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九州だけでもこれだけありますので。




弥生時代、邪馬台国研究に関わる全国遺跡一覧
紀元前~古墳時代前期まで含む
☆マークは是非行くべき遺跡
※7月2日遺跡を追加

■北海道・東北地方(弥生文化には北の道もあったことを知るために)
北海道 北海道では続縄文時代の遺跡となる。
江別太遺跡(江別市)
☆苫東遺跡群静川遺跡(苫小牧市) 旧石器~アイヌ複合 中国や九州的遺物が出た最重要な遺跡。日本最北端の環濠集落。


青森県
☆砂沢遺跡(弘前市)弥生時代前期の水田遺構https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E6%B2%A2%E9%81%BA%E8%B7%A1
垂柳遺跡(田舎館村)


岩手県
反町遺跡
八反町遺跡


宮城県
沼津遺跡(石巻市)
山王囲遺跡(栗原市)
青木畑遺跡(栗原市)
里浜貝塚(東松島市)


秋田県
脇の沢村瀬野遺跡 縄文的弥生土器
地蔵田遺跡(秋田市)
宇津ノ台遺跡(大仙市)
志藤沢遺跡(男鹿市)
館の上遺跡(三種町)
横長根遺跡(男鹿市)
はりま館遺跡(小坂町)


山形県
百刈田遺跡(南陽市)
向河原遺跡(山形市)


福島県
桜井遺跡(南相馬市)
天神沢遺跡(南相馬市)


■関東地方
茨城県
西平遺跡


栃木県 出流原遺跡


群馬県
有馬条里遺跡
日高遺跡
水沼弥生時代住居跡


埼玉県
円正寺遺跡(さいたま市)
明花向遺跡(さいたま市)
一ツ木遺跡(さいたま市)
大和田本村遺跡(さいたま市)
白幡中学校校庭内遺跡(さいたま市)
井沼方遺跡(さいたま市)
中里前原遺跡(さいたま市)
本村遺跡(さいたま市)
鍛冶谷・新田口遺跡(戸田市)
霞ヶ関遺跡(川越市)
鶴ヶ丘遺跡(川越市)
牛王山遺跡(和光市)
吉ヶ谷遺跡(東松山市)
屋敷裏遺跡(羽生市)
上敷免遺跡(深谷市)
四十坂遺跡(深谷市)
小敷田遺跡(行田市)
池守・池上遺跡(行田市)
神明ヶ谷戸遺跡(美里町)


千葉県
☆大寺山洞穴遺跡 舟葬墓(しゅうそうぼ)群が房総一帯の岩窟に
鹿島前遺跡(我孫子市)
須和田遺跡(市川市)
宮ノ台遺跡(茂原市)
飯郷作遺跡(佐倉市)
高部30号・32号前方後円墳型墳丘墓


東京都
☆弥生二丁目遺跡(文京区) 弥生土器命名の地。
道合遺跡(北区)
土器塚遺跡(目黒区)
宇津木向原遺跡(八王子市)
中田遺跡(八王子市)
久ヶ原遺跡(大田区)
本町田遺跡(町田市) - 縄文から弥生時代の複合遺跡


神奈川県
大塚・歳勝土遺跡(横浜市)
三殿台遺跡(横浜市)
伊屋之免遺跡(川崎市)
緑ヶ丘霊園内遺跡(川崎市)
東高根遺跡(川崎市)
神崎遺跡(綾瀬市)
中里遺跡(小田原市)
矢ノ津坂遺跡(横須賀市)


■中部地方
新潟県
下谷地遺跡(柏崎市)
松影A遺跡(新潟市)
古津八幡遺跡(新潟市)
斐太遺跡(妙高市)


