民族学伝承ひろいあげ辞典

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では人を食う神本文の全文をまとめて貼り付けます。
人を食う神とは、宗教学で言う障碍神(しょうげしん)で、塞ノ神、行く手をさえぎる神のことである。





「摩多羅神(またらじん)とは摩訶迦羅天(まかからてん)であり、また吁枳尼天(だきにてん)である。この天の本誓に「経に云う。もし私が、臨終の際その者の死骸の肝臓を喰らわなければ、その者は往生を遂げることは出来ないだろう」。この事は非常なる秘事であって、常行堂に奉仕する堂僧たちもこの本誓を知らない。決して口外せずに秘かに崇めよ。」光宗(こうじゅう)『渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう)』

肝臓を喰らわせなければ往生させてもらえない神とは民俗学的には「荒神 こうじん、あらがみ」であり、民族学・宗教学的には障礎神(しょうそじん、障碍神のこと)と云うそうな。(中沢新一)
心から祈れば願望成就のために力を貸すが、ひとつでも不敬をなせば逆にあらゆる願望を成就させない神のことであるそうな。

「しかもこの神はカンニバル(カニバリズム・人食い・ラテン語でハンニバル)としての特徴も持っている。人が亡くなるとき、摩多羅神=大黒天=ダキニ天であるこの神が、死骸の肝臓を食べないでおくと、その人は往生できないのだという。往生とは、人が生前に体験した第一の誕生(母親の胎内からの誕生)、第二の誕生(大人となるために子供の人格を否定するイニシエーションを体験して、真人間として生まれ直すこと)に続いて、人が誰でも体験することになる「第三の誕生」を意味している。そのさいには、人生のあいだに蓄積されたもろもろの悪や汚れを消滅させておく必要がある。そうでないと、往生の最高である浄土往生は難しい。そこで、この恐るべき神が登場するのだ。人の肝臓には、人生の塵芥(じんかい・ちりあくた)が蓄積されている。そういう重要な臓器を、摩多羅神は臨終のさいに、食いちぎっておいてくれるという慈悲をしめすのだ。カンニバルとは人生からの解放をもたらす聖なる行為だ。」
中沢新一「後戸に立つ食人王」

ダキニ天(母神マートリカ)はインドの密教ではへールカという男神とペアでくねり、からまるエロスの象徴として現れるが、ともに飲血の神で、へールカの代表がマハーカーラなのである。

つまり摩多羅神とは、光宗に言わせれば、大黒天+ダキニ天+カニバリズムの男女神となって、先土器・縄文からの「野生の思考」による新石器的思考(中沢)が、仏教以前からあって、常民の中に深く根付き
なまなましく活動していることを、隠さねばならなかった。

弥生時代になって、外からやってきた者の思考と、その野生の縄文的思考は出会ったのである。そして弥生は縄文の野生が、自らの思考と合致する部分を自然崇拝に見出すのだ。ふたつは宿命の糸で出会い、相乗効果を生む反面、いちじるしく野性的な縄文部分ははしょる必要もあった。そこで縄文の中からなじまず一人で歩き出す=遊離してゆく集団もあったはずである。しかしながら、結局、国家ができあがる過程で、ふたつは融合し、協力し合う。そして仏教が取り込まれた。仏教の闇である密教の教義は、その自然の融合がこの島国でなりゆきまかせに実体化していることに驚愕し、なぜ密教の教義を彼らが知っているのかと悩むこととなる。そこで、仏教以前の融合をなかったこととし、仏教がそれを誘導したのだとすることによって悩みからの脱却を画策する。だからこそ、それは隠さねばならなかった。原始民間神道は仏教によって昼の世界から消されたのだ。国家仏教の教義の上では。最澄がそれと気づいて高野山へはせ参じたが、空海は決してそれを教えようとしなかった。己で気づかなければ天台の修二会は始まらなかったことだろう。

それを後戸の闇で継続したのが賤民と渡来職能民だった。

そして密教だけが、それを許可し、阿弥陀仏のウラの後戸に密かに祀ったのであった。なぜならば、真言・天台の奥義は「理知的な仏教の体系」を凌駕した、鬼の救済に本願があったからではあるまいか?
鬼、賤なる民、常民、漂泊する魂たち・・・密教の王道はこれらよるべなきハラカラどもを救うことにあったからである。その奥義の神こそはインドの太古の神々であった。それは仏教ではなくヒンズー教が本来持つべき神であった。

「仏教の歴史はたかだか紀元数百年を遡るにすぎないが、こちらのほうはその百倍もの長い時間を生きてきた人類の思考である。仏教の中にそのようなとてつもなく古い思考が生き続けている事実は、隠しておかねばならないことだった。」(中沢)

真言寺院広隆寺講堂にある不空羂索観音は額の三つ目の眼で鬼たちを監視し、見守っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここから先は筆者の独白に過ぎない。読まなくてもかまわない。


かくして物部守屋は密かに殺害されねばならず、殺したものは物部のふるべの磯の神よりも聖なる者の手で行われねばならなかった。聖徳太子の四天王寺には守屋の霊魂を「太子が」「手厚く」「鎮魂する」必要があったのである。
あるいはまた、そうでないならば(人民が聖徳太子の存在をもし信じないときは)真逆の人物・・・穢土の王者である秦河勝が殺したことにすればよかったのである。この二人は太陽と月だった。アマテラスと月読だったのだ。陰陽である。したがって守屋を殺害したのは河勝であって正しいことにならないか?

