京都ディープ5 五条松原道祖神社、双体道祖神とは何か?
京都に道祖神は多い。
有名なのは神社になっていて、下京区には二箇所ある。
ひとつは京都駅すぐ西の塩小路堀川角にある道祖神社、もうひとつは松原通りにある松原道祖神社。
松原道祖神社
松原道祖神社
地図
京都駅前道祖神社
道祖神社にはいずれも猿田彦とアメノウズメが祭られている。
なぜこの二人なのかご存知だろうか?
日本神話で猿田彦命は天孫降臨のナビゲータとして登場する。そしてアメノウズメは彼の妻になった女神。二人は夫婦神である。アメノウズメは伊勢の猿田彦神社で猿女君(さるめのきみ)氏の祖として祭られている。
猿田彦は多くの古い祭で、みこし行列の先導者として常に先頭を歩く神である。アメノウズメはアマテラスがスサノオのしうちに怒って岩戸に籠もったときに、ストリップ・ダンスを踊って誘い出した女神。
この夫婦神以前で、神話が大きく扱うのはイザナギ・イザナミ夫婦だけである。いや、あるいはアマテラスとスサノオも、ある意味姉弟夫婦。イザナギ・イザナミも兄弟なのでいずれも近親相姦夫婦なのである。しかし猿田彦とアメノウズメは他人夫婦。それで旅の道しるべとなる庚申さま=道祖神にはこの二人が選ばれた。
長野県に多い双体道祖神が京都駅前道祖神社にもある。
なぜ夫婦神が道しるべに置かれるのか?
京都は平安京になって碁盤目のようになってしまうが、かつては十字路ではなく、そこはおそらく八十衢(やちまた)、つまり三叉路や丁字路(ていじろ=T字路)や複数交差点である。それが区画整理されたから、道祖神のように平安京以前からあっただろう位置がおかしなところになってしまう。しかし往古はまず分かれ道の神様だったのである。
三叉路が一番分かりやすかろう。道が二つに分かれている。ふたりで旅していたら、どっちかわからない場合、二手に分かれて進む場所。つまり別離の聖地が三叉路だ。
さらに三叉路には、木の股や河川合流と同じ出産、地獄極楽への入り口という意味があった。これは記紀以前からあったものだ。世界的にそうなのだ。
三叉路は人生の分かれ目にもたとえられ、そこにはヒトのあらゆる思いが集中する。いわば詩人がよく題材にする駅や郵便局などのように、あらゆる土地からヒトが来て、あらゆる方向へ去ってゆく、生死が同居するのが分かれ道なのだ。
そこに庚申様がおかれたのは、ナビゲータだったからで、その後それが夫婦になったのは、別れたくない思い、ともに別れず同じ道を歩みたいという願いからだろう。
松原道祖神社もきっと平安京以前には、そこは十字路ではなく三叉路だったのでなかろうか?京都駅前の道祖神はT字路にあるが。
松原通は実はもとは五条通。今の五条通はのちにできた。その証拠は松原橋から清水坂があって、そのまま清水寺へ通じていたからだ。清水は古くは水の聖地だったが、坂上田村麻呂が東北蝦夷の霊魂を祭ったために、水=誕生、鎮魂=死という、庚申様と同じ表裏一体、彼岸とかがんの同居するアジールであり、しかも山を越えれば東国へ通ずる異界への入り口だった。それで松原界隈にそれらの施設は作られる。
地形もある。晴明で考察したように、五条鴨川は河川が二手に分かれて、中洲があった場所だった。出会いと別れは鴨川にもあった。だから五条には六波羅、愛宕神社、異界の入り口という「あわい」の土地になっていったのだ。そのために松原は産婆と堕胎医者がこれまた生死が同居する土地でもあり、さらには異界のヒトであった河原者たちが巣食う六原でもあったわけである。
京都駅前道祖神は、筆者には懐かしい道である。七条大宮にあった大学の文学部から、となりの西本願寺へ抜けて掘り川通りへ出て、歩いて京都駅まで、途中の資生堂や向こうに見える種のタキイの看板絵を見ながら、二階にひっそりあった喫茶POOでココアを飲んだり、京都駅前ビルで買い物したり、彼女のウインドーショッピングにつきあったり・・・。今考えてみれば、塩小路堀川のT字路も、人生の出会いの場所だったのだろう。そこに隠れるようにあった道祖神に導かれ、無意識に二人も夫婦となった・・・。そして別れ・・・。