富山県
王塚・千坊山遺跡群


石川県
吉崎・次場遺跡


福井県
糞置(くそおき)遺跡(福井市二上町)「くそ」はスラグ。
遠敷(おにゅう)製鉄遺構(小浜市) 製鉄かんなながし遺構
小羽山墳丘墓


山梨県
身洗沢遺跡(笛吹市)
油田遺跡(南アルプス市)
大師東丹保遺跡(南アルプス市大師)
二本柳遺跡(南アルプス市十日市場)
長田口遺跡(南アルプス市)
金の尾遺跡(甲斐市大下条)
宮ノ前遺跡(韮崎市)


長野県
周防畑B遺跡(佐久市)
後沢遺跡(佐久市)
箱清水遺跡(長野市)
西近津遺跡群(佐久市)


岐阜県
荒尾南遺跡


静岡県
登呂遺跡(静岡市)


愛知県
西上免遺跡(一宮市、それほど大規模な拠点集落ではない。前方後方形墳丘墓、墳丘長約40メートル)
朝日遺跡
貝殻山貝塚


■近畿地方
三重県
隠岡遺跡(伊勢市)


滋賀県
服部遺跡(守山市)
下之郷遺跡(守山市)
☆伊勢遺跡(守山市) 狭い範囲に神殿跡
大岩山古墳群(野洲市)
十里遺跡(栗東市)
大中の湖南遺跡(近江八幡市)
三宅東遺跡
参考になるサイト http://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/22bunpu-y.html


京都府
☆扇谷遺跡(京丹後市)陶塤、菅玉、鉄製品、ガラスの塊、紡錘車
大風呂南遺跡墳丘墓(与謝町)
深草弥生遺跡(京都市伏見区)
宇治市街地遺跡(宇治市) オンドルなど
中臣遺跡


大阪府
☆池上・曽根遺跡(和泉市・泉大津市)
☆東奈良遺跡(茨木市)
池島・福万寺遺跡(東大阪市・八尾市)
瓜生堂遺跡(大阪市)
若江北・美園・山賀遺跡
四ッつ池遺跡(堺市)
泉北ニュータウン陶邑窯跡遺跡
安満遺跡(高槻市)
垂水南(吹田市)
崇禅寺
加美久宝寺
中田遺跡


兵庫県
大中遺跡(播磨町)
沖田遺跡(赤穂市)
☆五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡(淡路市)製鉄跡https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/gossa-iseki.html
田能遺跡(尼崎市、伊丹市)
銅剣鋳型(どうけん・いがた)白銅製釧(はくどうせい・くしろ)碧玉製管玉(へきぎょくせい・くだたま)
尼崎市立田能資料館併設


奈良県
☆唐古・鍵遺跡(田原本町)
纏向遺跡(桜井市) 埋め戻してあるので資料館へ
坪井遺跡(橿原市)
橿原考古研へ
※弥生時代の遺跡は極めて少なく、近畿地方で一致して初期古墳から突然出現するので、弥生遺跡だけではなく、近畿では初期古墳時代の遺跡を見るべし。黒塚、東大寺山などの3~4世紀の古墳が重要。纒向はすべてが埋め戻していくので、見に行っても何もない。一週間もいれば、近畿には初期から後期前半の弥生時代はなかったことに気づくはずである。弥生渡来人が最後に入った場所。そして縄文的遺跡が残る。宿泊は奈良県では明日香村のほうがよい。桜井市では宿泊しないのが常套。


和歌山県
黒田・太田遺跡(和歌山市)
熊本県と同じく、南紀などには縄文土偶が出て、あとは古墳時代に紀ノ川で大古墳。双方ともに狗奴国比定地ということと奇妙に一致してしまう。古墳時代に入ったのはのちの紀氏である。半島南部~九州佐賀~宮崎・大分~吉備で紀州海草郡などに到達した。特徴は大量の埴輪、石だな式横穴石室、武内宿禰伝承と徐副伝説で、これまた肥前肥後・豊宇佐の神武伝説と一致する。


■四国・中国地方
鳥取県
☆青谷上寺地遺跡(鳥取市) 戦争遺跡や投石ゲーム遺跡
常松菅田遺跡(鳥取市) - 縄文~古墳複合
智頭枕田遺跡(智頭町) - 縄文~奈良、平安複合
☆妻木晩田遺跡(大山町・米子市)
福市遺跡(米子市)
青木遺跡(米子市)


