滋賀県永源寺木地師と御所地名について   
投稿日:2007年12月21日(金)13時40分15秒

おもに谷川健一氏『日本の地名』からの着想です。 本当は実際に行ってフィールドワークすべきなのですが、財政難のためと年末のあわただしさで仕方なくここに書くことにしました。 

親王伝説を持つ多くの杣、番匠、木地師たちの中で全国で最も名の知られたものに、この永源寺杣、永源寺木地師があります。 他にも京都の木津や、和歌山の黒川漆、あるいは熊本の雉子車など作った木地師達は、特に聖武天皇時代に近江に石山寺などの寺社を建て始める頃から滋賀県永源寺町を本拠地としてゆくようです。この時やはり有名な岐阜県の飛騨の匠たちも、欄間建設などの必要からここにあつまったと思います。  君が畑が主な切り出し場所かと思いますが、この木樵関連の回遊職能民の中から、蹈鞴製鉄、漆、欄間、宮大工、石橋架橋、土木、紙漉、運搬業、白拍子、壁塗り、深草、蓑造り、金売りなどの技術が伝わって行きます。したがって山師とともに、木地師たちもまた、日本の古い山間部の風景や地名に大きく関わる一族だと言えるでしょう。 

京都の西の京方面に鷹峯という名山がありますが、あの山の鷹などもそうですし、京都市右京区の方にある十一地名、あるいは北山の奥にある京北町などの柚地名も、木地師たちのいた場所だろうと思えるわけです。  近江の永源寺周辺に最初に職能民があつまるきっかけを作ったのは宇佐神宮の最初の神宮寺に縁のある良弁和尚(金鷹和尚)です。良弁は行基の兄弟弟子であり、空海の大先輩であるうばそく出身の東大寺初代別当でもあります。 彼は子どもの頃に鷹にさらわれたという伝説もあります。そして母がそれを探して行脚し、再会の後、末期の水を欲しがった。それが福井県遠敷の閼伽の水なのです。 それが東大寺お水取りの水です。 

お水取りと同時に進行する修二会は、丹生、水銀、鉱物に関わるありとあらゆる職能民・・・すなわちむくわれず死んでいった技術者達の御魂を鎮めるという側面を持った、いわゆる施餓鬼会でもあります。ですから鬼が出てくるわけです。 鬼と言えばこれはもうに主に山師たちなのですから、あれは鉱物神への鎮魂と見ることもできます。  遠敷の地名ですが、もともとは小さい丹生、小丹生の音に文字をあてたものでしょう。「おにゅう」。遠い敷と書くのは思うに、九州方面でも間歩=坑道のことを「敷き」と申しますので、遠い場所にある間歩となるのでしょうか。近い敷きはどこかというと吉野、熊野でございましょう。 

さて近江と言えばまず天智天皇近江朝ですが、実は近江の仮宮にはいったことがある天皇は他にもいます。遷都遷都にあけくれた聖武天皇であります。 桓武天皇もそうでしたが、この聖武天皇も実に腰の落ち着かぬ人でした。その一番の原因は多くの親王を権力の座からひきづりおろしたのと、西の方に起きた藤原広嗣の乱から逃げるためだったそうです。なんおとも小心者ですが、そのために一時は紫香楽にまで逃げ込んでいます。なにしろふたりの女帝の教育を受けて、思い切りいくじのない人物だったようです。  この方は無駄遣いの帝王でもあり、その無駄な税金の浪費で、常民は大いに苦しみます。 おまけに奈良に多数の仏像を作ったため、水銀で平城京はやられてしまう。大和川を汚染し、山師達を鬼として、自分の命令でやったくせに、ひとのせいにします。 そしてひたすら怨霊から逃げようと右往左往。とんでもない小悪党ですね。  一番に鬼にされたのが水銀採集民でしょうね。 木地師と山師は一蓮托生の部分が大きいのですが、すくなくとも木地師は鎮魂の宮作りに関わりますから鬼にされたとは言えないでしょう。 

良弁自信はたんなるうばそくから、一気に出世する不思議な人物ですが、おそらく真言密教と道教の天文遁甲などをうまく融合させた今の阿ゴン教のような、まか不思議な方術で皇室に取り入ったかと思います。それは彼が鷹にさらわれた・・・すなわち修験者を中心とした山師集団にさらわれたということが関与します。これはいわば忍者のよくある神隠しそっくりの、後継者育成のための人さらいだったと思えるわけです。まあ、天狗にさらわれたとか言うのと同じことです。

ですから良弁こそはやがて職能民、山師たちの頭目的な出世者になれたわけだろうと。 彼と、出羽の百済敬福というのがどうやら仲間です。あと宇佐の大神比義ですね。いわゆる金発掘によるネットワークを持った山師うばそく連合ですね。 ここに秦氏は関わらない感じがするでしょう?  ところが聖武がうろうろした背後でいつも手を引いているのが秦嶋麻呂でした。藤原氏に嫁を出し、権力を欲しいままにできた嶋麻呂の流れは、桓武の平安遷都における秦小黒麻呂にまで引き継がれます。彼らは不動産屋といってもいいし、都市計画のデベロッパー、プロデューサーでもあろうかと思います。   

