倭・倭人言及がある中国文献一覧と原文・翻訳サイトへのリンク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』倭・倭人関連の中国文献
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%83%BB%E5%80%AD%E4%BA%BA%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%96%87%E7%8C%AE#本文_5
その他多数サイト資料・原文を編集

●『論衡』1世紀 2.1 本文
☆「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず
☆「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず
☆「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
 周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。


※暢草(ちょうそう)とはウコン。これは琉球など南方で取れるが、倭人は海人だからどこへでもとりにいけるので、どこの倭人かは不明。ちなみに倭人は中国江南海岸部から朝鮮半島海岸部にも往来しており、記録には倭種らしき人々、民族は多い。
日本だけとは限らない。

●『山海経』前4世紀~長期加筆
☆「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經)
 蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。


●『漢書』1世紀後漢章帝時代 4.1 本文
 「地理史」燕地条
☆「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
 然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。

  同・呉地条
☆「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云」
 会稽海外に東鯷人あり、分ちて二十余国と為し、歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。


●『後漢書』 5世紀南朝宋代 5.1 本文 5.1.1 檀石槐伝
 「東夷傳」
☆「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす
☆「冬十月,倭國遣使奉獻。辛酉,新城山泉水大出」(これが中華文献で倭国記事初出記事) 「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う
檀石槐伝[編集]

 ★『後漢書』卷九十 烏桓鮮卑列傳第八十の檀石槐伝に以下の記述がある。
☆「光和元年冬 又寇酒泉 縁邊莫不被毒 種衆日多 田畜射獵不足給食 檀石槐乃自徇行 見烏侯秦水廣從數百里 水停不流 其中有魚 不能得之 聞倭人善網捕 於是東擊倭人國 得千餘家 徙置秦水上 令捕魚以助糧食」


●「魏志倭人伝」=『三国志』「魏志」東夷伝倭人の条 3世紀末西晋時代 6.1 本文
全文原文・和訳・現代語訳http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16255467.html
◆◆おおまかな位置と道程順路と各小国の簡単な紹介
倭人は帶方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳を通ずる所三十國。 郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、たちまち南したちまち東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。

◆對馬國
始めて一海を渡ること千余里、對馬國に至る。その大官を卑狗といい、副を卑奴母離という。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿のこみちの如し。千余戸有り、良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市糴す。
◆一大國
又南に一海を渡ること千余里、名づけて瀚海という。一大國に至る。官をまた卑狗といい、副を卑奴母離という。方三百里ばかり。竹木叢林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、また南北に市糴す。
◆末盧國
又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没してこれを取る。(官がここにはいない?)
◆伊都國
東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支といい、副を泄謨觚・柄渠觚という。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使が往来し、常に駐る所なり。
◆奴國
東南のかた奴國に至ること百里。官をシ馬觚といい、副を卑奴母離という。二萬余戸有り。
◆不彌國
東行して不彌國に至ること百里。官を多模といい、副を卑奴母離という。千余の家有り。
◆投馬國
南のかた投馬國に至る。水行二十日。官を彌彌といい、副を彌彌那利という。五萬余戸ばかり有り。
◆邪馬台國
南、邪馬壹國に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬有り。次を彌馬升といい、次を彌馬獲支といい、次を奴佳デという。七萬余戸ばかり有り。
◆女王国「以北の」その他の国
女王國より以北はその戸数、道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして詳らかにすべからず。次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に都支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に對蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に爲吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。これ女王の境界の尽くる所なり。
◆狗奴国
その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。

郡より女王國に至ること萬二千余里。

 