物部の神道協力者であった中臣氏が、あるいは藤原氏が、その後、神道の中心に座り、藤原氏はかつて物部氏が従えていた縄文・蝦夷たちの世界の「もうひとつの」入り口に(茨城に)鹿島と香取の両神宮を鎮魂の結界として建立することとなる。

多武峰・・・藤原鎌足を祀る談山神社の大鳥居のすぐそばにキヌガサ埴輪と鉄の弓という、きわめて珍奇な、それでいて皇室祭祀にも関わる神器が埋納された大古墳がある。

メスリ山古墳である。

キヌガサは傘であり、大王の背後に立てられる、いわば聖なる君主の証。鉄弓は今も皇室祭祀で打ち鳴らされる琴弓の原型であり、神武天皇東征のとき、そこに光る金の鷹が止まってイワレ彦を助けたいわくつきの金弓をさすのだろう。神武の東征こそは、古き大和の一族・物部氏そのものの行いではなかったか。
ニギハヤヒ命、天孫降臨のとき、その従者たち32部の中に、天玉櫛彦がいる。この神は間人連(はしひとの・むらじ)等の祖神である。
すなわち、物部氏はすでに天皇家よりも、倭五王よりも以前から賤民の長を従えていたのである。賤民が賤民となる前から、すでに物部神道が彼らの魂を救ってきた。それが仏教にとってかわられれば、いったい誰が彼らを守るのか?

こうして朝廷が天皇の対極としての賤民を作り出す前から、すでに彼らには漂泊者としての宿命が用意されていた。それは物部氏の敗北によって決定的となり、先史、縄文からの自然神と弥生の宿神たちはひとつになり、守屋の霊魂とともに浮遊することとなるのである。東大寺別当・良弁のお水取り・修二会によって鎮魂され、その後天才児・空海がもうひとつの鬼の一族・蝦夷の中から出現して真言の奥義を窮め、高野山に入り、さらに天台開祖・最澄が鬼の鎮魂の奥義に目覚めるまで。


人を喰う神。
それは子を喰らい、同時に再生させる。
アメリカインディアンの信じるトーテムポールに刻まれた「人を喰う熊」も同じである。
画像をよく見るがいい。
大きな口で胎児を喰らいつつ、その下半身からは新しき胎児が顔を出しているではないか。
その顔は、あの縄文土器の胎児にそっくりではないだろうか?
これが「野生の思考」である。

日本の神は人を喰い、人を救う。隠された奥義。
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■サトゥリヌス(ローマ神話の神)とは英語ではサタン、つまり堕天使から悪魔と変化(へんげ)した老いた神である。


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ゴヤ わが子を喰らうサトゥリヌス(プラド美術館所蔵 原色世界の美術より)

ギリシャではクロノスといい時間を表す。英語のクロックの語源だ。

洋の東西で、時間=老人で表現される。

それは日本の浦島太郎が玉手箱を開く=時間の経過=と白髭の老人に変化したことと同じ観念である。
クロノスと、今ひとつカイロス・・・これも時間の神の名であったが、それは古代のことで中世になってからはギリシャ人は時間を老人の姿で考え始めるのである。

カイロスは韋駄天・・・両肩と踵(かかと)に羽を持ち、天空を凄い速さで駆け巡った。すなわち若々しく駆け巡っていたはずの「若い神」だった時間枠は、中世の陰鬱の中で、それは老人=翁の姿へと変化して行った。

日本でも、古代には童子神=聖徳太子的イメージの=「小さ子」には時間の経過を表す意味があったと思われ、子どもこそが時のいきいきと過ぎる象徴だった。それが中世になると、例えば八幡神は最初、鍛治の翁として顕現し、やがてそれが童子、金の鷲に姿を変える。

『東大寺要録』諸神社
「一、八幡宮養老四年。大隅之国有軍事。依祈申大神供打平帰給殺多人云云 天平三年賢所現給
筑紫豊前国宇佐郡。厩峯菱瀉池之間。有鍛治翁。甚銑異也。因之大神比義。絶穀三年
篭居精進。即捧御幣祈言。若汝神者我前可顕。即現三歳小児立竹葉。詫宣云。我是
日本人皇第十六代誉田天皇広幡八幡磨也。我名曰護国霊験威力神通大自在王 。国々所
々垂|跡於神道。是初顕御座」

『扶桑略記』第三、欽明天皇三十二年条
「欽明32年のころ宇佐郡厩峯と菱形池(ひしがたのいけ)の間に鍛冶翁(かじおう)あり。 たまたまその地に大神比義(おおが・ひぎ なみよし)なる神主がおり、穀断ちすること三年、御幣を捧げて祈ったのち、「汝がもし神であるなら姿を顕すべし」と神に語りかけた。すると鍛治翁はたちまち三歳の小児に変じて「われは第十六代応神天皇でありまたの姿を護国霊験威身神大自在王菩薩(ごこくれいげんいしんじんだいじざいおうぼさつ)なりと託宣した。」

