

コトバンク「祟り」・【宗教】より」を読むと、日本の神にはアンビバレント(両義的)な二面性があると書いてある。
祟りと守護である。
祟りとはそもそも神が顕現することを言った。すると祟りは現われた神が、人に代わって祟りなす一面があることになる。これを鎮魂と言う。荒御霊(あらみたま)を押し込める呪術が鎮魂儀式である。Kawakatu用語では「やらい」である。追いやる儀式。すなわち神社で行う「追儺 ついな」に当たる。
靖国参拝にも二面性はある。
世間に向けた大儀では、先の大戦(太平洋戦争)で死んだ英霊の鎮魂であり、裏の一面では戦犯の荒ぶる魂の抑え込みでもある。ゆえに靖国神社にはこの両方が祀られているのだ。
英霊には「安らかに」であり、戦犯には「祟るな」と祈る。
日本中の神社にも実は表立っては言わないけれど、第一義的に祟り封じの意味があるだろう。
出雲大社だけではなく、伊勢神宮にも、宇佐神宮にも、鹿島神宮にも、蘇我神社にも、すべて神霊を封じ込めたという意義が隠されている。アマテラスを宮中でなく遠い伊勢に祀ったのは、アマテラスが別の天皇の祖先だった可能性はある。宇佐が遠いのも応神天皇家を別の王家と考えたからではないか?鹿島や香取には北の異人種への結界の意味と、物部守屋の祟り封じ込め、別の一族であった中臣氏の藤原氏による封じ込めの意味すらあった可能性がないとは言えぬ。つまり藤原氏が中臣氏を乗っ取った可能性である。藤原氏は百済王家(鎌足=豊璋説)だったかもしれないからだ。
しかし祟りという観念が存在しない世界の人にはこういう鎮魂があること自体理解できないのだ。
キリスト教では神=ゴッドと、悪魔、悪霊は別物だと考える。ところが聖書をよく読むと、悪魔はかつて天使であるとも書いてある。しかし神=悪魔とは書いてはいない。神に両面性があるとはっきりと言わないのである。実にまやかしの考えであろう。
朝鮮民族や共産主義者や社会主義者が「日本為政者の靖国参拝だけ」を批判する理由は、宗教的な無理解というよりも、感情論であり、むしろ日本の右傾化に対する危機感からである。だからまったく「祟り」観念は理解しようとしないわけである。あくまでも政治的、感情的、「やられた側のヘリクツ」でしかない。つまり歴史的にはそれは「敗者の論理」である。負けてはいないのに負けた論理を振りかざすのである。それは勝ったのが連合国であって、自分たちではなかったからだ。ということは、自分たちで勝ちたいという意味だろう。ならば絶対に歩み寄りはないのである。
ならばもう一度やって勝とうと考えるのが中国共産党だとならないか?
朝鮮民族はそう思ったとしても力が足りないことは明白なので、遠くから吠えるだけで終わっている。
しかし中国が日本や西側に対して面と向かって立てば、南北は必ずこれに迎合するはずである。
世界勢力地図をよく見れば、日本は欧米諸国の西の最前線=極東の表玄関にある。つまり日本は欧米のアジアに向けた堤防である。中国は台湾を含めたこの長い日本弧という堤防を壊しに来るだろう。そうしないとハワイも太平洋も見えてこないからだ。
彼らが靖国参拝についてあまり言わなくなったときは、戦争の準備で忙しい時だけだ。
つまりそれは今である。
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