◆◆詳細な風俗
◆倭の水人
◆黥面文身
男子は大小と無く、皆黥面文身す。古よりこのかた、その使の中國に詣るや、皆自ら大夫と称す。
夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍の害を避く(と聞いているが、それに似た風習だろうか?)。
今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う。文身は亦以て大魚・水禽を厭う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。
◆会稽東冶の東にある
その道里を計るに、当に会稽東治の東にあるべし。
◆装い
その風俗は淫らならず。男子は皆露かいし、木綿(もくめん・もめんとは違う・雑布全般だろう)を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。 婦人は被髪屈かいし、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。
◆産業・軍事・生態系・絹と養蚕
禾稻、紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵、ケンメンを出だす。 その地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲なし。 兵には矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。有無する所、儋耳朱崖と同じ。
◆生活風習・墓・葬送風習・歌舞飲酒・禊ぎ
倭の地は温暖にして、冬、夏生菜を食す。皆徒跣なり。 屋室有り。父母兄弟の臥息処を異にす。朱丹を以てその身体に塗る、中國の粉を用うるごとし。食飲にはヘン豆を用い、手をもて食う。 その死するや棺有れども槨無く、土を封じて冢を作る。始めて死するや、停喪すること十余日なり。時に当たりて肉を食わず。喪主哭泣し、他人就いて歌舞し飲酒す。已に葬るや、家をあげて水中にいたりて澡浴し、以て練沐の如くす。
◆持衰
その行来して海を渡り、中國にいたるには、恒に一人をして頭をくしけらせず、キシツを去らせず、衣服垢汚し、肉を食わせず、婦人を近づけず、喪人(葬儀参列者)の如くせしむ。これを名づけて持衰と爲す。もし行く者吉善なれば、共にその生口、財物を顧し、もし疾病有り、暴害に遭わば便ち之を殺さんと欲す。その持衰謹まずといえばなり。
◆産物・植生
真珠、青玉を出す。その山には丹あり。その木にはダン杼、豫樟、楙、櫪、投、僵、烏号、楓香あり。その竹には篠、カン、桃支。薑、橘、椒、ジョウ荷あるも、以て滋味と爲すを知らず。ジ猴・黒雉あり。
◆祭礼
その俗挙事行来に、云爲する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如く、火タクを観て兆を占う。 その会同・坐起には、父子男女別なし。
◆飲酒・法律・階級・跪拝
人性酒を嗜む。(魏略曰く、四季を知らず。但し、春に耕し秋に収穫することから年を計る)大人の敬する所を見れば、ただ手を摶ち以て跪拝に当つ。その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年。
その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし。その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を没す。尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。
◆大倭・租税・邸閣
租賦を収む、邸閣あり、國國市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。
◆一大率
女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を檢察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の如きあり。王、使を遣わして京都、帯方郡、諸韓國に詣り、および郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書、賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。
◆挨拶
下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲りあるいは跪き、両手は地に拠り、これが恭敬を為す。対応の声を噫(アイ)という、比するに然諾の如し。

 

◆◆時代的背景解説
その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑彌呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、助けて國を治む。王と爲りしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室、楼観、城柵、嚴かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。

 

◆黒歯國など

女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。 また裸國、黒齒國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。

 

◆金印紫綬・銀印青綬・親魏倭王・斑布
景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝獻せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。 その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑彌呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米、次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈(生口とは単なる奴隷というより敵国捕虜のような人々か。斑布とは絹以外の植物先史を織ったもの)を奉り以て到る。汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢獻す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王と爲し、金印紫綬を仮し、装封して帶方の太守に付し假授せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。汝が來使難升米、牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将と爲し、牛利を率善校尉と爲し、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。
◆その他の下賜品・銅鏡百枚
今、絳地交竜錦五匹、絳地スウ粟ケイ十張、絳絳五十匹、紺青五十匹を以て汝が献ずる所の貢直に答う。また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百牧、眞珠、鉛丹各五十斤を賜い、皆装封して難升米、牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。 
 ◆魏使来訪
正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王(女王と書いていない。会ったと書いている)に拜假し、ならびに詔を齎し、金帛、錦ケイ、刀、鏡、采物(倭からもらったものに対して破格)を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。その四年、倭王、また使大夫伊聲耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口、倭錦、絳青ケン、緜衣、帛布、丹、木 、短弓矢(前回献上品より随分立派。錦などは絹であろう)を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拜す。 その六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、 郡に付して假授せしむ。その八年、太守王キ官に到る。
◆狗奴国との臨戦態勢
倭の女王卑彌呼、狗奴國の男王卑彌弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書、黄幢をもたらし、難升米に拜假せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。
◆女王の死と跡継ぎ
卑弥呼以て死す(戦時中の死であろう)。大いに冢(墳ではない)を作る。徑百余歩(145M?)、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。更相誅殺し、当時千余人を殺す。
◆宗女壹與
また卑彌呼の宗女壹與、年十三爲るを立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壹與を告喩す。壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大勾珠二牧、異文雑錦二十匹を貢す。
参考資料 http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16255467.html