このように鍛治の翁とは永遠の時間を表す老人でありながら、小児でもあった。その姿が応神天皇だったとか仏教的菩薩の姿だったなどというのは付録である。歴史の中で応神天皇の王家が九州に縁のあったことを言い、それが今の王家よりも古い「本家」であるというための付加であり、八幡神が密教やインドのヒンズー教などを守護するのだという仏教世界から発生した神であることの説明でしかない。


大神比義。八幡神は老体か童体、あるいは蛇や鷹になって顕現し人を食らう。
つまりそれは大自然の災害=オロチやスサノオである。


大事なことは翁と童子という神の顕現する姿なのである。
ではなにゆえに鍛治神や堕天使や時間観念が、
世界中で悪鬼のごとく人を喰らうのか?

つづく
参考文献 山折哲雄『神と翁の民俗学』講談社学術文庫 1991
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オイディプス神話のラーイオス
1 ヒュギーヌス第66話「ラーイオス」では、ペリボイアが海辺で服を洗濯しているときに捨て子を拾ったとする。
2 ヒュギーヌス第67話「オイディプース」では、ラーイオスはデルポイに向かう途中であり、彼の衛兵が「王に道を譲れ」と命じたのにオイディプースは無視し、これを見たラーイオスが戦車の車輪でオイディプースの足を轢いたので、オイディプースはラーイオスを馬車から引きずり下ろして殺した。
3アムピーオーンの死後、ラーイオスはテーバイ王となり、イオカステーを妻とした。ラーイオスには「男子をもうけるな。もし生まれればその子に殺される」との神託があったが、ラーイオスは酒に酔って妻と交わり、やがて男子が産まれた。ラーイオスは赤ん坊の踵を留め金で貫き、牧人に命じて息子をキタイローン山中に捨てさせた。しかし、コリントス王ポリュボスの牛飼いがこれを拾ってポリュボスの妃ペリボイアに預けた[3]。ペリボイアは赤ん坊をオイディプース(「腫れた足」の意)と名づけて養子として育てた。
4ハンガリーの神話学者カール・ケレーニイによれば、エウリーピデースの悲劇『クリューシッポス』(散逸)において、ラーイオスは「少年愛」の始祖とされている。また、この誘拐事件によってラーイオスはペロプスから呪われ、息子をもうけることが許されず、もしもうければその息子に殺される運命になったとする。
5イギリスの詩人ロバート・グレーヴスは、クリューシッポスの誘拐は、王の統治の1年が終わったときに身代わりの生け贄を捧げた儀式と関係があるとする。また、ラーイオスの死は、太陽王が世継ぎの手によって戦車から投げ飛ばされ、馬で引きずられて殺される祭式を記したものであるとする。

A 捨て子が王になる
B 王もまたわが子を捨てる
C 捨て子が王を殺し王位を奪う

これは西洋中世のひとつの神話パターンであろう。
ダビデもやはり川に流されまま母に拾われて父王を殺す。
言い換えれば王とはそのようなものだということだ。
古代では母と子はマリアとキリストの位置関係にあった。
しかし現実の殺戮による国土の奪い合いを繰り広げる中世においては、その単純だった関係は複雑さを増して行く。
王と巫覡(預言者)が同じ次元で同居することができた古代では、預言者=キリストはナザレの王であり得る。しかし王が王として現実の実権を専横する時代になるとそれは為政者側からは困ることになる。
常民、平民にわかりやすい世界を築くには、両者が混在していてはわかりにくい。
政治が祭と政の不一致を選択してゆく背景には、王権観念の一元化からのその必要があった。
王は信仰を分離しなければ、多くの国土を奪うことができないからだ。
なぜなら国土を奪うためには反信仰行為である殺戮を伴うのだから。

日本の中世で織田信長は「神」になろうとした。
この国で神になるということは、神の預言者である天皇を殺さねばならない。
巫覡を抹消することではじめて神王になれるのだ。
だから神の預言者である天皇はこれに先んじて信長を消す必要が生じた。
それまでの武家はあくまで天皇の宰相であればよかった。
だからこそ、古代には征夷大将軍、戦国時代以降では関白太政大臣が民間武将が上り詰めることができる最高位だった。

日本と西欧の違いはここにある。
日本では巫覡・預言者は名誉職としての国王=天皇にとどまることができたのだ。
それはなんらかの重要な、えいえいと古代から続く観念があってのことだろう。
それは言霊と祟りだろう。
王殺しを記録できない国家が日本国家である。

ところが西欧では王殺しはヒーローの必須条件だった。
民はむしろそれを大いに喜んだ。
成熟した社会では、明確な二進法によって歴史も動いた。
陰と陽によって君子が現れる古代中国もそうである。
単純明快な論理から晴れて王が出現する。
しかし日本ではそうではない。だから明確な勝者・信長は抹殺された。

