民族学伝承ひろいあげ辞典

脳梗塞男の料理とエッセイ、ときどき爆笑、ときどき不満爆発? 著書『秦氏が祭る神の国・その謎』2005年  1955年大分市生、京都育ち。 脳梗塞、高脂血圧、緑内障、糖尿病と闘病中。

著書『秦氏が祭る神の国・その謎』2005年 
1955年大分市生、京都育ち。
脳梗塞、高脂血圧、緑内障、糖尿病と闘病中。


 暗殺 を含む記事 : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)


ここからいくつかの古い問題作記事をピックアップして。




◆いろは歌の暗号

いろはにほへ と
ちりぬるをわ か
よたれそつね な
らむうゐのお く
やまけふこえ て
あさきゆめみ し
ゑひもせ す
     ↓
          とがなくてしす=咎無くて死す=無実の罪でわしゃ死んだんじゃ!

こういう遊びを「折句(おりく)」と言う。いにしえの暗号文のようなものである。
古いもので著名なのは在原業平(ありわらの・なりひら)の『伊勢物語』にある「八橋」の杜若である。

か らころも
き つつなれにし
つ ましあれば
は るばるきぬる
た び をしぞおもふ

かきつばた

こちらは頭の語句が「かきつばた」になるように折句されている。

吉田兼好が友人に冗談で送ったというユーモラスな折句がある。
よもすず        し
ねざめのかり     ほ
たまくら        も
まそでも秋      に
へだてなきか     ぜ
↓            ↓
よねたまへ=米をくれ ぜにもほし=銭も欲しい

これを送られた頓阿法師は答えていわく

よるもう    し
ねたく我せ  こ
はては来   ず
なほざりにだ に
しばし問ひま せ
↓       ↓
米は無し   銭少し(しかない)

「貧乏だから米をわけてくれ、できれば銭も少しわけてくれ」
「うちも米はないぞ。銭もわずかしかない」
と、まあ実にユーモア・ジョークあふれた遊びになっている。

「いろは」の場合、ほかとやや違うのは、一列七文字で表記した場合にのみ、「とがなくてしす」が出てくるようになっている。しかし一般に和歌になっていれば、

いろはにほへと
ちりぬるを
わかよたれそつねならむ

と諳んじるのだから、句の末は折句にならない。 
しかし「いろは」は最初から教本『金光明最勝王経音義』ではなぜか七文字ずつで書かれていた。


http://www.geocities.jp/yasuko8787/z029.htm

だから覚え方は和歌のような七語で詠むのではなく「いろはにほへと、ちりぬるをわか」と覚えるよう指示してあったのだ。
ということは作られた当初から「咎無くて死す」が意図的に織り込まれていたということになる。
なぜこの歌の作者はそういう不吉な内容を託したのか?

「いろは」は今で言えば「あいうえお」である。当時のすべての日本語の語音のうち、濁音や撥音、ぱぴぷぺぽ、「ん」などは含めない音声を、たくみにすべて一文字ずつ使って意味のある和歌にしてある。それだけでもたいした着想であるのに、さらに高度な技である折句を入れ込んだ。これはかなりの意図的な重要な意味があったはずである。

そこでさまざまの人々がこの謎に取り組み、さまざまの説を立てた。
一番知られているのが赤穂浪士の四十七士である。いろは四十七文字に数がぴったりで間違いないと。




昭和になってこれを柿本人麻呂の詠んだ句で、人麻呂が石川で死んだのは「とがなくて死んだ」のであろうという説が出た。いわゆる梅原猛や井沢元彦らがそれである。

それでじいっと文字を眺めていると、そこに「ひとまろ」という文字が入れ込まれているというのである。


http://www.geocities.jp/yasuko8787/z150.htm

ファンなら誰でもよくご存知の井沢元彦『猿丸幻視行』の中に使われた「ひとまろ挿入」解釈である。
四隅に「ひとまろ」を入れ、少しばかり頭をひねっていくとこうなるという、推理小説の中での定番・暗号解読の醍醐味を表現して井沢氏は、江戸川乱歩賞を勝ち取った。実に面白い小説なのでぜひおすすめする。