●『晋書』 7.1 本文
武帝紀の太康10年(289年)の条
☆「東夷絶遠三十餘國 西南二十餘國來獻」


●『宋書』5~6世紀 8.1 本文
☆「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」(『宋書』倭国伝)


昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。


「詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」
 時の順帝は、上表に応え、詔を以て武を、使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍にして倭王に叙爵し、倭国が宋へ朝貢をし、宋が倭王(武)に対して、百済を除く朝鮮半島及び倭の六国支配を認めており、当時の南朝宋の東夷諸国観が見て取れる。

●『南斉書』 9.1 本文
『南齊書』列傳 第三十九 蠻 東南夷
☆「倭國、在帶方東南大海島中、漢末以來、立女王。土俗已見前史。建元元年、進新除使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓〔慕韓〕六國諸軍事【據南史補】、安東大將軍、倭王武號爲鎮東大將軍。」


●『梁職貢図』6世紀(模本のみ) 10.1 倭国についての記述 10.2 斯羅国(新羅)についての記述
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%B7%E8%B2%A2%E5%9B%B3
絵図である。各国の使者の姿と解説がある。そこに倭国使のことがあり「倭国は南斉の建元(479年〜482年)に、上表した。」と書いてある。倭五王のことであろう。

☆「倭國帯方東南大海中依山島居自帯方循海東乍南乍東對
其北岸歴三十餘國可方餘里倭王所xx在会稽東氣暖地温
出真珠青玉無牛馬虎豹羊鵲 (欠落) 面文身以木綿帖x衣
横幅無縫但結 (欠落)
倭国使03
梁職貢図の倭人

その1は、南京博物院に所蔵されていたもので現在は北京の国家博物館が所蔵しているおり、その2と3はいずれも台北の故宮博物館が所蔵している「南唐顧徳謙摸梁元帝蕃客入朝図」、「唐閣立本会図」とよばれるものですhttp://blog.livedoor.jp/bungchanblog-kodaishi/archives/2489391.html


ff62a286c599372787a048c5baa0de94
2,3異本では倭人は異人種に描かれる

倭国使02


※朝貢国使絵図はほかにも二種ほどあるが、倭人の姿があまりにもかけはなれており信憑性がないものが多い中で「朝貢図」の倭人はまあまあのでき。ほかのは外国人と取り違えたか、蝦夷使者なのかもしれない。蝦夷が単独で中華に朝貢していた記録証拠はないが、中華の考古遺物が南北海道や東北などで出てくる。単独交流拒否もできない。あるいは海人族かとも考えうるが、ひげづらでターバンを巻き、海人風俗である刺青(鯨面文身)がないようだ。


●『梁書』 11.1 本文
東夷諸戒・倭伝
☆「倭者自云太伯之後 俗皆文身 去帶方萬二千餘里 大抵在會稽之東相去絶遠
 「倭は、自ら太伯の後裔だという。その風俗では皆、体に入れ墨する。帯方郡を去ること万二千余里、おおよそ会稽郡の東に在るが、とてつもなく遠く離れている。」