日本を最も簡明に表す観念こそが「言霊」と「祟り」である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ユングの共同研究者だったカール・ケレーニイは、その共著『神話学入門』の中で、「童子神」をとりあげ、それは遺棄された捨て子=孤児と母親を対応させて論じている。ここでは父王へではなく、母親殺し、母親への復讐⇌回帰というアンビバレントな関係が童子神・・・のちにクピド(キューピッド・愛とエロスの童子神)を生む背景になっている。

母=女=マトリックス=預言者・・・・は古代の巫女王(卑弥呼もそれ)である時代の様式である。
巫女王から巫覡王、巫覡王から王が派生する。
日本史に置き換えれば、巫女王卑弥呼→巫覡王崇神→実戦王応神という構図である。したがってここまでの日本の古代史も、ある一定の大陸理念によって「創作」されていると言ってかまうまい。

応神王朝が国土を奪うために出張・行軍してゆく「武士団」だったならば、考古学が言うようにその王城であるヤマトに戦いの痕跡がない理由は納得できる。しかしそれならば河内やヤマトに入るまでのルート上に古い争いの痕跡が必要になる。ところが吉備にも播磨にもそれがない。あるのは日本海側の北部九州から鳥取までである。そしてそれは日本海により来る渡来との痕跡である。
だから神武から応神までの限りなく「騎馬民族征服」を匂わせた(責任転嫁)日本古代史の文献の書き方は、むしろそれがなかったこと、日本海を渡って山陰に入り、中国山地を越えて吉備へと直接入った王家の介入を指し示していると筆者は考える。
原初王朝である九州を通らない。通らないから有事の跡がない。それでは統一に程遠い「漁夫の利」だとなってしまうから、神武を創作する。そして応神もまた神武の直系であるためには九州にえにしが必要になる。そこで神功皇后という大陸的巫女王の母がいるのだ。
その母は中国的な西王母=巫女王の姿である。しかし応神は西欧の童子神のようには母親に復讐しないのである。祟るからだ。
こうして神功皇后は「祟り神に祟る神」=一段格上の祟り神⇌守護神となって信仰された。

おそらく応神天皇=童子神が九州の宇佐に祀られた背景はこういうことだろう。そしてそれは中国の密教の主導のもとで行われねばならなかった。真言密教である。




およそ人を殺戮(喰らうことが)できる「モノ」とは往古から神と軍隊だけである。
前者は自然災害ゆえに人知の及ぶものではなく、後者は人が国土拡大し「国土安寧」=平安をうるために勝手に法の上で合法化した組織である。だから軍隊=兵隊=武家はそもそも神になろうとする大それた考え違いの、すぐ真横に存在するものである。
いくさを生業とするモノの恐ろしいところはここだけである。ここさえきちんと押さえ込めば、困ったときには必要だった。それまでは天皇がその上にあった。神と人との中間に位置する預言者として存在してきた。軍隊はだから首の皮一枚で武家であり続けた。ところが明治政府は天皇を「錦の御旗」として取り込んでしまい、天皇の名の下に帝国主義へとひた走ってしまう。この時点で人が神になろうとした・・・つまり織田信長と明治の軍部は同一線上にある。
押さえ込む錦の御旗がなくなれば、あとは行きつく先はひとつである。明治政府は日本1400年の歴史と観念から、天皇だけを取り込んだが、西欧観念には肝心の国家観念としての「祟り」も「言霊」も置き忘れている。だから神になりかかった。

神ならばこそ英霊の血液と敵国の血液に鈍感だった。

神とは血を舐め、肉体をしゃぶるモノである。
それがニエの正体である。

神饌とは神の食事。
それは災害が殺戮する人民の代わりである。

大陸の王たちもまた殺りくによってニエ=犠牲者を喰らうモノである。

すなわち殺人者とはそれそのものが堕天使・・・神から変じた化け物=ルキフェル、メフィストフェレスなのである。
現代社会においてはそれらは法の下に抹消されねばならない。

西欧のクピド(キューピッド)が愛とエロスという、一見、相反する二物を象徴したのは、そもそも西欧古代においてせいせいと流れる時間の勢いを若い男性のはちきれんばかりの肉体に見ていたときから、愛=肉欲だったからにほかならない。西欧においてはもともと神は若者=童子という二律背反な存在にしか見出されておらず、それは古代の観念から矛盾していない。生き生きと、生命力にあふれた、強靭で不可思議な前にしか向いていない存在。
それが老人の姿になり、幼児の姿になる。つまり中間の働き盛りの男たちは完全に実在する、現実の、地を這う、人間に扱われる。

ところが日本ではスサノオやオオクニヌシは壮年・青年であった。
古代の神はダビデやアポロンやビーナスなどみな成熟した青年であり、老人といえばゼウスやポセイドンといった老獪な全能のモノしかいない。中世以降、西欧も日本も中国も、神を翁、少年、女、稚児に見出してゆく。
人間の終末期と誕生期のものども・・・言い換えると実生活から切り離された「異界」の人々に見出すのである。

