だいた・おおひこ・だいだらぼっちについて
おおひこ
●筑紫国造は大彦の子孫
「おおひこ」という名は、あまりに漠然としいて、これではただの長男だった人としかわからない。その四道将軍だったという大彦命と、埼玉稲荷山古墳出土鉄剣にあるオオヒコが同一人物かどうか、このままではまったく決められないことは明らか。
●国造制度は6世紀後半に開始
●『日本書紀』の言う筑紫国造は実際にはまだ「筑紫君」。君は在地豪族であるから、そうなると筑紫君磐井が先の国造だったという筑紫国造家とは血族ではない在地氏族だった可能性も考えねばならない。
●磐井の墓は岩戸山古墳だと言われてきたが、国造ではない筑紫君が前方後円墳を造れたのは違和感がある。もし、磐井がすでに国造的な役割を持たされていたのであるなら、前方後円墳は釈然とする。しかし、乱の敗者となった磐井が、それでも前方後円墳に葬られるべき存在だったのかに疑問がある。
●もし磐井が国造だった場合と、君だった場合で、国への反駁の度合いは歴然と違う。国造ならば筑紫全体、君なら一豪族の乱なのだ。『日本書紀』はあえて国造を使い、風土記その他は君を使った。その立場の違いを把握しなければならない。」
※九州の古墳に多い石人(せきじん)が被葬者の遺体食う魔物(実際には腐食)から守る大太=おおひとであった可能性を筆者は問う。
だいだらぼっち
「平津駅家ひらつのうまやの西一二いちに里りに岡をかあり。名を大櫛おほくしと曰いふ。上古いにしへ、人あり。體かたちは極きはめて長大たけたかく、身みは丘壟をかの上うへに居ゐながら、手は海浜うみべたの蜃うむきを摎くじりぬ。大蛤おほうむき 也なり。其その食くらひし貝かひ、積聚つもりて岡をかと成なりき。時人ときのひと、大朽おほくちの義こころを取とりて、今は大櫛之岡おほくしのをかと謂いふ。その践ふみし跡あとは、長さ卌しじふ 歩あし余あまり、広さ廿にじふ 歩あし余あまり、尿穴ゆまりのあなの径わたり 廿にじふ 歩あし余あまり 許ばかりなり。」『常陸国風土記』那賀郡
「昔、[播磨国はりまのくにの]託賀郡たかのこおりには大人おおひと(※巨人)がいた。[大人は]常に屈んで歩いた。[大人は]南海から北海へ到り、東を巡ってこの地にやってきた時、「他の地は[天が]低くて常に屈んで歩いていたが、この地は[天が]高くてまっすぐ立って歩ける」と言った。それゆえに、この地を「タカ(高)」の意をもって「託賀郡」という。[大人の]足跡は数々の沼になった。」『播磨国風土記』託賀郡


各地の伝承
※山のように巨大な巨人で妖怪の一種だとされてきたが、おそらく修験者などの伝説であろう「大人」=おおひと、だいた坊、でえだら、だいだらぼっち、つまりは大太であろう。だいだぼうし【大太法師】,だいだぼっち【大太法師】,だいだらぼっち【大太法師】
※地名に代田(だいた)、大仁(おおひと)、大男山(おとこやま)などがある。鹿児島県大隅半島では大人弥五郎(おおひと・やごろう)とも呼ばれる。
胝大太 (あかがり・だいた)
緒方三郎惟栄(義。おがた・さぶろう・これよし)のあだ名・あかがりとはがさがさして。かさぶたがある皮膚、だいたとは大蛇のこと。『平家物語』怖ろしきものの末





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