●『北史』7世紀? 12.1 『北史』倭国伝
「漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。」
後漢の光武帝の時(25-57年)、遣使が入朝、大夫を自称する。
「安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國。」
安帝の時(106-125年)、また遣使が朝貢した、これを倭奴国という


●『南史』

『南史』倭国伝
☆「倭國、其先所出及所在、事詳北史。其官有伊支馬、次曰彌馬獲支、次曰奴往鞮。人種禾稻、紵麻、蠶桑織績。有薑、桂、橘、椒、蘇。出・機⊃深遏∪超漫M〝拉ゝ輒昌柿諭∨・㌢膽愼欹÷戞・愴薹・垈坪僉・蕎緲ⅤΑ・祿・稱帖∋・人Ⅳ・⊆傭羲・愨Щ珥磧J・採・ミ儋耳、朱崖同。地氣溫暖、風俗不淫。


倭国、その先祖の出た場所や所在については北史が詳しい。そこの官には伊支馬があり、次を彌馬獲支といい、その次を奴往鞮という。人々は水稲、紵麻の種をまき、養蚕して絹織物を紡ぐ。薑、桂、橘、椒、蘇がある。黒雉、真珠、青玉を産出する。牛の如き獣がおり、名は山鼠、また、この獣(山鼠)を呑み込む大蛇がいる。その蛇皮は堅く、叩き切れない。大蛇の上部に孔があり、開いたり閉じたりして、時には光を放つが、その孔の中を射れば蛇は死ぬ。物産はほぼ儋耳や朱崖と同じ。風土気候は温暖、風俗は淫乱ではない。


男女皆露紒、富貴者以錦繡雜采為帽、似中國胡公頭。食飲用籩豆。其死有棺無槨、封土作家。人性皆嗜酒。俗不知正歳、多壽考、或至八九十、或至百歳。其俗女多男少、貴者至四五妻、賤者猶至兩三妻。婦人不媱妒、無盜竊、少諍訟。若犯法、輕者沒其妻子、重則滅其宗族。


男女は皆、頭に何も被らないが、富貴な者は錦に様々な彩りを縫い付けて帽子とする、中国の胡公頭に似ている。飲食には御膳を用いる。そこの死者には棺はあるが槨はなく、土を封じて塚を作る。人々の性質は皆が酒を嗜む。習俗は正歳(歴)を知らず、多くが長寿で、あるいは八~九十歳、あるいは百歳に届く。そこの風俗は女が多く男は少ないので、高貴な者は四~五人の妻、賎しい者でも二~三人の妻がいる。婦人は嫉妬をせず、窃盗はなく、争訟は少ない。もし法を犯せば、軽い者はその妻子を没収し、重い者はその宗族を滅する。



☆晉安帝時、有倭王讚遣使朝貢。 
 及宋武帝永初二年、詔曰:「倭讚遠誠宜甄、可賜除授。」 
 文帝元嘉二年、讚又遣司馬曹達奉表獻方物。 


 晋の安帝の時(396-418年)、倭王讃がおり、遣使を以て朝貢した。 
 宋の武帝の永初二年(421年)に、詔に曰く「倭の讃、遠来の忠誠を宜しく審査し、除授を賜うべし」。 
 文帝の元嘉二年(425年)、讃がまた司馬曹達を遣わし、奉表して方物を献上した。


☆讚死、弟珍立、遣使貢獻、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王、表求除正。詔除安東將軍、倭國王。
珍又求除正倭洧等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍等號、詔並聽之。 


讃が死に、弟の珍が立つと、遣使を以て貢献し、使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称し、上表して除正を求めた。詔を以て安東将軍、倭国王に除した。 
 珍がまた倭洧ら十三人を、平西、征虜、冠軍、輔国将軍などの号に除正することを求め、詔を以て、これをいずれも聴き届けた。

☆二十年、倭國王濟遣使奉獻、復以為安東將軍、倭國王。 
 二十八年、加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東將軍如故、并除所上二十三人職①。 