道祖神社、ぜひ、京都へ行ったときはどちらかへ寄ってみて欲しい。特に松原は安倍晴明ゆかりの土地である。宮川町にあった法城寺と晴明塚跡へゆかれればなおよかろう。前回書き忘れたが、五条大橋中島法城寺に晴明は最初葬られたと記録にはちゃんとある。そこが本当の墓所である。そして六波羅蜜寺、空也寺、建仁寺などなど、生と死、異界の入り口であったことを堪能していただきたい。特にこれからともに暮らそうと思う若い二人におすすめする。猿田彦とアメノウズメのように夫唱婦随、仲良く過ごせることを・・・。
ただし・・・
道祖神は陰陽道や密教では、裏側に後戸の神・摩多羅神がいる。それは猛悪大明神のマハー・カーラ=大黒天なので別れはつきもの・・・いひひひ。
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五条天神・天使突抜(てんしつきぬけ)
五条天神社


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京都ディープ6 五条天神社と天使突抜地名 小さい神さまと宝船 舟に稲穂とは
夏の京都、祇園さんの時期になった。
祇園祭は17日に始まるが、山笠巡行ばかりが祇園祭ではなく、24日まで延々つづく夏越し(なごし)の祭り(神幸祭・還幸祭など、17日・24日夜にみこしが練り歩く)である。巡行以外にも、さまざまのイベントが各路地裏で繰り広げられている。地蔵盆もあれば、イベントもありで、最後に八坂神社での神輿巡行や祓いがあってやっと終わる。だから暑いからとすぐに帰ってしまうのはほんまの祇園祭通とは言えまへんでえ。
さて、五条の話題が続いている。前は道祖神、今度は天神である。
五条天神・天使突抜(てんしつきぬけ)
五条天神社
京都府京都市下京区松原通西洞院西入天神前351
「当初は「天使の宮」「天使社」と称し、時代に「五條天神宮」へ改称された。の五條は、当社北側にあるがかつてと呼ばれていたことに由来する。なお、社号の天神ととは直接の関連はないが、境内社として筑紫天満宮があり、道真が祀られている。」Wiki
天神と書いて「てんじん」とは読まず「てんしん」である。「天子」ではまずいので「天使」と表記した。いわゆるてんじんさん=菅原道真はここの祭神ではない。
五条天神社(宮)の神は出雲の少彦名神、つまり小さ子神である。「スクナヒコナ=天子 てんし」が京都なまりで「てんしん」となる。近くの地名に天使突抜(てんしつきぬけ)がある。
五条天神社(宮)の神は出雲の少彦名神、つまり小さ子神である。「スクナヒコナ=天子 てんし」が京都なまりで「てんしん」となる。近くの地名に天使突抜(てんしつきぬけ)がある。
天使突抜 - Wikipedia
由来は秀吉が京都を整備したときに、すでにここにあった広大だった五条てんしさんの境内を道が突き抜けて作られた。そのことを京男らが皮肉ってつけられた地名が「天使突抜 てんしつきぬけ」である。
由来は秀吉が京都を整備したときに、すでにここにあった広大だった五条てんしさんの境内を道が突き抜けて作られた。そのことを京男らが皮肉ってつけられた地名が「天使突抜 てんしつきぬけ」である。
スクナヒコナの神は、別名粟島さんで、酒と薬の神さま。だからよく仏教のお薬師さんと習合する。酒でオオクニヌシのやまいを治した。
小さな体で、粟の葉のお舟にのって出雲に顕れ、オオクニヌシを援けて、またどこかへ去っていった神・・・。粟島神社に祭られるのは、粟の舟でやってきて、去っていった来訪神だったから。その粟のような穀物類を現す漢字が「禾 のぎ」だ。
で、前回の記事に考古学で、中国と日本の佐賀県で出ている禾のマークがついた舟を紹介しておいた。
中国の舟は実は死者を乗せた「もがり舟」であり、そのまま埋葬されたもの。佐賀県の甕棺も埋葬されたひつぎであるから、両者はともにもがりの道具である。ところが五条天神社では、祭のときに宝船の絵が配られるのだが、そこにはやはりもがり舟が描かれている。
五条天神社 日本最古の宝舩(たからぶね)デザイン うつぼ舟に稲穂
いったい、これのどこが宝船なのかと思う単純な絵である。
そこにはわれわれが知っている七福神は乗っていない。しかし、なぜか稲穂が一束、乗っかっている。なんじゃ?これは・・・。