その井沢案から発して、さらに「かきもと」まで入れ込んであるというのが上記サイトの説。
しかし「いろは」そのものがすべての音が入っているのだから、名前に重複のない人物なら誰でもつなぎだすことは可能であろう。ならば「さわら」とか「ながや」とか探すことなども可能になる。

「ながや」「さわら」と書いたのは、長屋親王、早良親王のことだが、このひとたちも「咎なくて死んだ」貴種である。そして井沢の四隅一文字の発想は実は彼ら百人一首の歌人たちの理不尽な政略死からではないかと思う。
百人一首にもやはり何人かのとがなくて死んだ人々の歌が入れてある。折句の名手である藤原定家が、天智天皇の暗殺死をほのめかすために、歴代の「怨霊」たちの句を、あまりたいしたできでもないのに入れ込んだというのである。そしてそれらをちりばめた絵札を一番天智から順番に並べ、ある規則性を持って眺めると、そこに京都の大山崎の水無瀬川が現れるという。


百人一首もいろはも、ある唯一の人物の、歴史上記録されず、誰も知らないままできた「政略的な暗殺」を受けているということをほのめかしたというのがよいかも知れない。ほかの隠れている人物たちは、あきらかにそういう祟り神になり、怨霊と言われてきた人々なのだから、わざわざ入れ込む必要もない。むしろそういう横道の楽しみ方まで頭に入れて、ゲームしながらひとりの人物がクローズアップされるよう、作者は意図したのだと思う。

ではいろは歌を作ったのは誰だろうか>一般には空海が仏教の説教の難解な意味をわかりやすく読んだとされておいるが、そうではないだろう。そこで、先日書いておいた上代特殊仮名遣いの解釈が役に立ちそうである。

平安時代以後の日本語の音は67音で、濁音やらをはずせば基本は「いろは」と同じ四十七文字なのだ。ということは「いろは歌」は、まず奈良時代の88音時代に読まれたものではないだろうとなる。ならば空海も人麻呂も候補からはずれてしまうのである。

その候補は少なくとも平安時代の音が67まで減ってしまった時代の人・・・ということにならないか?
いかがだろう。もちろん平安時代の人が、その時代になってようやくその人の死を怪しんむようになった。これまでいえなかったことを書いたとも考えられるが。となると人麻呂の死は、奈良時代のはじめのことで、確かにどこで死んだかが未だに解明されていない謎なのだ。やはり「いろは」の「とがなくて死んだ」人物は柿本人麻呂なのだろうか?
人麻呂は渡来系小野氏の出身で、この氏族は小野妹子から始まり、あまり地位も、書かれ方もよろしくないのである。そこで井沢氏の書く人麻呂=猿丸太夫=スパイ集団という説がクローズアップされるわけである。
天武の死に関わることを人麻呂は知ったために暗殺され、石見国にひそかに捨てられた・・・。
となる。

百人一首が兄・天智の(天武勢力による)暗殺をほのめかすのに対して、いろは歌は弟・天武も同じく(旧天智勢力によって)殺された?では鎌足もか?
といった謎のひろがりが、古代史に詳しい好事家の間でどんどん増幅してゆくことになる。
鎌足の古墳だとされる摂津の阿武山古墳の被葬者の髪の毛からは砒素が出た。しかし当時の砒素は仙薬の水銀摂取から出るという説が強い。大化の改新前から鎌足が消息不明になるのはすでにそこで暗殺か?、といった説も出ても・・・おかしくはない。それほどこの白鳳・天平のはざまは時代が激動し、暗躍の跋扈した時代である。

さて・・・?