元嘉二十年(443年)、倭国王の済が遣使を以て奉献してきたので、また以て安東将軍、倭国王と為す。
元嘉二十八年(451年)、使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東将軍は元の如し、併せて上る所の二十三人の職を叙した①。


注記① 宋書は「二十三人を将軍や郡太守に叙した」とあり、南史は脱字があると思う。

☆ 濟死、世子興遣使貢獻。 
 孝武大明六年、詔授興安東將軍、倭國王。 

 済が死に、世子の興が遣使を以て貢献してきた。 
 孝武帝の大明六年(462年)、詔を以て興に安東将軍、倭国王を拝受させた。

☆興死、弟武立、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。
順帝昇明二年、遣使上表、言「自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉①山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、陵平海北九十五國②。王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。道逕百濟、裝飾船舫、而句麗無道、圖欲見呑。臣亡考濟方欲大舉、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣。今欲練兵申父兄之志、竊自假開府儀同三司、其餘咸各假授、以勸忠節」。
詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。
齊建元中、除武持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。梁武帝即位、進武號征東大將軍。 

興が死に、弟の武が立つと、使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称した。

順帝の昇明二年(478年)、遣使が上表して言う「昔より祖先は、自ら甲冑を身に着け、山河を跋渉し、安らかに暮らす暇なく、東に毛人を征すること五十五カ国、西に衆夷を服すること六十六カ国、陵墓を平らげること海北の九十五国。王道は安泰に調和し、国土を拡げ、京畿を遠く離れ、累代に亘って朝廷を尊び、歳に誤りなし。

道は百済に直行し、船舶を装飾する。而して高句麗は非道にも、併呑を欲して謀る。臣の亡き済は、まさに大挙せんと欲したが、突然に父兄が亡くなり、垂成の功をして一簣も獲れず。今、練兵して父兄の遺志を明らかにせんと欲す。密かに自らを開府儀同三司と仮称したが、その余は皆、各々仮授(して頂ければ)、以て忠節を勧めん」。

詔を以て武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙した。
斉の建元中(479-482年)、除武を持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍に叙した。梁の武帝が即位すると、武の爵号を征東大将軍に進めた。

 注記① 跋渉(ばっしょう)は、山河を上り下りする旅の苦難を表わす形容詞。 
 注記② 宋書では「渡平海北九十五國」とあり、南史の誤植かもしれない。
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/31238277.html


●『隋書』7世紀 14.1 本文 14.1.1 『隋書』東夷傳
「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に、


「男女多黥臂點面文身 没水捕魚」
 男女多く臂(うで・ひじ)に黥(げい)し顔に点し身に文し、水に没して魚を捕る

とある。『魏志倭人伝』記事の焼き直しでなく、608年の隋使裴清(裴世清)の一行の見聞や観察を基礎にしたものであれば、7世紀初頭の倭人社会についての貴重な資料である。また、


「新羅 百濟皆以俀爲大國 多珎物 並敬仰之 恒通使往來」
新羅・百濟は、みな俀を以て大国にして珍(寳)物多しとなし。並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す

とあり、新羅と百済が、共に、大国にして宝物の多い俀を尊敬し、常に使いを通わせていたとの記述と思われる。


「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜 兼沙門數十人來學佛法」
大業三年(607年)其の王多利思北孤,使いを遣わして朝貢す。使者曰く『海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと聞く。故に遣わして朝拝せしめ,兼ねて沙門数十人来りて仏法を学ぶ。』と。

俀の王からの使者が来て、隋を訪問した目的を述べたことが記述されている。ここでは「海西の天子は、重ねて(熱心に)仏法を起こしていると聞いた。そのため沙門(僧侶)を送って仏法を学ぶために来たのだ」と述べている。

海西の菩薩天子とは、海の西の方の天子、すなわち、開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となった煬帝を指している。そして、この一節の直後に有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の記述が続いている。