島根県
古浦砂丘遺跡(松江市)
☆荒神谷遺跡(出雲市)
☆加茂岩倉遺跡(雲南市)
☆西谷墳墓群(出雲市)
☆田和山(たわやま)遺跡 投石広場での擬似戦争の遺構http://www.city.matsue.shimane.jp/jumin/bunka/bunka/bunkazai/tawayama/index.htmhttp://www.pref.shimane.jp/section/bunkazai/about-shiseki/shiseki03.html


岡山県
津寺遺跡(岡山市)
百間川遺跡(岡山市)
☆楯築遺跡(倉敷市)
門田貝塚(瀬戸内市)
☆鯉喰神社遺跡
足守川加茂遺跡
上東遺跡
矢部南向遺跡

広島県
小丸遺跡(三原市)
松ヶ迫矢谷遺跡(三次市)


山口県
☆土井ヶ浜遺跡(下関市)
豊浦町にいくつかの弥生遺跡(天神遺跡など)


徳島県
矢野遺跡


香川県
☆紫雲出山遺跡(しうでやま、三豊市)


高知県
居徳遺跡 縄文 人肉食遺跡http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16242663.html

愛媛県
宮前川遺跡
祝谷畑中遺跡は愛媛県松山市の北東部に位置しています。祝谷には平形銅剣が発見された祝谷六丁場遺跡をはじめ、弥生時代中期には数多くの遺跡が営まれています。また、祝谷から南へ下った道後城北地区は、弥生時代後期の超巨大集落である文京遺跡や弥生時代前期末の環濠集落である岩崎遺跡など、県内でも有数の弥生遺跡が密集する地域として知られています。http://www.ehime-maibun.or.jp/fukyukeihatsu/Web_koukokan/d_YAYOI/iwaidanihatanaka/em_mus_iwaidanihatanaka.html







■九州地方
福岡県
★伊都国の遺跡
●☆井原鑓溝遺跡
弥生後期。
広くは三雲遺跡に含まれた地域にある。
最大の発見は多くの楽浪系土器である。
楽浪郡は漢朝によって設置され、紀元前108年から西暦313年まで存在した、朝鮮半島北部の郡(植民地との見方も存在する一方で、完全に漢帝国が直轄する内地という見方も存在する朝鮮半島監視地帯である。(これに対して帯方郡は最初、公孫氏が設置している。)

その楽浪系の土器が出るということは、邪馬台国の一大率を倭の監視郡とすれば、ここにも楽浪つまり中国の監視体制を持ち込んだ人々がいたということになろう。また「竟」という鏡の省略文字が刻まれた土器片は有名すぎる。百枚=大量の漢鏡が入れられていた容器であるかも知れない。(中国古典では数量や距離などの表現は大げさに表現されるのが普通で、百枚も何百枚もかも知れないが、しかし九州の鏡はすべてが漢鏡オリジナルで、近畿のは多くがコピー、あるいは呉系の神獣鏡ばかりである。この違いはほぼ決定打であるとしてもおかしくない。魏は北朝ゆえに漢鏡が最高峰であり、神獣鏡のような呪術的絵柄は南朝のものなのである。それをわざわざ魏が卑弥呼のためにだけ取り寄せたということになってしまうのが大和説最大の弱点だ。神獣鏡はサイズも大きく、国産的であり、出土数も500枚を越えているし、それが大和の墓にあった画文帯神獣鏡のようなオリジナル漢鏡であるのなら、今度は少なすぎることになる。しかもそれらの鏡を「まよけにする古い考え方」であった証拠が大和では破鏡がない。これらはすべて南方系の呪術=神仙思想的である。一方、九州の破鏡は北方系呪術が感じられる。そして金メッキされた古墳時代の鏡や日田市の鉄鏡のような、皇帝の下賜品と断定できるものも九州からしか出てこない。これらでももはや決定的証拠だと言えるだろう。)

