田原本町の古墳から 太鼓形埴輪/奈良
田原本町の古墳から 太鼓形埴輪/奈良(奈良テレビ放送) - Yahoo!ニュース
田原本町の古墳から 太鼓形埴輪/奈良(奈良テレビ放送) - Yahoo!ニュース
5/31(火) 9:37配信
田原本町宮古 宮古平塚古墳出土太鼓埴輪
胴部分最大25㎝、打面直径17.5㎝
6世紀前半、古墳時代後期
6世紀前半、古墳時代後期
田原本町教育委員会文化財保存課 技師 渡瀬加奈子氏談
「(太鼓形埴輪が)※これまで見つかっていた古墳といいますのは、大王級ですとか、地方の有力者のお墓、古墳からでした。その中で、今回見つかったのは、本当に、小さな規模の古墳からということで、その中で太鼓形埴輪が出てきた意味というのは、やはり被葬者が何か生前に太鼓に関するような仕事を担っていたのではないかということが考えられるかなと思います。」
この埴輪は、31日から田原本町にある唐古・鍵考古学ミュージアムで公開されます。
※古墳からはこれまで破片出土が3例(今城塚古墳、宮崎県新富町百足塚むかでづか古墳など)あるが、完形出土は初。長野県茅野市尖石遺跡 有孔鍔付土器 太鼓 縄文時代
上部に革を張るための紐通し穴がある。貼った皮はシカか?
今井邦彦 Kunihiko ImaiさんはTwitterを使っています: 「「真の継体天皇陵」とされる大阪府高槻市の今城塚古墳、その影響を大きく受けている宮崎県新富町の百足塚古墳に続き、奈良県田原本町の宮古平塚古墳で太鼓形埴輪が出土しました。なぜ6世紀前半の古墳ばかりなのでしょう。:これが古代の太鼓 リアルな埴輪、完全な形で初出土 https://t.co/AAr3oFP5uA」 / Twitter上部に革を張るための紐通し穴がある。貼った皮はシカか?
今城塚古墳で太鼓形埴輪発見 継体天皇の儀礼で太鼓が重要な役割か:朝日新聞デジタル (asahi.com)
今井邦彦 Kunihiko ImaiさんはTwitterを使っています: 「「真の継体天皇陵」とされる大阪府高槻市の今城塚古墳、その影響を大きく受けている宮崎県新富町の百足塚古墳に続き、奈良県田原本町の宮古平塚古墳で太鼓形埴輪が出土しました。なぜ6世紀前半の古墳ばかりなのでしょう。:これが古代の太鼓 リアルな埴輪、完全な形で初出土 https://t.co/AAr3oFP5uA」 / Twitter
広田遺跡貝輪

諏訪大社祭祀の完全攻略その3 みずち・蛟・龍文の謎を解く 富士眉月弧出産文土器を見よ : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)
「太鼓が初めて文献に登場するのは712年に成立した「古事記」です。
中巻、仲哀天皇の項の「酒楽の歌」に「曾能都豆美 宇須邇多弖々宇多比都々(そのつづみ うすにたててうたいつつ)」とあり、「都豆美」が太鼓と言われています。
*ちなみに「つづみ」という読みは、古くから太鼓のことを「ヅンヅビー」とよんでいたインドから伝わっていた外来語で、古墳時代から日本との交流が活発になった朝鮮半島を経由してその発音が日本に伝わり、万葉仮名をはめて「都豆美」と書き表したものといわれています。その後、飛鳥時代に中国から羯鼓や鉦鼓などの打ち物が「鼓(こ)」として渡来したのにともない、太鼓をさす「都豆美」という文字も次第に「鼓」の文字に置き換えられるようになったとみられます。
同じく古事記の別箇所では、岩戸隠れで天照大御神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」との記述があります。
アメノウズメがうつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り、足を踏みとどろかし、八百万の神々を大笑いさせることで天照大御神を引き出し、再び世界に光を戻した、という話があり、ここでも太鼓ではないが、「槽(うけ 特殊な桶)」が登場し(恐らく皮を張っていない状態の桶)、太鼓の原型として使われていたことが分かります。」
参考サイト
コメント
音楽史的には太鼓は、当初桶などを踏み鳴らすところに始まり、縄文時代は大きなツボに革を張り、立てて手でうち、弥生から古墳時代には肩から下げてバチを持ってたたいており、立って演奏したらしい。つまりそれは祭祀や狩りやあるいは戦闘に使ったということだろう。古墳時代までには太鼓は今の和太鼓のように置くものになってゆくが、古事記にあるように縦に伏せてたたくものと、古墳から出ているような横に置くものとに分かれていったようだ。平安時代のつづみのように、肩に担ぐ小型のものや、やはり伏せたててバチや手でたたくものもあったようだ。
鼓という文字は中国から来た漢字だから、おそらく中国的な太鼓とともに日本に入ってきただろう。するとそれが継体天皇の6世紀には起きたとなって、継体が百済あるいは中国とすでに交流しているとなるか。飛鳥時代以前に漢字や楽器が百済経由だろうが入っていた証拠とみてもいいのではないかと思うがいかがであろうか?
鼓という文字は中国から来た漢字だから、おそらく中国的な太鼓とともに日本に入ってきただろう。するとそれが継体天皇の6世紀には起きたとなって、継体が百済あるいは中国とすでに交流しているとなるか。飛鳥時代以前に漢字や楽器が百済経由だろうが入っていた証拠とみてもいいのではないかと思うがいかがであろうか?









コメント