『隋書』東夷傳[編集]
「九夷所居、與中夏懸隔、然天性柔順」九夷(中国の東に住む諸民族)が居る所は、中華から遠くにあり、(九夷の)天性は柔順である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%83%BB%E5%80%AD%E4%BA%BA%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%96%87%E7%8C%AE#本文_5

※「俀」は「たい」としか読めないが、本文内容は倭人のことでありおそらく「倭」の書き間違えだろう。
※『日本書紀』皇極紀に唐の使者との謁見記事があり、これは隋の使者・裴(世)清であるので隋国使節である。国史読み上げ、ののちに最後に宰相(蘇我馬子)と謁見して終わっている。大山誠一は最後に謁見するということはそれは国王にしかず、すなわち馬子こそが倭王だったと推量。


●『旧唐書』 15.1 本文
☆「倭國者古倭奴國也 去京師一萬四千里 在新羅東南大海中 依山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國 ~ 」

☆「日本國者倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」

※「日本国は倭国の別種」とは、あきらかに三国志『魏書』つまり魏志倭人伝の「女王国の東一海を渡る、また倭種あり」からの引用だろう。つまりこの倭国は「はじめて大和国が朝貢してきた」記録だと言えることになろう。それが不遜で態度も大きく、疑わしいとある。だから大和王権は唐の時代になって初めて中華に朝貢し、認識された国家と言うことがわかるはず。

この一文でも、3世紀後半の邪馬台国が近畿にはないことの証拠になる。筆者は完全に邪馬台国は3世紀前半まで北部九州にあった、としてよいと判断した。大和王権はこのときまで一切中華とはダイレクトな関係を持っていないと判断してよい。『日本書紀』はその北部九州や南部九州や吉備瀬戸内や丹後王権などなどの、過去の個別のダイレクト中華朝貢事績すべてぶんどって、自分の事績に仕立て上げてあることは明白である。つまり『日本書紀』は偽書であると断言できる。


●『新唐書』
「日本という小国を倭が合併し、国号を冒(名のる)」し、日本と改めたと説明したが、疑いを持たれた」
☆「日本は古の倭奴国(わのなこく、あるいはいとこく)である。都長安から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中にある島国である。その国土の広さは歩いて東西は五ヶ月の行程、南北は三ヶ月の行程である。
国都には城郭がなく、材木を並べて木柵とし、草で屋根をふいている。周辺には五十余りの小島があり、それぞれ勝手に国と号し、日本国に臣下として服従している。王は統轄者を一人置いて、諸地方を監督させている。
国王の姓は阿海(あめ)氏、彼が自ら言うには、初代の国王は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、彦瀲(なぎさ)に至るにまですべて三十二代、いずれも「尊(みこと)」と呼ばれ、筑紫城(ちくしじょう)に住んでいた。彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。」

※倭奴国、倭面土国、漢委奴国(金印)などの誤記が諸説を生んだが、すべて倭の奴国であると筆者は考える。つまり誤記である。なぜそうなったかと考えると、のちに大和国が朝貢して、国名が混乱したからである。『新唐書』の混迷振りはそれを如実に物語る。また歴史的にまだ日本が中央集権国家でなかった時代には伊都国も、吉備国も、丹波国もやってきたであろうから、中国ではややこしいので倭国とひとつの呼称を決めざるを得なかった。倭人国家を呼ぶ国名を、便宜的にそうしたのである。しかし最古の朝貢国家は倭国王帥升であり、次が奴国王である。奴国王都であるだろう須玖岡本「女王」遺跡墳丘墓からは伊都国の平原「女王」古墳に匹敵する30数枚(平原40数枚で日本最大出土数、しかも巨大。破鏡状態で出土)の鏡が出ており、女性が埋葬されていたらしき様子が見える。


