6 大化の改新と摂津三嶋の有力者

  
2007年12月21日(金)13時33分47秒
編集済
 藤原鎌足が乙巳の変(大化の改新前の事件)を実行する前に摂津の三島郡に隠棲していたことは前にも書きましたが、鎌足は以前から入鹿誅殺を画策していたらしく、三島隠棲の間に実に様々な人物と隠密裏に交流しています。

落語・「池田の猪飼い」でもおなじみの能勢街道は猪ばかりでなく、丹波篠山の松茸や丹波っ栗も買えるし、さらに丹後半島へ抜ければ海産物も手に入る古代のお買い物ルートですが、能勢山地には妙見山がありますね。服部緑地のあたりなどは地名から呉はとり部の居たところかと思えますが、箕生なども大阪唯一の銘酒醸造場なんかあって渡来文化の匂いがしますね。ここにもおそらく鉱物氏族の多氏がいたようです。妙見 みょうけんとは星を見るという意味の地名です。星に信仰性を見出したのは平安時代の修験者でした。妙見信仰と言います。

妙見山あるところに鉱山ありではないかと思うのですが、たたら跡や間歩、炭窯、鉄滓などあるのではないかと思います。三島郡にもほど近いので、なんらかの関連がありそうです。

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ちなみに「みしま」という地名の発祥は瀬戸内海の大三島で、ここに村上水軍が大山積神を祀った大三島神社があります。ここは宇佐八幡で奈良時代にいざこざがあったとき、朝廷を宇佐大神氏が厭魅したという罪で、一時的に八幡神が移されたことがあります。この大三島の神を頼朝が伊豆に勧請したのが三島大社であり、摂津の三島にも、おそらく村上水軍の津が淀川にあった地名ではないかとみています。古代には重要な瀬戸内海運の畿内の終着点だったはずです。

その摂津三島滞在中に中臣鎌足は、のちに孝徳天皇となる軽皇子(かるのみこ)と食事などしているそうです。これが後に天皇となる布石かどうか不明ですが、鎌足はここでかなりの人物に接触したようです。あとになって三島が嶋上郡家になるのもここが鎌足にとって非常に重要な場所であったからだと思えます。ですから三島が鎌足の領地であり、阿武山古墳が鎌足の墓だと言われるわけなのです。そもそもは古く継体天皇が墓地としたところでした。三島は元は春日氏の荘だったと思え、春日神社もありますが、春日氏はのちに藤原氏に婚姻で取り込まれた経緯があり、奈良の春日大社が藤原氏の神社であるわけもそのあたりにあるようです。

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ちなみに軽はこの時、三島にほど近い兵庫の有馬で療養していたそうですから、生まれた子どもに有馬皇子という名前がついたようです。乙巳の変の協力者の中に佐伯部子麻呂がいます。彼は多氏佐伯氏の子飼いの部下ですから、やはり鉱山氏族の軍資金と協力が大化の改新にもかなり影響したのではないでしょうか?

吉志の件ですが、一族の中に猪出という家長クラスの人がいます。ところがこの猪出という名前は筑前の国川辺の肥君猪出で、吉志の娘・宅蘇吉志橘姫というのが肥君猪出の母なのです。肥君というと今の佐賀県あたりの首長ですから、難波の吉志忌寸の祖先はどうやら九州の多氏と婚姻関係にあるらしいです。以前装飾古墳を見に筑前の王塚古墳、若宮古墳を見に行きましたが、もしかしたら吉志もあの辺の出身かも知れません。

また中大江皇子の妹に間人皇女がいますが、この女性は丹後と非常に縁があります。丹後半島の竹野町には間人の地名があり、彼女が「滞在」したからだと言われています。ここは竹野姫でも有名な古墳があるところですし、手前に海人文化の栄えた宮津市もあり、浦島伝説、大江山伝説もこの周辺にありますから、橋立の籠神社とともに海部氏や多氏に関係があるでしょう。
しかも丹後は水銀の多い土地ですし、丹生津姫の神社もあるのです。

乙巳の変と鉱物財閥?多氏は非常に関係がありそうです。

手元にあります小学館『日本の歴史 古代豪族』の巻末には天武朝の氏姓一覧があります。

この中に多臣は朝臣、出自神武天皇、左京皇別とあります。神武を出自とするということは非常に古い氏族ということか、あるいはもしかしたら天武にかなりのゆかりの深い氏族なのかと思えます。大春日氏や藤原部造でさえ孝霊や崇神というあとの世代の天皇を出自とするのに、多臣だけは神武なのです。神武を出自とする氏族名を見て行きますと、それほど数はありません。多臣以外では茨田連、小子部連、小泊瀬造だけであり、それは皆、なんと多氏の同族と言われる人々なのです。

これはどういうことなのでしょう?
多氏は阿蘇から来たと言われるのに、宮崎から来た神武天皇から出たと書かれているのです。
こうなると阿蘇多氏こそが神武直系の最も古い氏族ではないのか?という疑問が浮上しそうですね。

それだけ壬申の乱でも彼らは功績があったのでしょうが、不在の天皇と言われる神武の伝承は阿蘇氏が北上東征してきた事績から作られた可能性がありはしないのでしょうか?!そして「あそみ」という役職名はまさかとは思いますが「阿蘇の臣」から来たのではないだろうな?と考えさせられてしまいます。

同じように多氏同族と言われる他の氏族はどうなのでしょうか?
まず大三輪の君は大和神別・三輪氏出身で、まったく皇族権威的な書き込みはありません。
さらに佐伯連は大伴氏出身。雀部臣、阿部臣が孝元天皇。
どうやら上記四者は多氏同族の中でもかなりの近親関係のようです。
では他の多氏から出たと言われる氏族はなぜ違う出自としたのでしょう?理解できませんね。

その他おや?と思った氏族を列挙します。

羽田(はた)公・真人・応神天皇
秦連           漢人
山背臣・連・直     中臣氏
鴨君・胸方君      三輪氏
伊福部連         尾張氏
稚犬養連        尾張氏
海犬養連・凡海     阿曇氏
犬上君          景行天皇
大野君          崇神天皇
菟道連          物部氏
弓削連          その他の氏族??

とくに最も面白いなと思ったのは、物部氏の大臣クラスが物部連朝臣をはじめとして宿禰11氏族、連8氏族と非常にたくさん残っている。つまり守屋死後も物部氏は最大派閥であったということなのです。本当に物部本宗家は守屋の死で壊滅したのでしょうか・・・?Kawakatu、やはり守屋の事件はでっちあげじゃないのかと疑いたくなります。^^

つづく
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