それを説明するために前回、考古学記事を前もって掲載したのである。
この宝舟は、もがりの舟であると言う為に。
そしてもがり舟とはのちに「うつぼ舟」と呼ばれ、神話では世界的に(西洋のダビデすらが)その舟は、中が空洞なひさごなどでできていて、間違って生まれた神や王の子が、赤子のうちにそれに乗せられ流された舟なのである。
日本のヒルコも、スクナヒコナも、あるいは天孫降臨も、そういううつぼの舟で流された異常出産児とか双子のうちの片割れとか、えびすさまとか、ひょうたんから出てきた朝鮮の王様とか、あるいはまたダビデとか、はたまた平安時代に流行った補堕落渡海の信仰での舟と一緒の死生観で同時に天子誕生譚、国家成立神話になってきた。
簡単に言えば生と死が、往古は同じだったという証である。その印が稲穂=穀物の実りなのである。だからそれは神の生死であり、同時に宝舟という祭のマークにもなった。つまりあの十字になった鳥の足のようなマークは「稲魂」で、稲が新しい命の再生を約束するのである。
五条天神は東京都の台東区あたりにもあるが、そういう「小さ子」信仰を持ち続けた人々が、出雲系=敗者、渡来の人々だったことはわかるだろう。台東区あたりの隅田川沿線も江戸時代には川向こうの異界であり、江戸ではない場所であり、敗者や職人や渡来系のものたちが押し込められた土地柄だった。彼らはそもそもは江戸にいた先住民が多かった。江戸城とお江戸を作るために追い出され、川向こうの異界に押し出されるのは、新興国でのオリンピックでも同じである。ソウルも北京も東京も、かつては多くの浮浪者や風習や屋台文化などが郊外へ追い出された。
小さ子とはそういうものの代表である。
ということはスクナヒコナもそうなのだ。
ヒルコ・恵比須であり天子なのである。
キリスト教の天使も子供の姿をしている。無関係ではない。聖なるものは異形であった。それは子供だったり、あるいは八幡神のように老人だった。この世のものではないモノとは、現実世界で普段金を稼ぐ不浄の現実的生活をしていないもの=穢れていない=女・子供・老人の姿をして「うつせにあれる」のである。「あれる」とは賀茂神社や宗像神社で言うところの「みあれ」である。「御顕れ」。
「現れる」ことが「あれ」で、神が現れることを「顕現」という。これが「あれ」である。そして神や王の子が生まれるのも「新しい誕生」で「新=あらた」で、荒れると同じ意味。いわゆる日本神話で「あらたま」というのは「新魂」と書くが、実は「荒魂」でもある。そうするとスサノオが荒ぶる神だった理由も見当がつくと言うもの。ヒトの赤ちゃんだって生まれたらわめいて泣いて、大暴れして生まれてくる。すったもんだ、あがいて、かあさんのお腹に戻ろうとするのである。
ということはね、スサノヲやギルガメシュ神などが大きくなっても子供のように泣き喚いてむずがる荒神にされた理由も見えてくるはず。それはのちに偉大な神や王になるものの条件、通過儀礼なのである。言葉をしゃべらなかったホムチワケとか、母神功皇后の胎内からなかなか出なかったホンタワケ=応神天皇とかいうのも同じこと。聖なる偉大なものはむずがる、荒れるのである。そしてそれが同時に異形の人々の王だという意味なのだ。
五条天神には中世のお話で、やはり小さな男の話がある。身長33センチほどの「一寸法師」のような男が、都に「あれて」、ええとこの姫様を射止めるという御伽噺である。きっと一寸法師の原型だろう。それが成功する。恋愛成就する。実は小男は五条天神そのヒトだったんだという御話である。御伽草子ではなく伝承である。
また『福富草紙』という本には、ここに祈祷や預言するものがいて、福富という男は魔法を教わり、妙なる音色の「屁」が出せる業を体得。それで帝に喜ばれ出世。ところがそれを聞いた隣の男が、真似をしたくて福富に業を聞きに行くが、うそっぱちを教わって天子様の前で大失敗をやらかし、蹴られ、殴られたあげく血まみれで家に帰るという話しである。彼は放屁ではなく、あさがおの種(下剤)を呑めといわれて、・・・をぶりぶりぶりぶり、天皇の御前にまきちらかしてしまったのだ。
これなども御伽草子の前身だといえようか?