平原は邪馬台国女王の古墳であり、須玖岡本は臺與の古墳か?弥生墳丘墓や土たん墓も古墳だとするべきである。


●『通典』9世紀初頭
☆「光武中元二年、倭奴国奉貢朝賀。使人自称大夫。倭国之極南界也。安帝永初元年、倭面土国王師升等献生口。桓・霊間倭国大乱、更相攻伐、暦年無主。有一女子名卑弥呼、年長不稼、事鬼道、能以妖惑衆、於是共立為王」
※倭面土国は「わのめんのな国」。奴を「ど」と読み間違え誤記して、奴国は「土国」に変化しうる。面は「わに面したという地域名」か?「やまと」とは絶対に読めない。めんはめんであり「ま」にはならない。「わ」もわであって「や」にはならない。あっているのは「と」だけだ。筑紫は地元では「やま」だった。そこに国王の居場所としての「臺=台」を西晋中華書記が勝手に付け足し権威付けたのが「やまだい」。その頃の近畿に「やまと」地名はなく、筑紫から移動した人々がニューヤマ国として名づけたのだろう。耶麻国。大和は7世紀に唐に朝貢するまで国名もなく、倭でもなかった。倭に権威があったなら、のちに朝廷が渡来人に倭臣の名を与えるはずがない。高野新笠の父が倭を賜るまで、倭氏とは海人族の祖であった椎根津彦の子孫の姓であった。播磨の五色塚、大和の黒塚古墳の主か?海部氏・尾張氏・豊前豊後の海部・日下部氏らの祖。諸説ある。

参考

●『魏書』王沈(おうしん、? - 266年編著)魏志が参考に用いた。

●『魏略』魚豢(ぎょけん)撰。
 佚文(いつぶん 逸文のこと)を利用しているのは以下の通り。
 『漢書』(顔師古付注のみ)
 『翰苑』
 『北戸録』(唐 段公路撰 博物誌、類書)
 『魏志』(主として裴松之付注)
 『法苑珠林』(唐 道世著 仏教典籍、類書)に引用された断片。
清代に張鵬一(ちょうほういつ)が諸書の魏略引用逸文を集めて『魏略輯本』を編集している。
「裴松之(はいしょうし、371年 - 451年)は、宋の文帝の命を受けて426年(元嘉6年)に三国志全巻に対して「注」を付している。これを裴松之注(註とも)、あるいは裴注という。裴注は、陳寿編纂記事が補足、注釈を要すると見た箇所に、同時代資料を引用追加し付注したものである。概ね、典拠を示して「.にいう」と開始したのち、付注部の評価を記載している。時に「臣裴松之が考えるに」として直接注釈している例もある。他に、本文中に端的に付注した例も見られる。」Wiki
●『翰苑』(かんえん)
「唐の張楚金(ちょうそきん)編纂した類書、蕃夷(ばんい)部のみが太宰府天満宮に美麗な断簡(写本の断片)として現存しているが、残る大半部分は失われている。日本に唯一伝存している『翰苑』は9世紀に書写されて以来、千年を越える星霜に耐えた貴重な文化財であるが、文献資料としてみると誤解、誤写、誤字、脱漏が大変多いのに加えて、錯簡があり、しばしば誤読されているので注意が必要である。」『魏略』引用多。

●『史通』(しつう)
 唐の劉知幾(りゅうちき)撰。

●『太平御覧』(たいへいぎょらん)
「太伯之後」
「北宋の太宗の勅を受けて李昉(りほう)等が編纂した類書である。この書が類書の中では最も良書として名高いが、史料引用には、やはり原文を簡略にした箇所や改編した箇所が多くみられる。また、編纂の際の原典からの引用、抜き書き、校閲に、史官があまり関与していないと思われるので、史料としての利用には注意が必要である。
後代編纂の史書『晋書』、『梁書』などが、倭人の出自に関しては一致して「太伯之後」という文言を記している。ただ「旧語を聞くに、自ら太伯(たいはく)の後という」の文言は両書にあって、倭人伝にはない。」