諸君はいかが考えますか?
人麻呂か赤穂浪士か・・・あるいは?
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●石室入り口、土で固める=推古天皇合葬説の植山古墳-奈良
推古天皇母子の合葬説が有力な植山古墳。写真は竹田皇子が葬られたとみられる東石室で、手前が石棺、奥が入り口=12日午前、奈良県橿原市 飛鳥時代の女帝・推古天皇(554~628年)と息子の竹田皇子(生没年不詳)の合葬説が有力な奈良県橿原市の植山古墳を調査していた同市教育委員会は12日、2基の横穴式石室の入り口がそれぞれ土でふさがれ、固められていたと発表した。
 横穴式石室の入り口は石を積んでふさぐ方式が一般的で、土で固めた古墳は非常に珍しいという。市教委は「ここまで徹底して封印するのは特殊な古墳。丁寧に封をして人が入らないようにしており、位の高い人が葬られたのは確か」と分析。推古天皇母子の合葬説を補強する発見としている。
 植山古墳は2000年の調査で、二つの石室が東西に並ぶ「双室墳」と判明。東石室は6世紀末、西石室は7世紀前半に造られたと推定され、東に竹田皇子、西に推古天皇が葬られたとみられる。(2012/12/12-20:27)
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201212/2012121201018&rel=&g=



東石室とからっぽ新品の竹田皇子の阿蘇ピンク石石棺

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推古遺骸が見つからない西石室


●中身の遺骸が出てこない
 東石室の規模は全長約 13.0m、玄室長約 6.5m、玄室幅約 3.1m、羨道長約 6.5m、羨道幅約 1.9m、石室残存高最大約 3.1m。床面には石組みの排水溝が構築されています。玄室には熊本県宇土半島産の阿蘇溶結凝灰岩(阿蘇ピンク石)製の家形石棺が遺存しています。石棺の蓋は身から外され、割れた状態で発見されています。 西石室の規模は全長約 13.0m、玄室長約 5.2m、玄室幅約 2.5m、羨道長約 7.8m、羨道幅約 2.2m、石室残存高最大約 4.5m。羨道床面には石組みの排水溝が構築されています。玄室と羨道の境界部分(玄門部)には、兵庫県高砂市所在の揖保山周辺で産出する凝灰岩(竜山石)製の閾石が置かれています。閾石は石製の扉の底板であると考えられ、扉の軸受け穴と方立をはめ込む溝が掘られています。閾石は全長約 2.5m、幅約 1.3m、厚さ約 0.5mを測ります。この扉材の一部と考えられる石材が、植山古墳の周辺に所在する春日神社・素盞鳴命神社・八咫烏神社の境内に踏石の一部として転用されています。石室内に棺は残されていませんでした。 墳丘の背後(北側)の丘陵上には新・旧2時期の柱列が存在します。これらの柱列は墓の内外を隔て墓域を明示するための塀のような施設であったと考えられます。新しい時期の柱列は、古墳築造から約 100 年後の藤原京の時代頃に立てられたと考えられます。その間、植山古墳が特別な場所として維持管理され続けていたということになります。
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=E8GswM0JmHMJ&p=%E6%A4%8D%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3+%E6%9D%B1%E7%9F%B3%E5%AE%A4+%E9%98%BF%E8%98%87%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%AF&u=https%3A%2F%2Fwww.city.kashihara.nara.jp%2Fbunkazai%2Fdocuments%2Fueyamakohunsiryou.pdf#search='%E6%A4%8D%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3+%E6%9D%B1%E7%9F%B3%E5%AE%A4+%E9%98%BF%E8%98%87%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%AF'






上空から見た植山古墳 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


未使用阿蘇ピンク石石棺が出た植山古墳。
今回は推古の息子だった竹田皇子の東石室が土で厳重に密封されていたことがわかった。
「有力時期天皇候補」であったはずの竹田皇子であるが、かの守屋の乱で流れ矢に当たり、あえなく「抹殺」された人である。
案の定、想定した通り、土壁で念入りに密封されていた。
なぜそうだろうと思っていたかというと、西石室の推古本人の石棺が存在しなかったからだ。
竹田の東石室の石棺は九州からとりよせた「祟り封じ」の石棺だったと言える。しかも中身はからっぽで未使用の新品であった。推古の西石室内にも阿蘇ピンクの破片があった。