そして五条には陰陽師のようなものがいたということになろうか。
五条天神の神は小さな男であるが、結婚相手は松原道祖神だったとも言い交わされてきたという。道祖神は夫婦神のはずなのに、それでは不倫?(^^:
「福富草子」お喜びで妙なる音の放屁をして大うけの福富
異形の小男が都に出て行く話しや一寸法師には、義経の大事な守護神だった弁慶の出世譚と似たところがある。弁慶も生まれたときなかなか胎内から出ない子供で、生まれるとばかでっかく異形で、しかも頭脳明晰。それを気色悪いと思った父親が、赤ん坊の弁慶を川に流してしまおうとする。しかし母親がそれをとめ、おばもとめたために命拾い。寺に入り修行するが、やがて武具を集めることに執着して都へ向い、喰う十九本目を求めて五条大橋の上で源義経と出会うのである。このふたりにはどことなく同性愛的な恋心すらありそうな按配である。つまり結局は五条天神の導きであることを匂わせてあるのである。
さあ、祇園祭。
松原通では
山鉾町の中で最東端にして最南端に位置するのが保昌(ほうしょう)山(下京区東洞院松原上ル)。隣接する山鉾町はない。
ちゃんと山鉾が出ます。
下京では珍しいのでぜひどうぞ。
ちなみに夏越の茅の輪の正しいくぐり方。
八坂神社は七月一杯大祓神事で茅の輪が設置してあるので正しく回ってください。
それから京都の人は、祇園さんの期間でもキュウリ食べはりますよ。あれは神職さんだけみたいでっせ。ハモより祇園は四条通りの路地にあるうなぎがうまいで。
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都江堰の構造図


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葛野大堰のあった位置とその構造
定説では葛野大堰のあった場所は桂川の渡月橋の東側沿岸だろうとされている。
しかし筆者は最近、近所の大分川に作られている堰を歩いてみた。
上流部分に段差堰があり、これで水流を弱め、川の真ん中の埋め立てた大きな洲によって水を二つに分け、手前の支流へ弱めた水をいざなう。そこに取水口を設けて土手下にある農地に水路で水を送り込んでいた。
この構造は、河川の流れに逆らわない構造で、引き込んだ支流は写真手前で本流に戻るようになっている。これが葛野大堰の構造と同じだっただろうと思われる。
中国の都江堰も葛野大堰も堤は島状に造られ、水流は下流へと抜けるようになっている。
川の流れは湾どになった曲がりといわれる地形で、堰は外へふくらむところに設けられるのが常道である。そのほうが水をいざないやすい。曲がりの水流は外へいくほどに遅い(ただし重い) ので、遠心力で外の陸地へ出ようとする力が働く。それがやがて蛇行を大きくしていくと三日月湖になる。そういう川が外にふくらんだ地形に堰は作られた。もうすると水の遠心力が緩和されるので東側陸地への氾濫も押さえられる。
ただ、水路遺跡が月読神社の前の河川敷で見つかっていて、大堰が一箇所ではなかったと考えられる。嵐山側農地へも水路は延びていたのである。大堰は川の両岸にあったのではないかと思う。
東側の太秦地区へは小川がいくつも残されており、そっち側だけを考えてしまいがちだが、嵐山山麓の松尾地区にもかつては水路が引かれていたのだろう。
こちらがわには南に乙訓郡があり、大原野から長岡京へつながる土地になる。
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『日本書紀』推古紀
603年11月 秦造河勝に命じ蜂岡寺(太秦寺、広隆寺)を造る 皇太子が天皇に願って大楯と靭(ゆき)を作り、旗幟をえがく。
『広隆寺縁起』承和五年(838)十二月十五日
謹んで日本書紀をかんがみて云はく推古天皇十一年(603)冬 十一月巳亥朔(十二月十二日新月)、皇太子上宮王、諸太夫に謂りて曰く「我尊き仏像有てり、誰かこの像を得て、将に以て恭敬はん」と。秦造河勝進みて曰く「臣之を拝みまつらん」便ち仏像を受く。因りて以て蜂岡寺を造るてへり。(ただし建立は推古即位壬午歳=推古30年。聖徳太子のおんために造立)
ただし本の旧寺家の地は、九条河原里で狭かったので、五条荒蒔里に移転。その後現在の太秦に移転する。
『承和縁起』
九条河原里と荒見社里にまたがった場所にあったものが五条荒蒔里に移った。
九条河原里は今で言えば九条河原町だろうが、京都の町並みは大きく変化しているから、だいたい九条河原あたりとなる。当時の地名は紀伊郡東九条村河原里である。九条河原町交差点、中糺(なかただす)町あたりか?北野には油小路通りで北へ(アガル)すぐだ。
五条荒蒔里(あらまきのさと)は現城北街道に沿う南北溝西側かと?天神川沿いか?西京極、山陰道沿いだろう。北上すればすぐ花園だから、その西が今の太秦広隆寺である。いずれも周山街道沿いである。福井の小浜に一本で出られる。つまり日本海直結街道だ。
すると北野平野神社に移転するとなると、周山街道から東へ離れてしまうことになる。すると五条荒蒔からは西大路で向かうことになる。これらは現在の通りの名で、当時は何通りだったかは知らぬ。道があったかどうかもわからぬ。
北野廃寺が今の北野白梅町北野天満宮そばの平野社境内にあったのは発掘が語ることだが、記録にはないし、北野は北野であって太秦ではない。では嵯峨野(旧葛野=かづの、かどの。秦氏本拠地)に当たるのか?