天使は堕ちて悪魔となる。その悪魔の姿もまた老人である。童子神が地上で翁へと変化するのである。
クロック=時計の語源となるギリシャのクロノスも悪魔であると同時に愛のクピドになった。
日本の祭、南島の原初的な祭でも、巫女や翁神が子どもを二人連れて現れる。北欧のクリスマスでは母親あるいは老婆が子どもを引き連れて家の中を呪文をとなえながら払って回る。
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さて、似たようなものをどこかで見たことはないか?
不動明王が左右に置く脇侍は?
矜羯羅童子(こんがらどうじ)制多迦童子(せいたかどうじ)という童子神である。
不動明王はサンスクリットのアチャラ・ナータ、明王という「王」の神格化である。
日本では荒神のひとつ。
人の悪行を監視し、罰する神。
その姿の大元がカーリーや転輪聖王などのアチャラ^^の神にあったことはよく知られている。
童子の姿のワキ神を持つのは、子どもの残虐性・・・・・子どもは命の大切さなどに頓着がなく、つかまえたネコの髭をおとしたり、虫の羽や触覚をちぎるのが得意。すなわち天使のごとき微笑の影で、残忍非道である。無知である事の残酷さ、冷酷さを併せ持つ。その残忍な性格で、人の悪行を断罪する。こともなげに。

パノフスキーの論理では愛の神クピドと時の翁クロノスは全く相容れない別個性の神と捉えられている。
一見、山折哲雄が言うように西欧においては愛と時間は相容れぬ観念の産物に見える。
しかし実際には愛と時間には、時を意識せぬ若者だけが許されるものだけではなく、翁=神が見せる慈愛と童子が見せる残忍の二律が同時存在する虐殺愛がある。
中間の現実の人々に意識して隠されてきた愛と残酷それがクピドを堕天使にした。
ダークサイドに落ち込ませた。

日本ではそれらが単純明快な掌の裏表、勧善懲悪の理念で表現されない。
囲碁のようにはならず将棋のような難解な現れ方をする。表が金で裏はと金。
翁と童子は同時存在し、同一観念である。
残虐にして慈愛に満ちた海のようなモノが神=自然の摂理なのだ。

まだまだつづく
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「空海はまだ若いころ、波濤万里をこえて中国に学んでいる。唐代の上昇気運にのる密教を学んで、帰ってきた。学ぶというより、ほとんど盗むことに耽溺して胸を躍らせていたのではないか。
 篋底(きょうてい=旅籠の底)に隠してもち帰ったのが、大判二枚のマンダラ(曼荼羅)だった。

金剛界マンダラ
胎蔵界マンダラ

と呼ばれる。略して、金・胎の両部(両界)、ともいう。」

「そのマンダラ(とくに胎蔵界)に、無数の女体群像が満天の星のようにちりばめられていた。タテ一八三センチ、ヨコ一五四センチの大きな画布(絹本著色・けんぽんちゃくしょく)に、四百尊をこえる仏・菩薩の像が、微細かつ克明に描きこまれていたのである。
 その仏・菩薩たちの群像が、すべて薄衣(うすぎぬ)をまとったヌードに近い女性たちで、嫣然(えんぜん)と微笑み、コケティッシュ(セクシー)に身をくねらせている。」山折哲雄『空海の企て 密教儀礼と国のかたち』 角川選書437 2008

両界曼荼羅は空海が創建した京都市の東寺に伝えられる、密教界屈指の宝物である。
それは山折哲雄が言うように、まさしく男女の二つの世界=金剛界と胎蔵界・・・言い換えれば陰陽の陰と陽の関係にある世界だった。
密教はもともとが陰陽と仏陀の教えが本地垂迹して日本に渡ってきたのである。
この時点で、空海以前の密教と以後の密教は、前者を雑蜜(ぞうみつ)、後者を純蜜(じゅんみつ)と分けて考えるようになったが、実際、その(天皇を)「看護する」という主目的において、実は両者にそれほどの根本的相違はない。

古くは豊国奇巫(きふ)、豊国法師の時代から、近くは玄、道鏡の天皇の心の病を回復させるための密教・・・すなわちはっきりと申せば、ひとつは麻薬と幻覚剤による護摩法要=巫術。ひとつは呪術が太古より持ち続けてきたジェンダーの開放=性的解放である。

不遜だろうか?

金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅は陰陽であり、それは二進法であり、性行為そのものではないか。と、山折は問うのだ。

金剛というと、金剛組とか金剛力士とかが思い出されようが、あの金剛力士の屹立する肉体美はすなわち男根を表している。そして胎蔵界曼荼羅はまさに菩薩天使の名を借りた天女の舞である。往古から大日、菩薩、仏像、あるいは神の世界の住人であるべきアマテラスなどのすべてが女体でもって、あるいは身をくねらせる少年美の肉体で表現されてきたのは、そもそも菩薩、天使、如来などの神仏の多くが胎蔵界=陰=胎内=マトリックス=子宮=蓬莱山=墓所だったからにほかならない。
空海が盗んでまで持ちかえった両界曼荼羅こそは、中国密教が陰陽の奥義に源を発していた証拠品なのであり、それこそが秀才・最澄が考え及ぶことのかなわぬ世界。入唐するのに漢語にも呉語にも通じていた空海だからこそたちまちに理解できた観念。一方、入唐に弟子に漢語を学ばせて通訳とした最澄。これが非常に大きかった。
そして空海は「嵐に遭難し難破」したのではなく、最初から密教の本場を南朝に定め、渡ったこと。
桓武時代が漢風文化のさかんな導入時代であり、漢文による教義取得を望んだはずの桓武の意向を無視してでも、「道教の本場」「陰陽の大本であるヒンドゥー教の派生地・天竺により近い」「混沌の世界である」長江の南の世界へ、空海は自ら求めて渡ったからこそ、真の密教に迎え入れられた。最澄の持ち帰った北朝の漢文経典は、実は翻訳であり、「三教」=道教・儒教・仏教の真の混沌は南にあったのだ。(注;儒教は桓武以後取り込まれて言った新しい宗教であり、その契機となったのは玄・道鏡の行いのせいである。しかし実は二人の行為は「加持祈祷による治癒」だった。)