●考古資料 倭人字磚 わじん・じせん
「有倭人 以時盟不」

f64beaf6



74号倭人字磚
 中国安徽省の亳州市は、漢代には譙県といい、魏の曹操はここから出た。北魏、酈道元(470~527)の「水経注」は、濄水と呼ばれる川が流れていて、曹操の父、曹嵩の冢や、祖父、曹騰の碑、曹騰の兄の冢と碑など、曹氏一族の墓所があったことを記している。曹氏の全盛期から300年くらいしか経ていないので、その所在は明確に把握できたようである。曹操の先祖の墓だと推定される。

  1970年代に、この古墳群を発掘調査したところ、元宝坑一号墓と呼ばれる冢から、多数の字磚(文字を書いた磚)などが発見された。


磚 とは型入れして整形した粘土を乾燥し、さらに焼成したレンガで、墓の壁作りなどに使われていた。

「会稽曹君」と記された磚が複数あり、この会稽曹君が墓の主に想定されている。会稽郡の太守をしていたらしいが、曹氏のうちの誰が該当するかは決め手がない。

  建寧三年(170)という霊帝初期の年号を記したものがあり、「倉天乃死」と記したものもある。中平元年(184)に張角が「黄天」を自称し、黄巾をつけた三十六万の兵を率いて反乱したとされているから(後漢書霊帝紀)、「蒼天の死」はこの黄巾の乱と関係がある。謀反に至るまで、宗教団体として勢力をつちかっていたであろうから、それがいつ頃まで遡れるのか。ともかく、陵墓の完成は170年以降ということになるだろう。

  74号字磚と呼ばれるものには「有倭人以時盟不」という文字が刻まれていて、写真を見ると、なにか細いもので引っ掻いたという感じである。すべてがそうではなく、しっかりした書体で書かれたものもある。

背景
「この字磚が作られたとおぼしき170年頃は、「桓霊の間、倭国大乱」と後漢書に記された時期である。霊帝の即位は168年で、大乱は桓帝の時代に始まり、霊帝の時代までまたがっていた。この墓の主は桓帝(147~167)の時代に活躍して、霊帝初期に亡くなったと考えられる 。会稽郡太守が最終的な地位だったのだろうか。

  「盟する」のは倭人と漢の関係ではない。漢に敵対する外国勢力があり、その牽制のためなら可能性があるが、当時そんな状況はない。漢にとって倭の存在はあまりにも微弱で遠い。友好を誓い合うような相手ではないのである。したがって、「盟するかどうか」は敵対する倭人間の関係に言及したものと考えることができる。会稽曹君がこの倭国大乱に関与していたと考えても不都合はなく、おそらく、同時期に、いくつかの勢力から相手を非難する言葉と援助の要請が届いて、対応に苦慮していたのだと思われる。「時を以って」は、この倭国の大乱を会盟に導くのは時間しかないのではないかという、仲介を投げた言葉に受け取れるのである。

  倭人字磚に記された文字は、「(【磚の破損により脱落した部分=楽浪海中に】倭人がいる。時間が解決して、(戦いを止め)会盟するだろうか」という意味になる。

  霊帝時代、曹操の父、曹嵩は接客を担当する大鴻臚だった時期があり、ここからも曹氏と倭人のつながりを想像できる。漢代から倭人と曹氏が接触していたことは、それは曹氏に伝承されていたであろうから、卑弥呼に対する厚遇に結びつきそうである。 」
以上資料http://www.eonet.ne.jp/~temb/9/jisen/jisen.htm

倭人は九州の海人族である。それが三国時代前の中華の混乱の影響で、国内が乱れたことを曹操の先祖は知っていたのである。倭人が呉の目前にあり、同盟すれば呉にとって海上のはどめになることも知っていたわけだ。


画像と当ブログ該当記事(複数)
http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/search?q=%E5%80%AD%E4%BA%BA%E5%AD%97%E7%A3%9A

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村


人気ブログランキング

PVアクセスランキング にほんブログ村