植山古墳は七世紀になってなんらかの理由で山田高塚古墳へと改葬されたあとの古墳であるので、遺体がなくても不思議ではないが、奇妙なのは竹田の石棺だけは残されたこと。しかもその石棺がどうもわざわざ新たに造られたものであること。そして母子なら同じ石室に合葬されるのが普通なのに、わざわざ西石室を増築していること。『日本書紀』にはちゃんと移築改葬の記録もある。
ということは推古と竹田の遺骸は山田高塚に移動されたのであろうが、「あるいは最初からなかった」のかも知れぬ。おそらく山田高塚からも遺体は消えているはずだ。

竹田は乱のどさくさで流れ矢で死んだ事になっているが、皇子がいくさに出るときは厳重なる神輿に乗り、三方ふさがった状態で、しかも矢が届くような危険なところまで出向くはずもない。だから彼の戦死は戦死でなく、どさくさまぎれの暗殺である。

阿蘇ピンク石も、畿内型石棺も、どちらも「祟り封じ」の密閉石棺なのだということがこれで一層はっきりした思いがする。


竹田は崇峻、推古、山背、古人大兄らとともに、孝徳(軽皇子)の蘇我氏滅亡計画の一環として殺されたのであろう。当然の結末である。もちろん推古も竹田も最初から創作された存在だったことも十二分に想定できる。

いずれにせよ、このように古墳には中身の遺体がない空虚な「にせもの」古墳もあることを知っておくべきだ。意外にそうしたにせ古墳はこの世に山のようにあり、畿内にはそちらのほうが多いことも想定しておいてもいいのでは?大古墳は地方以外はどうも空っぽ墳墓が多いのかも?日向西都原の大きいのも疑っておくべし。

巨大古墳は怪しい。
「見せる古墳」か?

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昨今は『金枝篇』における定説である「森林の王の交代は死で以って行われた」というフレイザーの意見の見直しが進んでいる。特に記紀が書いている日本の大王・天皇の交代では、そうした原始社会における「王殺し」によった交代劇は非常に少ないことが指摘され始めた。(荒木敏夫『日本古代の王権』2013など)
 
未開社会においては、そうした殺すことによる「譲位」つまり「王殺し(Regicide)」となることが多いとフレイザーは書いた。
 
しかし日本においては(あくまでも記録上であるが)、そのようなドラスティックな展開には決してならず、王権のさなかで病気、病弱、子供が育った、強い王権意識が続かなくなった・・・などなどの理由から、次第に若年で譲位する記事が多い。皇極~明治天皇までの87代中、56代の天皇(大王)が身を引き譲位するのである。
 
明治の皇室典範では
 
「神武天皇より舒明天皇に至る迄三十四世、嘗て譲位の事あらず。譲位の例の皇極天皇に始まりしは、けだし女帝仮設より来る者なり」
 
とあり、そもそもは天皇の譲位はなかったが、女帝が仮に置かれたために皇極以後それが定着してしまったのであり、天皇は本来、永年勤め、崩御ののちに交代するのが正しい(終身在位)という考えを示した。戦後の昭和の典範もこれを踏襲している。
 
例外をあげればまず継体大王の安閑への譲位は崩御だったと表向きはされているが、実際には限りなく政変があったにおいがしている。さらに崇峻も蘇我氏による?誅殺は間違いが無い。(蘇我氏を悪者にするためにほかの抵抗勢力が殺したかも知れない。中臣氏が旧狗奴国勢力の一角であれば、物部復活劇の象徴的シーンとして創作したかも?つまり大化の改新とは狗奴国王権の復活であり、蘇我氏は邪馬台国王権か?)
 