江戸時代の記録に、巴形銅器、鏡21枚、甕棺から朱があふれたとある(福岡藩学者青柳種信『柳園古器略考』)
三雲南小路被葬者からややあとの弥生終末期の甕棺だろう。臺與の時代である。此の時期どこからもオリジナル漢鏡が減り、ボウセイ鏡だけになる情勢の中で、まだオリジナル鏡を出すことがすごい力を感じさせる。ガラス製のビーズをつないだ首飾りなども多数。ちょっとよそとは規模の違う王である。


☆●三雲南小路遺跡
最大は日本一の中国鏡の発見である。その数なんと53枚分。1・2号甕棺だけでこの数。しかも『漢書』地理史に書かれた紀元前一世紀の鏡ばかりなのだ。ところがすべてが破鏡であった。ほかにガラス壁、金銅製四葉座金具、中国製硯石など絢爛豪華。
魏志以前の前漢時代から伊都国が存在した証拠である。おそらくそのころから、伊都国は倭国の官庁街でありつづけたのだろう。

その最初の王は男王だが、三雲の甕棺には男女がペアで葬られていた。ここは古くから男王・女王というヒコヒメ制があったのかも知れない。とすると井原を含めた三雲一帯が伊都国中心地で、ヒコヒメ性発祥地だったかも知れない。


☆●平原遺跡
弥生後期
いわずと知れた九州説が「古墳」だと言う土壙墓である。しかし方形周溝墓である可能性もあろう。
まさに卑弥呼の時代の墓であり、女性が二人埋葬されていた。
有名すぎる特大内向花紋鏡(破鏡)が6枚も出ている。そのサイズは記紀の三種の神器サイズであり、伊勢神宮のヤタの鏡と同じサイズだ。しかも神宮の見聞録にあるデザインも、同じような八葉内向花文だったとある。


☆●今宿五郎江・大塚遺跡(福岡市)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%AE%BF%E4%BA%94%E9%83%8E%E6%B1%9F%E3%83%BB%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E9%81%BA%E8%B7%A1


★奴国の遺跡
☆●須玖タカウタ遺跡(春日市) 弥生中期紀元前1~ 最古の鋳型工房跡
☆●須玖岡本(すくおかもと・春日市) 巨石の下から甕棺=朝鮮式支石墓の名残か? 
•銅剣 2
•銅矛 4
•銅戈 1
•銅鏡(前漢鏡) 32面以上(方格四星草葉文鏡 1、重圏四星葉文鏡 2、蟠螭(ばんち)鏡 1、星雲文鏡 5面以上、重圏文銘帯鏡 5面以上、内行花文銘帯鏡 13面以上、不明 5面)
•ガラス璧(瑠璃壁) 2個片以上
•ガラス勾玉
•ガラス管玉
•ほとんどが武器で男王とされた。
伊都国の三雲南小路被葬者と同年代の王である。
重要なのは青銅器鋳造所があったことである。
弥生中期~後期初頭の116基以上の甕棺墓群、木棺墓、中期後半の祭祀遺構など、あわせて約300基の墓壙が確認された。また、少し低い西側平坦地で9軒の住居跡が検出され、さらに片磨岩製小銅鐸の鋳型が出土した。 しかし明治期の発見でわからないことが多い。


●須玖永田
集落-掘立柱建物16+溝8+土坑+井戸+住居
銅鏡鋳型(内行花文日光鏡系倭製鏡第II型b類鋳型1)+銅矛(中子数点)+銅製鋤(中子1)+銅滓(銅塊数点)+取瓶+鞴羽口+弥生土器+土師器+陶質土器+木製品


●須玖坂本
青銅器鋳型や坩堝、銅滓など青銅器
 鋳造関係の多数の遺物が発見された。青銅器工房跡と
思われる建物跡も発見された。


●須玖五反田
中期前半の墓地や後期後半の集落跡、ガラス工房
などが確認されている。竪穴住居跡とその周辺から
 ガラス勾玉の鋳型などが発見されている。また、青銅器
 鋳型なども発見されている。