嵯峨野とは、太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広い地域の名(Wiki嵯峨野)で、北野白梅町・花園はかろうじて嵯峨野の東の起点にある。立命館大学衣笠学舎のある旧衣笠村は葛野郡だったので、北野もそうだろう。ならばここに広隆寺の前身があってもおかしくはない。軒丸瓦などに太秦広隆寺との類似点もある。
本来、京都葛野郡は、そのすべてが秦氏が開発しているのだし、山背国のほとんどが秦氏の所領だったとしてもおかしくない。そこに賀茂氏や壱岐氏や出雲氏、中臣氏などが入っただけである。花道で有名な六角さんが油小路にあったし、そこもそもそもは河勝屋敷だったとか、京都御所も河勝の邸だった説が著名だ。全部が秦氏、秦公氏の所領だったのだろう。
しかし五条や九条ともなるとはてさて?紀伊郡であったのなら紀氏がいただろうが、紀氏は伏見の深草や宇治小倉に遺跡があるので、早くから秦氏と交わった可能性は否めない。伏見稲荷には深草・稲荷の秦氏が、おそらく葛野とは別系統だろうが住まっていた。
秦氏はいつも申すように、新羅系(伽耶系)渡来人の総称で、それぞれ氏族には地名をつけて言うべき氏族である。深草・稲荷の秦氏は祖人・大津父に見るように伊勢水銀で繁栄した商業氏族、葛野や松尾の秦氏は為政者、豊前の秦氏は鉱物採集などの工人部民氏族だ。それ以外に平安京以降に京都建設で繁栄した秦中氏や秦下氏もある。それらがそれぞれ別の氏族と血縁を結んで、そのすべても秦氏に入るから大氏族である。血縁でない上下関係でも同族になっている。
広隆寺は葛野秦氏の祖である象徴的人格の河勝が造ると伝わるが、広隆寺縁起にあるように、それはあくまでも『日本書紀』推古紀に沿って作られた伝説であり、河勝が実在したかどうか定かではない。推古時代は、聖徳太子も河勝も、そもそも推古天皇ですら、創作でないとは言えない。蘇我氏の事件だって怪しめばいくらでも怪しめてしまう時代である。ただ、広隆寺は別名が秦公寺で、秦公は実在した「はたのきみ」豪族一家であろう。それが河勝を祖人としての太秦伝承、太子伝説であることも間違いなかろう。かろうじて河勝は粗神ではないのは、渡来氏族だったから対外的に遠慮、あるいは大王家に気遣っての伝承だろう。氏族内部では河勝は、阿蘇氏の建磐龍命に匹敵する存在である。それは駿河の大生部多を懲らしめて、その仏教教祖・神的なところを見せていることでもわかるだろう。河勝は伝説上の始祖なのである。それ以前の弓月君とか融通王などは、秦始皇帝とつなぐための完全な創作系図だ。
広隆寺の本尊は最初は新羅的なマニアックな弥勒菩薩像だったのが、やがて日本の仏教をかんがみてか薬師如来に切り替わった。ところがここにはなぜか不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう)が同居している。天台宗系では、真言宗系の准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。また准胝観音と不空羂索観音を共に数えて七観音とする場合もある。 するとこれは天台の秘仏である。しかし弥勒菩薩は弥勒信仰には、上生信仰とともに、下生信仰も存在し、中国においては、こちらの信仰の方が流行したのだから、本来インド、大陸における大乗の
兜率天(とそつてん、梵: तुषित Tuṣita)で、仏教の世界観における天界の一つであり、三界のうちの欲界における六欲天の第4の天であった神であり日本では新羅系の、それも中国に出自を求めた秦氏的な未来神。薬師如来は一応密教の医療神ではあるものの、真言宗ではあまり重視されないで、日本ではむしろ出雲の少彦名の顕現したという習合神。どうも仏像にあまり一貫性がない。しかも秦氏の本系帳や松尾大社由来では、彼らは筑紫の宗像の三女神のひとつを神としている。いずれも仏像は国家が仏教を取り入れての信仰、松尾の女神は『日本書紀』の原始神道の神を(アマテラスとして?)取り込んでの表面的、経済活動的な信仰だろう。宗像の交易船力によってのつながりからだろう。
宗像氏が皇室で力を持つのは、河勝よりもずっとあとの、天武・持統時代だけであるから、飛鳥時代の秦氏とはいささか時代が違う。百歩譲っても、松尾秦氏が大社を造る時代にしても平安遷都以後である。そのときは藤原氏と婚姻関係を結ぶぼだから、なぜ中臣・藤原の春日神ではないのかも不思議ではある。あえて古い宗像との渡来当時からの関係を重んじたのは、松尾建立の天武を遡らぬことを言っている気がする。
宗像の沖ノ島信仰にアマテラスが加わるのは、やはり天武時代であり、持統時代が頂点である。それは『日本書紀』がアマテラスを持統女帝のために持ち出して来た・・・つまり藤原不比等の策謀と国家統一事業のたまものであり、それ以前は宗像ではスサノオの娘であった三女神が中心。それが持統つまりアマテラス信仰に昇華したのであろう。
福岡で宗像の古墳を探すと、やはり宗像徳善の宮地嶽古墳が特大で豪華で、追随を許さぬ存在である。ほかはさしたる繁栄の痕跡は見つからない。けた違いなのだ。そして徳善以降、宗像氏からは実力ある人物名が消えている。それなのに松尾秦氏は宗像女神を祭り続けた。はて?
