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●パルティアン・ショット
「パルティア(漢語で安息(アスカ)国。のちにササン朝ペルシア)は遊牧民が政権中核を構成した国家であり、弓と馬の扱いに秀でていた。そのため軍隊の主力にも軽装騎兵を採用しており、機動力を生かした戦いを得意としていた。軽装騎兵は槍や剣ではなく弓で武装し、一定の距離を保ち矢を放って敵を苦しめた。
●パルティアン・ショット
「パルティア(漢語で安息(アスカ)国。のちにササン朝ペルシア)は遊牧民が政権中核を構成した国家であり、弓と馬の扱いに秀でていた。そのため軍隊の主力にも軽装騎兵を採用しており、機動力を生かした戦いを得意としていた。軽装騎兵は槍や剣ではなく弓で武装し、一定の距離を保ち矢を放って敵を苦しめた。
こうした軽装騎兵を効果的に活用するためパルティアは接近した白兵戦につながる会戦をできるだけ避け、戦闘になっても会戦で決着をつけようとはせずにすぐに退却した。退却するパルティア軍は追撃する敵に逃げながら矢を放ち、その損害に敵が浮き足立ったり高速移動に敵の戦列が対応できずに戦闘隊形が乱れると、取って返して再び攻撃した。
こうした戦法は特にパルティア独自のものではなく、スキタイ、匈奴、モンゴル帝国といった遊牧国家の戦争に共通したものであるが、ヨーロッパに古典文明を伝えたローマ帝国が本格的に対峙した遊牧民勢力がパルティアだったため、ヨーロッパ人にとって遊牧民の戦法は、パルティア的なものとして記憶されるようになった。 このようなパルティアの戦い方から逃げながら馬上から振り返りざまに打つ矢のことを「パルティアンショット」と呼び、現代では転じて「捨てぜりふ」の意味になった。こうした馬上の弓術は、パルティアの後継政権であるサーサーン朝の帝王の狩猟図像などに記録されているものを、今日でも見ることができる。」
●最古の騎射派生地はウクライナ地方のスキタイから
「スキタイ(Scythae, Skythai, 希: Σκύθαι)は紀元前8世紀~紀元前3世紀にかけて、ウクライナを中心に活動していた遊牧騎馬民族および遊牧国家。スキュタイ、スキュティア人、スキティア人ともいい、その土地をスキュティア、スキティアと呼ぶ。「スキタイ」は古代ギリシア人によってこの地域の諸部族をまとめて指す際に使われた呼称でもあり、スキタイが滅んだ後も遊牧騎馬民族の代名詞として「スキタイ」の名は使われ続けた。」
「スキタイ(Scythae, Skythai, 希: Σκύθαι)は紀元前8世紀~紀元前3世紀にかけて、ウクライナを中心に活動していた遊牧騎馬民族および遊牧国家。スキュタイ、スキュティア人、スキティア人ともいい、その土地をスキュティア、スキティアと呼ぶ。「スキタイ」は古代ギリシア人によってこの地域の諸部族をまとめて指す際に使われた呼称でもあり、スキタイが滅んだ後も遊牧騎馬民族の代名詞として「スキタイ」の名は使われ続けた。」
パルティアン・ショット
アッシリアの騎馬レリーフ
●騎射
「騎射は世界史的にはスキタイ文化(紀元前8世紀~紀元前3世紀)の初期から存在し、この疾走する馬上から矢を射るという特異性から古代ギリシア人はケンタウロスを想像したと考えられている。」
「騎射は世界史的にはスキタイ文化(紀元前8世紀~紀元前3世紀)の初期から存在し、この疾走する馬上から矢を射るという特異性から古代ギリシア人はケンタウロスを想像したと考えられている。」
(中略)
「日本において馬が登場するのは4世紀以降であり、考古学的には6世紀の古墳から挂甲、直刀、鏃、馬具が一括して出土するようになる。文献においては『日本書紀』の雄略天皇記で騎射の記述がある。雄略天皇が即位する前(456年)、有力な皇位継承候補だった市辺押磐皇子を狩猟に誘い、天皇が「弓を彎き(ひきまかな)ひ馬を驟せ(はせ)」偽って皇子を射殺したという。これが日本での騎射の初見であると思われる[1]。雄略天皇は5世紀の人物であるので、騎兵の成立時期にすでに騎射の技術があったことを示している。」
「騎射(きしゃ)は、
紀元前8世紀頃にスキタイ人により始められる。騎馬遊牧民の彼らは牧草を求め常に移動しながら生活、また屢々馬に跨がり他民族と闘っていたが、彼らのこういった生活文化の中で自然的必要性から騎射は開発・発展して来たものと考えられる。騎射はすぐに中央アジアの遊牧民の間に波及し、フン人、アヴァール人、マジャル人など同様の騎馬遊牧民に次々と取り入れられ、後に[[モンゴル人]にも及び、古代世界に普及して行った。