★不弥国?の遺跡
●那珂・比恵那珂遺跡群(なかいせきぐん)
那珂遺跡群(なかいせきぐん)は、福岡平野の中央部、福岡県福岡市博多区にある遺跡群で、那珂川と御笠川に挟まれた洪積台地上に立地する旧石器時代から中世におよぶ複合遺跡である。福岡市指定史跡。丘陵北側には比恵遺跡があり、隣接することから比恵・那珂遺跡群と総称されることもある。
鋳造鉄斧、巴形銅器、現在の糸島市井原で出土したと記録した巴形銅器に酷似しており、奴国と伊都国の関係が示唆・・・Wiki
道路の痕跡が出土した。
古墳時代には撥型前方後円墳に三角縁神獣鏡が。あきらかにもう大和式である。
●立岩遺跡(飯塚市)https://horubai.jp/content/nnp_news/89


☆●板付(いたづけ)遺跡
菜畑に次ぐ水耕耕作跡
日本最初期の環濠集落
板付式土器(表面をたたいてならす)
板付Ⅰ式土器の機種は甕、壺、鉢、高坏からなる。器表面を板で叩いてならす手法を多用している。この特徴は西日本に広まった遠賀川式土器に共通している[1]。


●金隈(かねのくま)
https://yokanavi.com/spot/26807/
●諸岡(もろおか)遺跡
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/sp/cultural_properties/detail/76
●赤井手(あかいで)遺跡
集落・墳墓-住居92+土坑13+甕棺墓29+木棺墓+土壙墓+井戸+溝+古墳(円墳)1 遺物概要銅製鋤先1+中広形銅戈鋳型1+銅矛鋳型2+中広形以上の矛か戈の鋳型1+不明鋳型2+刃縁部鋳型1+中広形銅戈鋳型1+勾玉鋳型

●野方遺跡(福岡市)
福岡県の考古遺物は、
九州国立博物館
福岡市歴史資料館や埋蔵物センター
また各市町村にもそれぞれ資料館や古墳館


★早良国?魏志にはない国。
☆●吉武高木(よしたけたかき=早良王国跡とも)
伊都国と奴国の中間にある。
「吉武高木遺跡は、早良平野を貫流する室見川中流左岸扇状地(吉武遺跡群)に立地する。
  1984年度調査で弥生時代前期末~中期初頭の金海式甕棺墓・木棺墓等11基より銅剣、銅戈、銅矛の武器(11口)、多鈕細文鏡(1面)、玉類多数(464点)が出土した(吉武高木遺跡)。遺跡群内には同様に多数の副葬品を有する前期末~中期後半の甕棺を主体とした墓地(吉武大石遺跡)、中期後半~後期の墳丘墓(吉武樋渡遺跡)がある。またこれらの墓地の周辺には同時期の集落が広がり、吉武高木遺跡の東50mからは12×9.6mの身舎に回廊をめぐらした掘立柱建物も発見され、「高殿」の可能性が指摘されている。
これらは紀元前2世紀以降の北部九州における「国」の成立課程を知る上で重要な位置を占めるものである。
なお、吉武高木遺跡の出土遺物は国指定の重要文化財で、福岡市博物館に展示されている。」http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/17888268.html

●吉武太田遺跡
☆●西新町遺跡(早良区)、
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/17022


その他
☆●城野遺跡(北九州市小倉区)
広大な範囲に朱塗り子供用石棺がたった二基という丁寧な埋葬。
石棺の石に人物の線刻画。
スダレ遺跡(飯塚市) 磨製石剣が刺さった男性遺骨
斯摩国
新町遺跡(志摩町)石鏃が刺さった男性遺骨