ただし即位以前の皇子殺しならいくつも記述がある。これを王殺しの事前の前倒しと見ることは不可能ではないだろうと筆者などは思う。山背や古人大兄など。
 
あるいは大臣と『日本書紀』は言うけれど入鹿の暗殺などはあきらかな「政治王殺し」による王権交代劇である。確かに記紀は、天皇・大王についての殺しはなかったとしていることが大半であろうが、そうした政治王としての政権の主体の交代劇は起こっている。
 
終身在位の現代的問題点については、引退した皇室関係者からもよく聞こえてくる。

すなわち天皇としての重責を背負うには、現代社会は長寿社会であり、負担となってしまうという意見である。彼らはある一定の年齢になれば譲位したほうが、天皇のお体のおためであると考える。
 
確かに、譲位は死ぬまで不可能だというのはいささか不条理であると感じる。年をとってから、長い病になった場合、天皇の職務は当然機能しなくなり、代行者がひつようになってしまうだろう。つまり摂政としての皇太子が必要なわけである。今でも、天皇不健康のさいは皇太子や秋篠宮が海外貴賓として代行することがある。
 
古代や中世なら、王の健康や長寿は必需のもので、弱れば交代させられた。
卑弥呼の時代なら当然「以って死す」で当たり前である。
しかし現代、なかなか典範を覆して譲位するというのをダメとしてしまっているのも理不尽である。

もちろんそのようなことをわれわれ平民が考えたところでいたしかたもない。せめて民主主義に乗っ取って、一度国民投票で、どっちがいいかを問うてみてはどうだろうか?
 
 
いずれにせよ、天皇という存在の、今後の意味についても、日本人はもっとよく考えてみたほうがいいようである。
つまり「いったい彼を日本人はどうしたいのか?」が問われている。天皇も一個の人間だとするなら、終身在位はどうかとかいろいろ考えていくほうがいい。
 
昭和以後の天皇は「王」ではない。
「おおきみ」でもない。
かといって宗教王でもなく、象徴である。では象徴とはいったいなんなのかであろう。
それはステータスなのか、エンブレムに過ぎないのか?そうではあるまい。
福島でのご慰問など見れば、あきらかに天皇は日本国民の元気のみなもとであろう。それが国威掲揚の道具にならぬようしていかねばならぬ。
 
反面、オリンピック招致活動などのステータスに皇室は大きな存在感ともなったわけである。
 
 
 
王殺しという面から見た場合、そこには天皇を持ち込むのは記紀ではふさわしくない。
けれど皇極以前にはあそれはあった。
そしてまた『日本書紀』が中国の革命是認の歴史観を踏襲しようとしていたかどうかが重要なポイントである。
 
研究者によっては、何も起こらず無事これ名馬だった大和王権に、中国的な政変劇をむりやり押し込めようとした結果、数少ない王殺し記事が挿入されることになったが、そんなものは作り話であって、やっぱり万世一系、順風満帆のまれな王権だったのだとするものも多いのである。
 
筆者的には、それでは日本の歴史はまったく面白くないことになってしまいかねないので困ってしまうねえ。




 
「はじめ大原女は炭を売っていた(『本朝無題詩』)。これは大原の地が炭の産地だったためである。しかし鎌倉時代以降、京近隣の炭名産地は山城国小野里に移った。大原は薪で有名となり、大原女も薪を売り歩くようになった。
その風俗は、島田髷に手拭を被り、薪を頭上に載せ、鉄漿をつけ、紺の筒袖で白はばきを前で合わせ、二本鼻緒の草鞋を履いている。
京都の風物詩として著名で、「東北院職人尽歌合」や「七十一番職人歌合」など中世の職人歌合において記され、狂言・舞踏にも登場する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8E%9F%E5%A5%B3
 
 このことは最後にまわす。
 
 
 