思えば宗像三女神は、豊前の宇佐八幡でも祭られている。比売神という名前の漠然とした女神だが、国史はこれを宗像の女神、市杵島比売であるとしてあり、大元山に祭られている。スサノヲとともにである。スサノヲは渡来。それも新羅の神だから、宗像も渡来なのである。宇佐も待つ主渡来神で新羅神だ。筑紫ではそれを呉から機織を教えに来た比売などとも造る。で、必ず神功皇后がからむ。応神天皇もだ。「くれはから来た女神」なので呉国との縁が渡来や日本は非常に重要だったらしい。呉は秦の後継だったからだろうか?そして呉王は顔に刺青を入れる海南の白水郎の風習を真似ていた。
渡来人がこうした海の民を大切にしたのは、もちろん彼らの舟と案内なしには渡来できなかったからに違いない。松尾大社の背後に広がる庭園は、たくさんの巨石を配置した、おそらく海の風景になっている。あれは一族の荒波を越えてやってきた来歴を表すのだろう。「はた」には「波」の意味もある。朝鮮語の「ぱた」が日本では「わた」で、海神は綿津見である。和田の原の「わだ」も海や波だろう。神戸が和田岬を持つのもそのためだ。
宗像も胸形で、海人特有の鯨面していたからだ。おそらく卑弥呼の使者も彼らではないか?
壱岐島の勝間や、対馬の豆酢にいる海士が、ツクヨミを信奉する影の部族であることは、秦氏が影の存在だったことと共通する。だから松尾にも壱岐氏の所領には月読神社があり、太子や神功皇后の伝承がある。太子は秦氏そのものなので、八角円堂が広隆寺にもある。夢殿も秦氏のアイデアだろう。スサノオではなく娘の女神であるのも、秦氏がそもそも渡来と日本の混血で存続したからだろう。その女神は同族だった山背の鴨氏の丹塗り矢伝承の女神に等しい。
広隆寺がなぜ二転三転、移転したのかを考えてみたら、いろんなことが見えてくるのである。


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広隆寺の謎 1
久しぶりに歴史、京都を扱う。
広隆寺と秦氏と本尊の変遷
資料 広隆寺縁起、『日本書紀』、広隆寺来由記、承和縁起、秦氏本系帳逸文、上宮聖徳法王帝説など
『日本書紀』推古紀
603年11月 秦造河勝に命じ蜂岡寺(太秦寺、広隆寺)を造る 皇太子が天皇に願って大楯と靭(ゆき)を作り、旗幟をえがく。
『広隆寺縁起』承和五年(838)十二月十五日
謹んで日本書紀をかんがみて云はく推古天皇十一年(603)冬 十一月巳亥朔(十二月十二日新月)、皇太子上宮王、諸太夫に謂りて曰く「我尊き仏像有てり、誰かこの像を得て、将に以て恭敬はん」と。秦造河勝進みて曰く「臣之を拝みまつらん」便ち仏像を受く。因りて以て蜂岡寺を造るてへり。(ただし建立は推古即位壬午歳=推古30年。聖徳太子のおんために造立)
ただし本の旧寺家の地は、九条河原里で狭かったので、五条荒蒔里に移転。その後現在の太秦に移転する。
『承和縁起』
九条河原里と荒見社里にまたがった場所にあったものが五条荒蒔里に移った。
現代解釈
広隆寺は、7世紀前半に今の京都市北区平野神社付近に創建され(後述のように北野廃寺跡に比定されている)、平安遷都前後に現在地に移転したという説が有力である。創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰とともに聖徳太子信仰を中心とする寺院となった。現在の広隆寺の本堂に当たる上宮王院の本尊は聖徳太子像である。『上宮聖徳法王帝説』は蜂岡寺(広隆寺)を「太子建立七大寺」の一として挙げている。 Wiki広隆寺
広隆寺は、7世紀前半に今の京都市北区平野神社付近に創建され(後述のように北野廃寺跡に比定されている)、平安遷都前後に現在地に移転したという説が有力である。創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰とともに聖徳太子信仰を中心とする寺院となった。現在の広隆寺の本堂に当たる上宮王院の本尊は聖徳太子像である。『上宮聖徳法王帝説』は蜂岡寺(広隆寺)を「太子建立七大寺」の一として挙げている。 Wiki広隆寺
まとめると、
記録では最初九条河原町→五条荒蒔里→太秦である。
考古学では、北野平野社境内(北野廃寺跡)に創建→太秦移転である。
記録では最初九条河原町→五条荒蒔里→太秦である。
考古学では、北野平野社境内(北野廃寺跡)に創建→太秦移転である。
まったく異なっている。創建が北野だったと考古学は言うのだ。
果たしてそれでいいのか?