永源寺周辺には御所地名が氾濫します。君が畑の君も惟高親王や尹良親王(ゆきよし)の伝承から来ているようです。ただ御所地名については御所車の八角形の家紋自体鉱物である可能性もあるわけです。御所車の家紋は源氏を表すものです。源氏車とも呼ばれています。 この源氏の下にいた土豪の中に木地師達の末裔がいたかも知れないし、また源氏の武器調達斑としての山師集団がいたかも知れません。  司馬遼太郎氏は『街道をゆく』の中で、平安終末期に関東に入った騎馬集団の存在を特記しています。彼らが板東武者の始まりではないかと言うのですが、この板東武者というのと京都の源が本当に頼朝でつながるのかというと極めて「うそくさい」のです。 系図などはいくらでも詐称できますし、頼朝の最後はなんと武者にあるまじき落馬に始まっているのですから、疑ってしまうのです。  そもそも吾妻という地名は「あずみ」からきたのではないでしょうか? だとすれば、安曇族が元々いた関東に入ったのはもともと安曇の船を使っていた、山背から出て行った秦氏でした。それも秦氏管理者にとって必要なくなったあぶれ者だったはずですから、秦部というべき部民でしょう。下賤の原住民と言ってもよかろうかと思います。 つまり秦部は渡来した127部のうちの、高貴な為政者ではなく、職能民、倭人であった。その血の中には南方系神仙思想を信じる蜀や犬戎のものが流れていたのではなかろうかと思うのです。武士のあの残虐性。首狩り風俗はどうみても南方の蛮族的な血筋に見えます。挑戦で首をはねる習俗が武家にあったかどうか知っておられるなら教えていただきたいのですが、あるのでしょうか?  こういう人々が集まった君が畑や御所平から多くの宮大工や匠が出てきます。そして各地へ流出してゆくのです。だから本来西の地名が、東国、北国へも移動してつけられて行くのだと思える。 

富士山の「ふじ」なども、私が幼いころ学校で習ったのは本田勝一さんみたいな、申し訳ないけれど学者ではないジャーナリストが書いた「アイヌ語説」でしたが、どうも納得できない。 アイヌ語で山の名前がついたのなら、他の山の名前もそうであるはずでしょう。 しかし八ヶ岳などは鉱物です。阿蘇も鉱物。鉱山周辺に必ず「藤」「葛」地名があるのはなぜか? それは「ふじづる」が運搬用の紐、あるいは坑道へ入るときの命綱に使われたからではないか。藤という名前の方に聞いてみて下さい。あなたのご先祖はどんななりわいをされてましたか?と。大概のかたはなにも知らないでしょうが、鉱山近くや古いおうちの方なら「鉱山」と答えるのではないかと思います。  土蜘蛛の中に国樔の民と言われる原住民が出てきます。井光などもそうですが、愛知県の天竜川沿いにも木地師が山ほどいて、尾張氏にやられてゆく。尻尾があるという水銀一族でしょうが、犬のイメージも尻尾にありますし、同時に命綱を巻いて竪穴間歩からはい出たのかも知れない。尾張の羽生氏などは熊本多氏にやられて同族化した氏族でしょう。  あと京都の向島あたりは鋳物師(いもじ)ですね。 東一口でいもあらいなどという地名が宇治~瀬田~綴喜郡には多いですね。 あそこはこないだまでひどかったんですね。住んでいたからわかりますが、解体業ばかいなんです。宇治に六地蔵なんてありますが、お茶の名産地。お茶はね、そういう作りやすい土壌があるわけで、大概、その上が鉱山なんです。お茶も中国から来ていますから、おそらく秦さんたちの仲間でしょうね。渡来技術でしょう。 

お茶の名産地を列挙しただけでも気が付きますよ。 宇治茶、八女茶、杵築茶、因美茶・・・  瀬田は勢多。十把一絡げの運搬業。これが履き物になって「せった」。  熊本県の乙姫。気象庁の基準測定地ですが、熊本の方になぜ阿蘇のあんなところで乙姫かと聞くと、だまるんです。あそこはそういう場所だと小声でおっしゃる。なるほど。だからかえっていい地名なのだと。 このような地名に貴文字を使うのはあえてそうなのであって、そういう方が住んだかららしいのです。神話で言うならそういうところが天孫降臨地名になるんですね。  日向もいい地名でしょう?西都原あたりの古墳群周辺の上も日向峠です。昇って行くと椎葉。米良。杣、番匠、木地師、山師の地名でしょう?ですから昔の学者には手が出せなかったんだと思いますね。山奥は。


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