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道鏡は称徳天皇(孝謙天皇重祚)の「たぶれ」てゆく心を看護したことから、その治療法である女体とのまぐわいにまでことが及んだのは、彼女のやまいがまぎれもなく、政治抗争に生じた鬱病だったことの証拠である。
玄もまた聖武天皇の政争による鬱病を回復させるためには、まず実の母親である藤原夫人(宮子)の引きこもり=鬱病を治癒するのを優先する。これもはっきり申せば女体=この場合「玉胎」との接合によって、心を解放しようとしたのだろう。

護摩というものの本体が芥子であったことは『源氏物語 葵上』に「御修法(みしほ)」として記録されている。もののけとして現れる六条御息所(ろくじょうの・みやす(ん)ところ)の生霊を祓う法会・・・。葵上に憑りつこうとする六条の生霊は無事祓われ、葵上は無事出産(夕霧)。六条はそれを伝え聞いて内心ほっとするが、ふと自分の衣からただよう芥子の香りのしがみついていることにはっとする。
御修法で焚いていた護摩の香りが、その場にいなかったはずの六条の衣に染み付いているのである。髪を洗い、着替えをしてもその匂いは決して消えることがない・・・。そこでようやく六条は自らが生霊となって葵上を呪おうとしていたことに気付くのである。哀れなる女のサガが、このシーンには燦然と煌いている。

ハッシシ、コカイン、大麻・・・・世界中の呪術師が、患者の病調伏、怨霊・精霊・生霊の退散に、必ず用いる媚薬たち。トリップさせ、心を解放し、ダークサイドへ向かおうとする鬱や引きこもりの人々を救い出すのが、これらの麻薬であり、セックスであり、享楽であり、カニバリズムであり、合法が求められる世界ではそれを線香の煙で「代用」している。西欧でも同じ。煙はあのコンクラーベの際でもふんだんに使われていたことをテレビの画像で見たはずである。
映画「ダ・ヴィンチ・コード」「天使と悪魔」でもそうだった。

金剛界の金=男根
胎蔵界の胎=子宮

■空海の加持祈祷解釈
加持とは
加とは力を加える作用
持とは力を受け入れる作用

さらに
加は金剛界の金
持は胎蔵界の胎

つまり要するに上に書いた方程式が導き出される。
密教を象徴する曼荼羅とはセックスである。

それはどういうことなのか?!
そもそも仏教とは釈尊が唱えた禁欲的宗教教義ではなかったのか?
空海の教えは、釈尊に真っ向から立ち向かう「反仏陀」の教えになってしまっているではないか?!

釈尊も空海も天才である。
そのようなモノにわれわれは絶対になれないし、その教義もまた絶対に理解できない。
釈尊の教えは空海にとっては理解でき、またそのように生きることは可能だろう。
しかしあなたにそれができるだろうか?
ではどうすればいいのか。
宗教者はどのような手段を用いてもその教義を民衆に理解させねばならぬ「弟子」である。
釈尊がキリスト教におけるイエス、イスラム教におけるマホメッドであるならば、仏陀・釈尊とは神の言葉を伝えた「預言者」のひとりであり、その弟子であるシャミたちは、そのまた伝道師であるに過ぎないことになる。
さまざまの手法で、釈尊と「同じ」境地を見せてやるのが仕事である。

だからこそ「宗派」がある。
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空海の真密は曼荼羅を至高とするエロスによって恍惚(エクスタシー)の境地を凡百の烏合の衆であるわれら衆生に教えているのだ。

なぜだ?

それは密教が中国で発生した当時から、それが国家と強烈に結びついたからである。
その結びつきとは?
子孫を増やさねば国家が滅ぶからなのだ。
国民がへれば庸調も減り、国家は衰亡する。

まして人類が子を生まなくなれば、人類は滅亡する。
それは宇宙の原理=神の言葉=摂理である。

だからこそ!
わが子を喰らうサトゥリヌスこそは史上最悪の悪魔なのだ。
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なにゆえに子を孕まぬ女性たちは、前世紀において洋の東西を問わず、さげずまれてきたのか?
西欧においてはそればかりか、ある時代にはそれは「魔女」とされ、死罪の目にあってきた。
なぜだ?
国家と宗教が結びついていた時代、子孫を造らない(造れないのではない。しかし往古はそれが混同された)母、結婚しない女(ユダヤ教)は悪魔のような存在だった。結婚せず、子を産まぬ女性は、国家の敵だったのである。