九条河原里は今で言えば九条河原町だろうが、京都の町並みは大きく変化しているから、だいたい九条河原あたりとなる。当時の地名は紀伊郡東九条村河原里である。九条河原町交差点、中糺(なかただす)町あたりか?北野には油小路通りで北へ(アガル)すぐだ。
五条荒蒔里(あらまきのさと)は現城北街道に沿う南北溝西側かと?天神川沿いか?西京極、山陰道沿いだろう。北上すればすぐ花園だから、その西が今の太秦広隆寺である。いずれも周山街道沿いである。福井の小浜に一本で出られる。つまり日本海直結街道だ。
すると北野平野神社に移転するとなると、周山街道から東へ離れてしまうことになる。すると五条荒蒔からは西大路で向かうことになる。これらは現在の通りの名で、当時は何通りだったかは知らぬ。道があったかどうかもわからぬ。
北野廃寺が今の北野白梅町北野天満宮そばの平野社境内にあったのは発掘が語ることだが、記録にはないし、北野は北野であって太秦ではない。では嵯峨野(旧葛野=かづの、かどの。秦氏本拠地)に当たるのか?
嵯峨野とは、太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広い地域の名(Wiki嵯峨野)で、北野白梅町・花園はかろうじて嵯峨野の東の起点にある。立命館大学衣笠学舎のある旧衣笠村は葛野郡だったので、北野もそうだろう。ならばここに広隆寺の前身があってもおかしくはない。軒丸瓦などに太秦広隆寺との類似点もある。
本来、京都葛野郡は、そのすべてが秦氏が開発しているのだし、山背国のほとんどが秦氏の所領だったとしてもおかしくない。そこに賀茂氏や壱岐氏や出雲氏、中臣氏などが入っただけである。花道で有名な六角さんが油小路にあったし、そこもそもそもは河勝屋敷だったとか、京都御所も河勝の邸だった説が著名だ。全部が秦氏、秦公氏の所領だったのだろう。
しかし五条や九条ともなるとはてさて?紀伊郡であったのなら紀氏がいただろうが、紀氏は伏見の深草や宇治小倉に遺跡があるので、早くから秦氏と交わった可能性は否めない。伏見稲荷には深草・稲荷の秦氏が、おそらく葛野とは別系統だろうが住まっていた。
秦氏はいつも申すように、新羅系(伽耶系)渡来人の総称で、それぞれ氏族には地名をつけて言うべき氏族である。深草・稲荷の秦氏は祖人・大津父に見るように伊勢水銀で繁栄した商業氏族、葛野や松尾の秦氏は為政者、豊前の秦氏は鉱物採集などの工人部民氏族だ。それ以外に平安京以降に京都建設で繁栄した秦中氏や秦下氏もある。それらがそれぞれ別の氏族と血縁を結んで、そのすべても秦氏に入るから大氏族である。血縁でない上下関係でも同族になっている。
広隆寺は葛野秦氏の祖である象徴的人格の河勝が造ると伝わるが、広隆寺縁起にあるように、それはあくまでも『日本書紀』推古紀に沿って作られた伝説であり、河勝が実在したかどうか定かではない。推古時代は、聖徳太子も河勝も、そもそも推古天皇ですら、創作でないとは言えない。蘇我氏の事件だって怪しめばいくらでも怪しめてしまう時代である。ただ、広隆寺は別名が秦公寺で、秦公は実在した「はたのきみ」豪族一家であろう。それが河勝を祖人としての太秦伝承、太子伝説であることも間違いなかろう。かろうじて河勝は粗神ではないのは、渡来氏族だったから対外的に遠慮、あるいは大王家に気遣っての伝承だろう。氏族内部では河勝は、阿蘇氏の建磐龍命に匹敵する存在である。それは駿河の大生部多を懲らしめて、その仏教教祖・神的なところを見せていることでもわかるだろう。河勝は伝説上の始祖なのである。それ以前の弓月君とか融通王などは、秦始皇帝とつなぐための完全な創作系図だ。
広隆寺の本尊は最初は新羅的なマニアックな弥勒菩薩像だったのが、やがて日本の仏教をかんがみてか薬師如来に切り替わった。ところがここにはなぜか不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう)が同居している。天台宗系では、真言宗系の准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。また准胝観音と不空羂索観音を共に数えて七観音とする場合もある。 するとこれは天台の秘仏である。しかし弥勒菩薩は弥勒信仰には、上生信仰とともに、下生信仰も存在し、中国においては、こちらの信仰の方が流行したのだから、本来インド、大陸における大乗の