さて、昨夜は旧暦の七夕だった。
『年中恒例記』によると、七月二日に祇園精舎から草花が室町将軍に献じられた記録がある。
将軍に直属の奉公衆は幕府の直接的軍事集団(花郎に同じ奴婢の武装集団)であったが、中でも「五ヶ番」は五番に編成された部隊で、これが花を献じ。それを立阿(りつあ・将軍府で側用をつとめる同朋衆の名、花を立てるので立阿花とも)が花瓶に活け、天皇へ献上されていた。

要するにその花が将軍から直接贈られたことが、立阿が持って行くことでわかるのである。
その立阿はみな、「阿弥号」を称していた。それが生け花をこととするのは、近世に大家となった本阿弥光悦などへ受け継がれた伝統である。「阿弥」とは念仏祭祀する乞食坊主の通称なのだが、仏教に仕えているという意味を持つ。観阿弥・世阿弥も証した。身分の低い陰陽師系花郎とでも言えるか。

細川氏などの大名も七夕には、同じように天皇へ花が贈られている。
『看聞日記』には七夕に「七夕法楽草花」とあり、また「花合 はなあわせ」とも出ている。寺院や関係者から草花を生けた花瓶が贈られ会所に飾られた。法楽というのは神楽や芸能を神仏に奉納する行事である。会所とは武家のサロンである。
 
花合は、来訪した客たちが花を左右に分かれて見せ合い優劣を競う優雅な合戦であり、このときには連歌や酒宴が催された。そして花の品評会もこのとき行われた。
その規模は次第に拡大し、応永24には五、六個だった花瓶が、永享三年には53個となったとある。→仙洞花合

『殿中申次記』によれば細川家や真木島家では仙翁花を献上したとある。
七夕の中心的献花はこれだったようである。
 
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この花の名は鎌倉時代には出てこないから、室町時代に輸入されたのだろう。私貿易の盛んな時代なので嵯峨野仙翁寺などが持ち込んだのだろう。禅僧の日記や漢詩にこの花はたびたび出てくる。
貞成親王の庭には仙翁花が植えられていたという。

草花を竹筒にさす風習もここに記録がある。
のちに利休が好んだ竹の花差しや、花瓶受けなどは、隼人らの編み上げたり、切り取ったりして加工されたものが多い。竹細工も賎民の仕事である。もちろん茶筅を作ったので「茶筅」と呼ばれたのもそうである。竹篭などはみな南方系海人族らの古くからの呪の風習で、カゴメを作ってそれを魔除けにした。セーマンと海女たちが呼んだ五芒星なども竹篭の目の形なのである。
 
将軍義政に送られた仙翁花は大量だったが中に桔梗がまじっていたという。
いずれも五弁の花で、どうやら五弁の花が珍重されている。
 

 
秋の重陽の節句に菊花が献上されたのも室町期であろう。背の高い花が好まれており、菊が今の菊花展のような背の高い、大輪で、添え木でささえられるようになる最初はこの時期である。記録では女房二人が花の高さで喧嘩になり、酒宴をひらいて仲直りさせたともあるほどだ。
 
永禄三年、久我(こが)氏が草花を献上し、その中身はやはり筆頭に仙翁花、続いて桔梗、小車(おぐるま)、がんぴ等とあるので、かなり長い間此花は好まれ、次第に献花も種類を増してゆく。おそらく木地師の作る御所車もそろそろ御では取り入れられたであろう。

また鶏頭も出てくるのは天文年間あたり、その他仏桑花(ぶっそうげ、ムクゲか?ハイビスカスの仲間)の名もある。
 

 
『新撰類聚往来』で美木・草花には曼珠沙華・摩訶沙花・曼荼羅花・摩訶曼荼羅花・勝曼花・仏勝花(ぶっしょうげ)とあって、かなり花の好みも変わってきている。なにがなにやら?
 