紀元前8世紀頃にスキタイ人により始められる。騎馬遊牧民の彼らは牧草を求め常に移動しながら生活、また屢々馬に跨がり他民族と闘っていたが、彼らのこういった生活文化の中で自然的必要性から騎射は開発・発展して来たものと考えられる。騎射はすぐに中央アジアの遊牧民の間に波及し、フン人、アヴァール人、マジャル人など同様の騎馬遊牧民に次々と取り入れられ、後に[[モンゴル人]にも及び、古代世界に普及して行った。
●騎射三物
「騎射三物(きしゃみつもの)とは馬上の弓術、犬追物・笠懸・流鏑馬を総称して言ったもの。元々は武者が騎乗から敵を射抜くための稽古法で、それぞれ平安時代〜鎌倉時代に成立する。武士の中でも騎乗が許されるのは一部の武士のみということもあり、馬上の弓術『騎射』は武芸の中でも最高位のものとされ、中世の武士達は武芸練達のために様々な稽古をした。」
「騎射三物(きしゃみつもの)とは馬上の弓術、犬追物・笠懸・流鏑馬を総称して言ったもの。元々は武者が騎乗から敵を射抜くための稽古法で、それぞれ平安時代〜鎌倉時代に成立する。武士の中でも騎乗が許されるのは一部の武士のみということもあり、馬上の弓術『騎射』は武芸の中でも最高位のものとされ、中世の武士達は武芸練達のために様々な稽古をした。」
△犬追物 いぬおうもの
△笠懸 かさがけ
△流鏑馬 やぶさめ
△笠懸 かさがけ
△流鏑馬 やぶさめ
流鏑馬
●弓馬兵
「移動中の馬上に於ける弓射は両手を必要とするため、騎手は高度な馬術スキルを要求され、またそれに対応する馬の訓練もしなければならないため、必然的に弓騎兵は馬術に優れ鞍や鐙などのより進んだ馬具を持つ遊牧民によって構成された。スキタイ人、サルマタイ人、フン族、マジャール人、トルコ人、モンゴル人の弓騎兵が有名で、これらの部族との戦いで大きい損害を受けていた漢民族、ローマ人なども弓騎兵の編制及び雇い入れを行っていた。趙の武霊王の胡服騎射(騎馬民族風の服を着て、騎射を行う)は有名である。
「移動中の馬上に於ける弓射は両手を必要とするため、騎手は高度な馬術スキルを要求され、またそれに対応する馬の訓練もしなければならないため、必然的に弓騎兵は馬術に優れ鞍や鐙などのより進んだ馬具を持つ遊牧民によって構成された。スキタイ人、サルマタイ人、フン族、マジャール人、トルコ人、モンゴル人の弓騎兵が有名で、これらの部族との戦いで大きい損害を受けていた漢民族、ローマ人なども弓騎兵の編制及び雇い入れを行っていた。趙の武霊王の胡服騎射(騎馬民族風の服を着て、騎射を行う)は有名である。
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※日本の武道用の馬は遺伝子追跡では、朝鮮半島から輸入した中型馬が起源である。それ以前の日本原産種は皆小型馬ゆえに騎馬には不向きであった。半島から中型馬騎乗術とともにそれまでに東アジアのステップロードを伝来していた弓馬術(西欧が言うパルティアン・ショットなど)も到来したと考えてほぼ間違いあるまい。
(日本原種の小型馬(トカラ馬・日向馬など)は生物移動学的な南方経由、中型馬(アラブ種?)はその後の戦略的な北方輸入である。大型馬(サラブ種)は軍馬・競馬用で明治以降の輸入。)
また日本の地形状、日本で騎馬戦がやりやすかったのはまずは蝦夷の騎馬が有名だった東北地方、やがて水田よりも畑に適していた関東の台地に農耕用役馬が入った。これが関東武士団にとって至便であったために、坂東武者といえば騎馬軍団が定着。戦国時代までにそれまで古代から高句麗系などの馬牧を持っていた諏訪や阿蘇の「生贄用」の馬育成技術も役馬や騎馬戦用に変化したかと思える。諏訪の馬牧技術はやがて隣国の甲斐武田氏によって簒奪され、武田騎馬軍団の噂となった。しかし実際に武田騎馬郡がそれほど多くの馬を使った騎馬軍団を持っていたかどうかは、実は不明である。絵画では確かにそのような描かれ方をしてはいるが、実際に織田信長と対戦した長篠の現場には馬遺骨の痕跡がなく、同時に織田鉄砲隊が放ったはずの鉄砲弾丸の痕跡も少ない。どうやら日本人は源平以降の軍記物の講談話をあまりにも信じ込まされてきたのではないかと最新考古学は警鐘を鳴らしている按配である。
(もっとも馬遺体は食用に、弾丸は再生用に、それぞれ再利用されたために痕跡がないのではないかと筆者などは考えるものである。)
(もっとも馬遺体は食用に、弾丸は再生用に、それぞれ再利用されたために痕跡がないのではないかと筆者などは考えるものである。)
◆スキタイ・突厥の馬術は朝鮮経由で飛鳥末期の天武朝日本へ
アスカはパルティアから?