佐賀県
★末羅国の遺跡
☆菜畑遺跡(唐津市)日本最古の水耕稲作遺跡。
弥生時代早期初頭(従来の縄文時代晩期末)の水田跡

●千塔山遺跡(基山町)http://www.isekiwalker.com/iseki/170800/
桜馬場遺跡(唐津市)http://inoues.net/club/sakurababa.html


☆●吉野ヶ里遺跡(吉野ヶ里町)なぜか魏志が書かなかった九州最大の遺跡。筑後川中流、三潴郡、神崎郡にまたがる遺跡。!~3前。


佐賀県の遺跡マップhttp://www.pref.saga.lg.jp/kiji0031880/index.html


長崎県
★一大(支)国の遺跡
☆原の辻遺跡(壱岐市)
里田原遺跡(平戸市)
富の原遺跡(大村市)
寄神貝塚
☆カラカミ遺跡(壱岐市)
車出遺跡(壱岐市)


熊本県
方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡http://inoues.net/club6/kumamoto_katouda.html
BGMにご注意!かなりうるさい。
斉藤山遺跡
うてな遺跡
あさぎり市に免田土器出土地及び人吉市に才園古墳あり。古墳時代に分類されているが工房跡として八の坪遺跡もはずせない。
熊本県は弥生遺跡が大変少ない、九州では珍しい県である。
しかし縄文、古墳時代の遺跡はめっぽう多くなるのが特徴。
http://www.isekiwalker.com/pref/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C/


大分県
安国寺集落遺跡(国東市)
大分市歴史資料館
亀塚古墳館
宇佐市風土記の丘歴史博物館
大分県・大分市・日田市などに埋蔵物センター


宮崎県
檍(あおき)遺跡
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/3936
宮崎市歴史資料館
高千穂町資料館
宮崎県埋蔵物センター


鹿児島県
☆広田遺跡(南種子町) 貝の道中継点

※データベースはWiki弥生時代の遺跡一覧、そこにかなり追加しております。
邪馬台国に関与しておらずとも、その時代の流れを知るためのすべての遺跡を網羅してあります。


■沖縄県
仲原遺跡(うるま市)
仲泊遺跡(恩納村)
木綿原遺跡(読谷村)




■その余の某国
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡

「女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次都支国有り。次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。次に奴國有り。ここは女王の境界尽きる所。」

女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至

「女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有りて、皆、倭種。又、侏儒国有りて、その南に在り。人長は三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸国、黒歯国有りて、復、その東南に在り。船行一年にして至るべし。」