医者の半井驢庵(なからいろあん)の庭には数奇屋茶室があり、東西七軒にわたり大量の菊が植わっていて人々が驚嘆したという。
 
植物学はこの時代は本草学(ほんぞうがく)で、それは漢方医薬の知識でもあって、医者などは植物園ほどの花を育てている。

これは天武時代にも京都紫野に薬典があったように、栽培は奴婢の役目であった。あの額田王が手を振る姿を見られないかしらと心配した、その見るかも知れない者とは彼ら奴婢賎民のことであり、下賎の者は口さがないから、噂になると案じたのである。

花を売るといえば大原の花売り女(め)であるが、そもそもは燃料の炭を売ったのが最初で炭焼きが一家の台所をささえきれずに物売りに出る、それが薪に変わり、花に変わっていった。大原もそうした下賎の村落で、隠れ村である。戸隠などもそうだが、山辺の谷間で、ひっそりとした隠者の部落だ。そこで奴婢の娘が都の貴種の目に留まろうと頭に籠をのっけて花と春をひさぐようになったのは戦国~江戸期であろうか。「花を売る」が売春の隠語となるきっかけもこれかも知れない。「花、いらんかえ~~~」
 
 

 
 
珍種の朝顔もこの頃大量に入ってきている。絵巻物『福富草紙』には、朝顔の種をやってきた芸人に飲ませる場面があり、この芸人の芸とは放屁芸だったから、さあたいへん、朝顔の種は強烈な下剤効果がある。それを10粒も飲ませたから、放屁したら・・・座敷はふんまみれになり、芸人は追い出されてしまう。実に趣味の悪い遊びである。
 
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江戸時代、本草学に秀でていたのは医者だけではなかった。いわゆる忍者もそうである。彼らは暗殺も手がけるので毒薬にも、生薬にも詳しかった。つまりこういう学問はみな中国で言う科学なので、技術者にあたる。それらは儒教では底辺に置かれた者の仕事であった。医者もそうである。
 
花にせよ芸能にせよ医術・本草にせよ、すべからく役立つ仕事、優雅な芸術、栽培などもみな最新技術であり、渡来するものであった。ゆえに実学に類するものすべてを引き受けたのは被差別の民だったのである。
 
諏訪神社の神文にもなっている梶の木。
「かじ」は舟の舵にも例えられ、七夕には硯のふたに梶の葉七枚、梶の木皮に素麺を入れ、梶の葉七枚に七夕の和歌を七百首も書き、皮を竹につけて屋根に上げると天の川にいけると信じられた。
 
『後拾遺』に「天の河とわたる舟のかぢのはに思ふことをも書きつくるかな」とある。
これは平安時代の風習である。
 
長野の諏訪神社は、タケミナカタという安曇の海人の舟の民がやってきて祀っている。だから舟の舵に例えて梶の木を神文にしたのではないだろうか?ちなみに諏訪上下社で梶のデザインが違うことも書いておこう。
 

これをイスラエル由来とするおもろ~~~なサイトがあった。
?である。
 
12はシュメールの聖数とかあるようだったが、12は世界的に一年、12ヶ月を差す数字にほかならない。
阿蘇の12神なども季節ごとの神の数でしかない。キリスト教の12使徒も同じくそういう意味の創作。
イスラエルなら10支族だから12は関係ない。
世の中にはいろんな考え方がある。
自由で結構。
 
ナガスネヒコがナーガの神・・・
悪いんだがナガスネヒコは「ナカスネ彦」とにごらないのが正式。
中曽根と同じで海人系縄文地名の「那賀」地名由来である。
 
コメントが来ないことを祈る。
君子あやうきに近寄りたくなかったが・・・。
 
 
 
 
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殺された、あるいは自殺および不明死の「豊」系譜人物たち。

継体大王血族太子天皇・・安閑、(宣化?)
蘇我血族の天皇・・・・・崇峻  
蘇我血族の皇太子・・・・竹田皇子(推古息子)、山背大兄皇子(聖徳太子皇子)
蘇我氏・・・・・・・・・蘇我蝦夷、入鹿