参考になるサイト
●流鏑馬の歴史的派生の信頼できるもの
大日本弓馬会」武田流弓馬道
「三韓は大和朝廷に臣事、入貢の礼をとることになりますが・・・中略
アスカはパルティアから?
参考になるサイト
●流鏑馬の歴史的派生の信頼できるもの
大日本弓馬会」武田流弓馬道
「三韓は大和朝廷に臣事、入貢の礼をとることになりますが・・・中略
こうした我が国の内乱状態(蘇我・物部宗教戦争)を知った新羅国(辰韓)は好期到来とばかりに兵を挙げ、まず高麗国に侵攻しこれを従え、その余勢をかり百済国に攻め入り、平城、漢城を占領するという擧にでたのです。このため百済、任那国は大和朝廷に援軍要請の書を送りましたが、肝心の国内が紛争中であったために僅かに九州の兵の一部や、寄せ集めの兵を派遣するのが精一杯の状態でした。その結果、壊滅的な敗北を喫したのです。そのような結果に心を痛めた天皇は、かつて三韓平定に苦心された神功皇后、応神天皇の二柱神を豊前国宇佐の地(現在の宇佐八幡宮所在地)に祀り、天下泰平、五穀豊穣を祈願すると共に、その神前に於いて馬上から三韓に准えて三個の的を射さしめたのが『流鏑馬神事』の起源となったと伝えられています。
奈良時代以前に見られる歴代天皇の中で流鏑馬神事に力を入れられたと思われるのは、冒頭に記した『日本書紀』による天武天皇で、長柄社に於ける「馬的射」であり、また、奈良時代に入ってからの流鏑馬は中々盛んに行われたようで、流鏑馬神事が全国に広がったものと思われます。
さらに、信濃国諏訪大社に関する古代からの伝説、祭事などを記述した『諏訪大明神絵詞』(群書類従本)などの随所に流鏑馬に就いての記述が見られます。延暦二十年(801年)の坂上田村麻呂を征夷大将軍とした東夷征伐軍に参加した信濃諏訪神領の官兵が、奥州の地で流鏑馬の妙技を披露し、邪賊退治のために全軍の士気を鼓舞したという話などを伝えています。」
●またこのサイトはややぶっとんだ歴史観で面白い。
「パルティアン・ショットとは、紀元前に中東を支配した強国「パルティア大国」の兵士が得意とした射撃。これは、似ているのでは無く、遠い昔黒海のアタリにいた遊牧民族から、日本が受け継いだ馬術です。大雑把にいうと、、パルティアは、漢民族からは「安息」とよばれ、アスカとよびます。また、この地域にいた遊牧民族を「スキタイ人」とか「サカ人」といいます。」
ただし飛鳥・明日香地名のパルティア(安息=アスカ)由来説は一読の価値ありか?
「パルティアン・ショットとは、紀元前に中東を支配した強国「パルティア大国」の兵士が得意とした射撃。これは、似ているのでは無く、遠い昔黒海のアタリにいた遊牧民族から、日本が受け継いだ馬術です。大雑把にいうと、、パルティアは、漢民族からは「安息」とよばれ、アスカとよびます。また、この地域にいた遊牧民族を「スキタイ人」とか「サカ人」といいます。」
ただし飛鳥・明日香地名のパルティア(安息=アスカ)由来説は一読の価値ありか?







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