ダ・ヴィンチコードの中に次のような言葉がある。

「ユダヤ人の慣習では、独身男は非難され、息子にふさわしい嫁を見つけるのが父親の義務だった」
ゆえに
「イエスが独身だったという聖書の通説はまちがいであり」
「マグダラのマリアはイエスの妻であった」

と言いながら、登場人物はダ・ヴィンチの「最後の晩餐」に描かれた弟子ヨハネの肉体が女体=マグダラのマリアであることを証明してゆく。

そしてその言葉が既成のキリスト教社会では
            
    アンチ・キリスト=異教徒・悪魔の言葉

であるとしている。

古代ユダヤ社会で未婚・無出産が猛悪な行為とされた。
つまり「子を喰らう」サトゥリヌスに匹敵するモノとされた。
それは英語でサタン・・・。
女ならばウイッチ=魔女ということになる。

神だけが子ども=人を喰うことを許されていた。許されていたというと語弊がある。
災害を引き起こす大自然は多くの人を殺すものだった。
それは今でも同じである。山の神、海の神も同じく人を喰う。
だからこの三者はどの世界でも老いた巨人であらわされる。
これを「祀りを乞う神」(田中宣一)とも言う。
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生贄を欲しがる・・・それが神だと古代人は思った。それは前世紀まで続く観念となった。
それを払拭したのは政治の政教不一致の法則と、自然を分析解体して行った科学である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

間違ってもらっては困るが、筆者は宗教や神話や信仰をないがしろにし、科学が万能だ、などと言うつもりはまったくない。むしろ、発展しすぎた現代文明に今必要なのは、迷信や宗教、儒教の中に潜んでいる精神性、人を信じる尊厳であると考えている。
また麻薬の話や神の話を書いたからと言って、筆者はまったくそれの経験もなく、信仰心も深くない。
世の中には仏や神の分析をしただけで、それは「信者」なんだと思い込むバカなものがいるので困る。
分析と信仰は別だし、信仰と道徳も別である。

麻薬や性を使えるものには規定がある。
ここにそう書いてあるからと言って、では素人がそれを使って心が解放されるかと言うと、はっきり申してそれは違法でしかない。
合法的現代では麻薬は医師が、精神の解放は精神科医が、セックスについては愛する人が、あなたの悩みを解放する義務があることになっている。坊さんや牧師さんに、この現代、なにを頼ってもすべて違法になるので無理。彼等宗教者がしてくれるのは悩みを聞くことだけである。ただそれだけでもかなり個人の負担は軽くなる。

前世紀において許された快楽による心の解放という「呪術」は現代社会ではもうみな違法となってしまっている。だから自殺者、人殺し、子殺し、いじめ、少子化になった・・・とは言うわけにはいかない。そういう部分もあるだろうが、そう言ってしまえば現代社会の通念がすべて否定されたことになってしまう。今更、混沌の途上国へは戻れない。

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『今昔物語集』には、何度か、僧侶がキノコを試食する話が出てくる。
仏僧がキノコを食べてみて、気が違ったり、踊り狂ったり、あるいは中には平気なものもいる。
つまり薬となるキノコを探しているのだ。
僧侶とは医師でもある。
そしてその薬とは必ずしも腹痛、頭痛に聞くだけでなく麻薬効果のあるものを探しているのである。

知識のないもの(=科学に無知)にとっては病魔とは怨霊・生霊だった時代、それは平民はなおさらだが、貴族の間でもさして大差はなく、医療を知るものにとっての科学とは、治れば霊験あらたか、治らねば魔性の行いだった。

翁とは長生きした証明であり、それだけで神仏の加護があったことになるし、みどりごの生命力あふれるつやつやとした肌は、青葉や甲虫のクチクラ層が持つ輝きに相似した。古代エジプト人がフンころがし(スカラベ)やコガネムシの背中に命の輝きを見たのとまったく同じである。ゆえに彼等は希少な「神」になりえた。

そして翁は猛悪大魔神である堕天使の生まれ変わりにもなり、それはアンチ・キリスト=悪の権化=わが子どもまで喰って人類を滅ぼし、国家に害をなす存在となった。そしてその数字が666だった。

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獣の数字(けだもののすうじ)は、『新約聖書』の『ヨハネの黙示録』に記述されている。以下に引用すると、

「ここに知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である」。(13章18節)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%A3%E3%81%AE%E6%95%B0%E5%AD%97

ここには「人=悪魔」であると書いてある。

666には諸説あるようだが、神が最初に創った7日間の最後の日、つまり日曜日が”ラッキーセブン”であるのだから、7の前の数字である6は当然、不吉な数字と考えられておかしくなかろう。それを三つ以上も並べれば、これはもう”最悪””ナンバー・テン”である。

※ちなみにナンバー・テンはアメリカ英語のスラングで、ナンバー・ワン(最高)の対語である。最低という意味。6については日本では1~10の現世と来世、生と死の中間で、どちらでもない境目とされた。

ヨハネは人間こそがケダモノであると断定した。
その意味はよくわかる。
旧約聖書全体がどこをどう開いても人間の悪辣な欲望への警告文で満ち満ちている。
そして神は必ずそれに対して天誅を下すぞと脅している。
つまり旧約聖書は、それができあがるまでの過去の人間(王と軍隊)の侵略や虐殺、飽食=わが子を喰らうに等しいケダモノとしての行為に警告を発する。

