しかしあなたにそれができるだろうか?
ではどうすればいいのか。
宗教者はどのような手段を用いてもその教義を民衆に理解させねばならぬ「弟子」である。
釈尊がキリスト教におけるイエス、イスラム教におけるマホメッドであるならば、仏陀・釈尊とは神の言葉を伝えた「預言者」のひとりであり、その弟子であるシャミたちは、そのまた伝道師であるに過ぎないことになる。
さまざまの手法で、釈尊と「同じ」境地を見せてやるのが仕事である。

だからこそ「宗派」がある。
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空海の真密は曼荼羅を至高とするエロスによって恍惚(エクスタシー)の境地を凡百の烏合の衆であるわれら衆生に教えているのだ。

なぜだ?

それは密教が中国で発生した当時から、それが国家と強烈に結びついたからである。
その結びつきとは?
子孫を増やさねば国家が滅ぶからなのだ。
国民がへれば庸調も減り、国家は衰亡する。

まして人類が子を生まなくなれば、人類は滅亡する。
それは宇宙の原理=神の言葉=摂理である。

だからこそ!






'Tis Autumn - YouTube



昨夜の歌詞翻訳でこの曲の大意がわかったところで、じゃあ歌のない本格ジャズ演奏をあらためて聴いてみよう。エディー・ヒギンズとズート・シムスのコンボで
'Tis Autumn ·ティズ・オータム
Eddie Higgins  Piano
Zoot's Hymns Sax


'Tis Autumn (It's Autumnの省略形 意味は「秋だよ」) 
M&L Henry Nemo.

Old Father time checked, so there'd be no doubt
Called on the North wind to come on out
Then cupped his hands so proudly to shout,
“La-di-dah di-dah-di-dum, ‘tis autumn!'

Trees say they're tired, they've born too much fruit
Charmed on the wayside, there's no dispute.
Now shedding leaves, they don't give a hoot ?
La-di-dah di-dah-di-dum, ‘tis autumn!

Then the birds got together to chirp about the weather
Mmmm-mmm-mmm-mmm.
After makin' their decision, in birdie-like precision,
Turned about, and made a beeline to the south.

My holding you close really is no crime
Ask the birds and the trees and old Father Time.
It's just to help the mercury climb.
La-di-dah di-dah-di-dum, ‘tis autumn.

時の神は、よくよく確かめてから、北風に出て来るように呼んだよ
誇らしげに両手を口に添えて
♪ラディダーディダディダーン、秋だよー!!

木々はたくさん実を稔らせて疲れたよーと言ってるよ。
舗道の飾り付けもしたし、もういいでしょう。
そろそろ静かに葉を落としても構わないさ
ラディダーディダディダーン、秋だもの

そして鳥たちが集まり、お天気の相談ごと、
ムームー、ムムムムー
鳥なりの正確さで決定は下されて、彼らは真っ直ぐ南に飛んでいったよ

だから、僕が君を抱きしめることは、何も悪いことなんかじゃない
鳥や木々や時の神に尋ねてごらん
体温を上げる方法じゃよ、と言うよ
♪ラディダーディダディダーン、秋だもの
♪'TIS AUTUMN - Jazz-Rambler (goo.ne.jp)

今朝さっきローソンへ行ってパンを買って来た。
郵便局へ手紙を投函するついでにね。

で、帰って作った朝食は・・・

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ソーセージエッグ。
右側は粉チーズとマヨネーズと辛子を乗っけて、左のソーエッグにぱたんと重ねてほうばるんだ。

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まだ昨夜の蒸し暑さが部屋に残っていたから、アイスコーヒーでやっつけた。

昨夜の夜の暑さったら、10月なのに扇風機つけなきゃ寝れたもんじゃなかった。
今朝は歩道がしっぽりと濡れて、「時の神がまだ北風を呼んでない」っていうか、これから大声で呼び出すんだろうなといった雰囲気だったよ。

昼過ぎから急に温度が下がると、東京のFMが何度も言っているのは、そりゃ関東以北の話なんだろう。西はいつものあたたかな秋が来ると思うね。

とこおろで、この曲の「時の神」はOld Father Time Checkedと表現されているのだが、これラテン語なら一言でクロノスのことでね。老人の姿をしている。時間=老いること、なわけだね。

だからオールド・ファザーなわけで、時を管理する巨人族の神で農耕の神。
クロノスは英語クロック=時計、オクロック=~時の語源。スペインではサトゥルヌスと呼ばれ、自分の子供を食べてしまった怖ろしい神。なぜ食べたか?冬を連れて来て地上を寒波で襲い、食べ物を作れなくしてしまうって意味だろうね。神の子=人間を食えなくしてしまう、というのがわが子を食らうことを連想させたわけ。年寄る=時間が進む=春夏秋冬を教える気象経験=不老長寿=時間を知っている神。

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クロノス 時の神 - Google 検索

わが子を喰らうサトゥリヌス・人を喰う神2 その1 : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)

あなたもわたしも、この秋から冬、いつ食えなくなるか知れないはかない存在。今、何かが食えていることに感謝しなきゃね。だから彼女を抱いて温めてあげなきゃっていう歌詞につながるわけね。
一見ラブソングだが、秋の後には怖い冬が控えてるんだという怖いいましめでもある。


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わが子を食らうサトゥリヌス を含む記事 : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)
サトゥリヌス を含む記事 : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)
障碍神 を含む記事 : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)
人を食う神全文一挙掲載 障碍神を理解する : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)
マハーカーラ を含む記事 : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)
摩多羅神 を含む記事 : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)


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