投馬国 とうま? 文字面からはまるで神話のスサノオの天のふち駒投げ入れを思わせる地名。宮崎県都萬神社?は西都市南部。かつての「こゆ」郡にある。ならば呼邑国?
いずれにせよ、九州の不弥国を出ると次が投馬国だが、その間が開きすぎている。
斯馬国 井と志摩半島の西半分が「しま」である。伊勢志摩説もある。
巳百支国 ? なんと読むの?
伊邪国 ? 何が「いや」なのかさっぱり。
都支国 「つき」は月あるいは調地名である。
弥奴国 「みな」「みと」?
好古都国 中国漢音では「はかた」が近いが?
不呼国  ?
姐奴国  ?
対蘇国  ?
蘇奴国  そな?
呼邑国  こぱ?こゆ?
華奴蘇奴国 埼玉県児玉町の金讃神社という説と、佐賀県神埼郡で別れる。「かなさな」は製鉄の「さなき 鉄鐸 鉄製の鐸=かね」であり、「かんざき」は全国の聖地的場所にはどこでもある地名で、決定力がない。
鬼国  紀伊か?しかし紀伊地名は古墳前期に紀氏(木)が入ってついた紀伊熊野を指す。
為吾国  ? 以後気をつけて探します。
鬼奴国  きな?「きな」は東部九州では「黄色」である。「ほれ、信号がきなに変ったぞ。停車じゃろう」と使うんだが?? 「きのくに」?とすれば紀伊が何度も書かれたことになる。紀州に紀氏の国が何カ国もがあったとなる?しかし佐賀にも基肄郡がある。紀氏の古さと広範囲な居住を言っているのかも?実際紀氏はそういう氏族である。海の民なのだ。
では「かも」はなぜない?
邪馬国 「やま」は北部九州全域の古称という説あり 山門郡は山の入り口。安本美典は山門郡こそが邪馬台国で、東遷して大和になったとする。音韻学はしかし門と戸、都などの音韻が違うから大和と山門郡は別だとした。ところがその音韻とは弥生時代ではなく奈良後世の渡来人書記官による造音ゆえに、弥生時代の日本語とは無関係であると。すると安本の地名の一致説はがぜん重要さを持つことになる。やまと=山門でしょう。山門郡の弥生遺跡。「筑後山門は、福岡県山門郡瀬高町(現在のみやま市)を中心に、柳川市、大牟田市、筑後市に八女市の一部(立花町)も含まれたと思われ、肥後山門を併せると、七万戸を収容する能力がありそうだ。下の写真の中央に卑弥呼の墓と思われる権現塚古墳が見える。」という妄想も見える。https://makoto-kodama.amebaownd.com/posts/346203
福岡県南部の有明海側一帯である。熊本と宮崎の境目にも上益城郡山都町があるが、おとなりの城南町に今東原遺跡、塚原古墳群、徐福渡来地伝承がある。今は熊本市南区の属するが昔は山都か?
福岡県山門郡https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%96%80%E9%83%A1
福岡県山門郡は往古は、邪馬台国九州説の人気ナンバーワンだった。その後の発掘がなく、今は順位も下がっている。瀬高町には七支刀人形の荒野の宮。女山朝鮮式山城(こうごいし)など。
熊本の山都は往古は山門地域か?松橋(まつばせ)インターを降りるとそのあたりが山都である。通潤橋で有名。高千穂に抜ける中継地。馬見原交差点から高千穂へ向かうとあやしき遺跡が山ほどあるぜ。

躬臣国 なんと読むのやら?
巴利国 はり?パリ?播磨?
支惟国 紀伊?
烏奴国 うな?ちょうど?
奴國  なぜ奴国が二度も書かれたのか?ぐるりと回って戻ってしまったのか?狗奴国とはどう違うのか?などなど意味不明。ほとんどの地名が今はないものばかりでわかろうはずもない。空想の地名か?
吉野ヶ里のある三田とか三潴、神埼などが出てこない。丹後、若狭、越、讃岐、吉備、山口県のむかつくなどの有力国家であったはずの地名もなし。



魏志は倭国は草木が茂っていて、とても歩けないと記録しており、内陸をゆくならば、いちいち藪こぎしながら歩かねばならないわけで、これでは何日もかかったことだろう。しかも間には何本もの大きな河川もある。「水行」が必ずしも海とは限らないだろう。川を下って河口部から陸伝いに目的地の最寄の津までいき、さらにまた内陸を歩いていたら一月などあっという間に違いない。しかも当時は熊もオオカミもいたこともお忘れなく。昼間しか進めない。陸行一月は、今の旅なら一日の距離程度である。往古の陸行は、一日でたった一里も進めなかったと思うべきだろう。一度筑豊から歩いてみるといい。宮崎まで今のよい街道でどれほどかかるか?山もいくつもあるぜよ。であるなら、魏志の言う邪馬台国の付属国家は、けっこう近い距離に集まっていたとなりはしまいか?その状況は3世紀近畿の大和盆地だって大差なかろう。西の半分が大阪湾が入り込み、生駒山の麓から斑鳩あたりまでは海だった縄文時代なら、かなり簡単に大和へ入れる。その後干上がっていくと、大和川が現れたはず。だから最初の大和の遺跡は全部東側にあって、傾斜地や高台にしかなかったわけだ。そう、山の辺から纒向までがぎりぎりで、箸墓から西は湿地帯。だから墓場にしかならないのである。纏向遺跡は西に向かう傾斜地である。
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