呪文、念仏である。

人の、王の、すべての行いは欲望に満ち、それは常に正しい道からはずれていると決め付けるのである。

それほど人は神=自然=地球を悩ませる存在だと言うことだろう。

さて、チベット仏教の聖地ラサにあるポタラ宮殿にはダライ・ラマが本来いるべき瞑想室がある。今は中国政府の管理下で博物館になっているから、誰でも見ることができる。
亡命中の14世のいないその部屋の入り口そばの壁面に、ある「反仏陀」的としか言えない装飾画が施されている。

獣姦図である。

横たわる美女の上に獰猛な野獣が馬乗りにまたがっている、衝撃的な絵である。
http://www.minpaku.ac.jp/special/200303/dialogue.html

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ダビデの星は△と▽を組み合わせた記号だが、それはもともと<と>の組み合わせから始まり、ふたつはそれぞれ男と女、あるいはヒトとケダモノを表していた。

これらはみな空海の金と胎に通じる観念の表出した絵柄や記号なのだと山折は分析する。
その組み合わせは時と場合によって変化し、神とヒト、野獣と美女、男と女、金と胎、男根と胎内などなどの同一原理の二律背反観念の合体を表している。

聖なるモノと穢れたモノのカン淫とは果たして何を指しているのか?

「加とは諸仏の護念なり。持とは我が自行なり。また加持とはたとえば父の精をもって母の隠に入るる時、母の胎蔵よく授持して種子を生長するがごとし。諸仏悲願力をもって光を放って衆生を加被(かひ)したもう。これを諸仏護念という」
『弘法大師著作全集』第二巻

我が自行とは真言行者の修行。
大日如来、曼荼羅を前にして瞑想する。真言陀羅尼(だらに)を唱え、護摩を焚く。手印を結んで瞑想にふけることである。
考えようによっては護摩とは麻薬・幻覚剤であり、陀羅尼とはO~~Mのうなりであり、手印の形は陰陽のまぐわいであろう。
両手を握り、それぞれ中指と薬指を立て、左手の印へ右手の印を上から差し込むのが手印である。
仏に祈るとは、ほとんど妄想に相似していることになる。
このような淫猥な念呪があるだろうか?
法悦とは恍惚の境地であり、これらはみな宗教的エクスタシーへ達するための具体的方法なのである。
要するに、念ずるとはそういうことなのだ。

王=男=父=金=ケダモノが、
仏=女=母=胎=美女を
カン通する行いこそが恍惚の境地だと、
空海が言っている。それは父と母の種子=子どもを作るがごとしだ、と。

この点において、ダ・ビンチと空海はどちらもあやうい「反信仰」の崖っぷちを彷徨っていたのだと気がつくはずだ。

そもそもヒトの行いのすべては地球から見て危ういのである。
植物も動物も、人間以外の地球上生命体は神=摂理が許容する本能に従って、無駄なく生きてゆく。人間だけがそれに逆らう。つまりアンチ・アースなのだ。しかしながら生殖し、子孫を繁殖させる行いと死だけは摂理である。
ヒトが地球=神の子である部分とはここだけだと言ってよかろうか。

空海自身はそれを実行するのではなく、瞑想せよと言っている。
それが「入我我入(にゅうががにゅう)」の観念である。

瞑想し、妄想していくと、エクスタシーに達し、ホトケが立ち現れ近づいてくる。そのとき「我れ」は「ホトケ」を受け入れ、ホトケは我を受け入れる。その瞬間、我はホトケの胎内に入っている(=精神的挿入インサートに等しい)。このときこそヒトはホトケになれるのだと言っている。

およそ人間が地球の役に立たない唯一の生き物であることを、ヒト自身は忘れがちである。
ヒトが地球に役立つのは子作りするときと、死ぬときだけなのかも知れない。
砂漠に樹木を植えるなどと言うが、その同じ瞬間に、同じヒトが環境を壊し続けている。
神から見れば総体的にヒトは悪でしかない。

今はヒトだけが死んで地球に還らない。
墓に入る。
土にならない。
リーインカーネーションのリングを切っている。

猛悪大魔神とはとりもなおさずヒト自身だ。

ホトケは女体に変じて、あえてケダモノに身を投げ出す。
あなたなら、それを犯すのか、それとも崇めるのか?
空海はそう衆生に問うておるのではないか?

瞑想の中での合体ならばどうだ?と。


貴方はヒトの中にいれば必要な存在かも知れない。けれど地球にとっては貴方は必要ない存在。
地球を犯し、壊し、陵辱し続ける反摂理。
早々に死滅して、凡我から離れ、仏、神、創造主のもとに立ち去れ・・・。
山に登り鳥に運ばれ、おまえ自身が霊魂となれ。
さすればもう破壊する必要もなくなるだろう。すべての生き物は救われるだろう。
喜んで魂魄となりなさい。それが死だ。
貴方を救うのは死だけである。

・・・・・・・・・・・

この項はこれで終了















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