これらは話をすすめる前の資料である。

1まずスサノオの神やらい、ヤマトタケルの死を前提として話の枕とする。
2クマソタケルの死。
3尾張一族。
4葛城氏の滅亡。
5安閑、宣化、崇峻、竹田、山背の死を、尾張・葛城・蘇我系譜(河内王朝と継体系譜)の抹殺と見る。
6蘇我氏の滅亡。
7蘇我石川家の滅亡。
8間に大伴氏の滅亡および尾張氏系日下部氏のルザン。
9出雲大社北側の素鵞神社。
10熱田神宮・神剣・草薙剣の大和朝廷による取り上げ。

藤原政権に落ち着くまで、完膚無きまでの氏族抹消記事が連続している。=王権交代劇
それがつまり熊襲滅亡が表している?
つまり南九州王朝に対する記紀の扱いでもあるか?

安閑息子・豊彦王の蘇我氏の血はどこへ流れるか?

ヒントの山と言える。


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・たたり

古代の「たたり」が一般に思われているような、人知では計り知れない妖魔によって起こされると考えたらいけない。

たたりには必ず背後に現実の人間が行う「行為」を伴っている。
すなわち巫蠱(ふこ)とは人形、カタシロを使って対象を呪うものであるが、その背後には薬物の人知れぬ投与や、直接的な暗殺がある。それを悪霊や神の天罰に見せるだけであるから、文献史学が言うような「祟り」思想は平安時代からブームとなった・・・奈良以前にはなかった。という常識には無関係なのである。祟りがイデオロギー化するのは平安時代以降かもしれないが、祟りとはいまだに呼ばれないでいる行為ならいくらでもあってかまわないことになる。

こうした影の行いを専門とする集団は確かに存在するはずである。
それは想像にまかせるとして、では長屋王や菅原道真以後にさかんに記録されてゆく、落雷などの天変地異は人間の行いで起こせるものかという難題につきあたる。
それは無理だろう。

確かにいくら優秀な僧侶・神官・巫女でも天変地異は祈ったところで起こるはずもない。しかしついこのあいだまで、ひょっとすると今も尚、それを信じているカルトな信仰団体は存在し続けてきた。こうなるともうそれは迷信を越えて宗教にまでなってしまう。

祈っても起こしえぬ長屋王の祟りと言われた落雷や病魔はなにゆえ藤原四家の嫡子たちをいっぺんにまとめて殺し得たか?
そう見せればいい。そう思わせればいい。そう思わせる技術があったのだ。
そうでないなら、記紀のそういう部分は、作者の勝手な想像で書かれたに過ぎないのだ。
具体的には、「いっぺんに」やったのはたまたま起こった雷にあわせて行ったからだろう。

道真左遷のあと、醍醐天皇たちはなぜ「いっぺんに」ではなく順次もだえ死んだか?
それは砒素や水銀を反対派にすこしづつもられたからだろう。
「祟り」は神が起こすものではなく、人の行為であることはいまさら言うまでもない。

もし言霊が、言ってはならぬことを言って害をなすものなら、ほとんどの人類は滅びていなければならず、神が祟りを起こすなら、河川災害、地震災害などで大量死したすべての地域や子どもは、全員、それに該当する悪事を行っていなければならない。そうではないだろう。
人間は弱い。弱いから観念を作り出し、それにすがろうとする。
しかしすべての事象には必ず原因が存在する。
そういう意味で祟りに見せる行為は平安時代以前に確実に存在する。
言い換えると、祟りのもとにされてきた神こそいい迷惑である。
信仰などは神から見れば実に迷惑。むしろ祟られるのは神をないがしろにする迷信を宗教としなければならない人々に下るはずであろう。しかし下らないものには下らない。やはり神から祟りは存在しない。
それは人からの祟りでしかない。
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