兜率天(とそつてん、梵: तुषित Tuṣita)で、仏教の世界観における天界の一つであり、三界のうちの欲界における六欲天の第4の天であった神であり日本では新羅系の、それも中国に出自を求めた秦氏的な未来神。薬師如来は一応密教の医療神ではあるものの、真言宗ではあまり重視されないで、日本ではむしろ出雲の少彦名の顕現したという習合神。どうも仏像にあまり一貫性がない。しかも秦氏の本系帳や松尾大社由来では、彼らは筑紫の宗像の三女神のひとつを神としている。いずれも仏像は国家が仏教を取り入れての信仰、松尾の女神は『日本書紀』の原始神道の神を(アマテラスとして?)取り込んでの表面的、経済活動的な信仰だろう。宗像の交易船力によってのつながりからだろう。
宗像氏が皇室で力を持つのは、河勝よりもずっとあとの、天武・持統時代だけであるから、飛鳥時代の秦氏とはいささか時代が違う。百歩譲っても、松尾秦氏が大社を造る時代にしても平安遷都以後である。そのときは藤原氏と婚姻関係を結ぶぼだから、なぜ中臣・藤原の春日神ではないのかも不思議ではある。あえて古い宗像との渡来当時からの関係を重んじたのは、松尾建立の天武を遡らぬことを言っている気がする。
宗像の沖ノ島信仰にアマテラスが加わるのは、やはり天武時代であり、持統時代が頂点である。それは『日本書紀』がアマテラスを持統女帝のために持ち出して来た・・・つまり藤原不比等の策謀と国家統一事業のたまものであり、それ以前は宗像ではスサノオの娘であった三女神が中心。それが持統つまりアマテラス信仰に昇華したのであろう。
福岡で宗像の古墳を探すと、やはり宗像徳善の宮地嶽古墳が特大で豪華で、追随を許さぬ存在である。ほかはさしたる繁栄の痕跡は見つからない。けた違いなのだ。そして徳善以降、宗像氏からは実力ある人物名が消えている。それなのに松尾秦氏は宗像女神を祭り続けた。はて?
思えば宗像三女神は、豊前の宇佐八幡でも祭られている。比売神という名前の漠然とした女神だが、国史はこれを宗像の女神、市杵島比売であるとしてあり、大元山に祭られている。スサノヲとともにである。スサノヲは渡来。それも新羅の神だから、宗像も渡来なのである。宇佐も待つ主渡来神で新羅神だ。筑紫ではそれを呉から機織を教えに来た比売などとも造る。で、必ず神功皇后がからむ。応神天皇もだ。「くれはから来た女神」なので呉国との縁が渡来や日本は非常に重要だったらしい。呉は秦の後継だったからだろうか?そして呉王は顔に刺青を入れる海南の白水郎の風習を真似ていた。
渡来人がこうした海の民を大切にしたのは、もちろん彼らの舟と案内なしには渡来できなかったからに違いない。松尾大社の背後に広がる庭園は、たくさんの巨石を配置した、おそらく海の風景になっている。あれは一族の荒波を越えてやってきた来歴を表すのだろう。「はた」には「波」の意味もある。朝鮮語の「ぱた」が日本では「わた」で、海神は綿津見である。和田の原の「わだ」も海や波だろう。神戸が和田岬を持つのもそのためだ。
宗像も胸形で、海人特有の鯨面していたからだ。おそらく卑弥呼の使者も彼らではないか?
壱岐島の勝間や、対馬の豆酢にいる海士が、ツクヨミを信奉する影の部族であることは、秦氏が影の存在だったことと共通する。だから松尾にも壱岐氏の所領には月読神社があり、太子や神功皇后の伝承がある。太子は秦氏そのものなので、八角円堂が広隆寺にもある。夢殿も秦氏のアイデアだろう。スサノオではなく娘の女神であるのも、秦氏がそもそも渡来と日本の混血で存続したからだろう。その女神は同族だった山背の鴨氏の丹塗り矢伝承の女神に等しい。
広隆寺がなぜ二転三転、移転したのかを考えてみたら、いろんなことが見えてくるのである。
























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