なんのために『日本書紀』は聖徳太子を描いたのか?
古代行動学での解釈は簡明である。


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蘇我入鹿と蘇我本家氏は藤原氏によって無残に滅ぼされる。ということは滅ぼした側の藤原氏にとって、蘇我氏は当然祟る霊魂になる。

だから丁重に史書では扱わねばならなくなる。

しかし滅ぼしてから100年では、まだ記憶は新しく、蘇我氏も石川氏も滅びた事実はちゃんと説明せねばならい。でないと藤原氏側の正統証明ができないからだ。

ならばどうすればいいか?


蘇我氏の中にも聖人君主はいたことにすれば祟らぬように蘇我氏をある意味持ち上げたことになる。

それが聖徳太子だ。

だから異常な聖人的人物になった。それこそがいるはずのない人間性である証拠なのである。



いた、いないと言うよりも必要だったから書いた、創った人。モデルがいたとか、そういう些末なことなどどうでもいいのだ。勝者にとって、敗者をどう扱うかが答えなのだ。という方程式をあてはめるだけでいいのだ。日本史はそういう構造ですべてができていることに気づけばよいことだ。気づかないからいつまでもあほくさい水掛け論が続くだけ。

三国志なのか三国志演義なのか?と同じである。史実か小説かどっちを信じるのかである。
曹操が好きなら史書だし、諸葛孔明が好きなら演義を選ぶだろうが、史実は史実なのだ。判官びいきしてる場合じゃない。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が好きだからって、竜馬があんな人ではなかった、お竜さんだってああだったか、ほんとに「おりょう」だったのかどうか小説なんだって思えるかどうかだ。習った歴史を信じるか、ほんとかな?と思うかどうかだ。疑いがない人には歴史など語ってほしくないのが科学だ。週刊誌のゴシップをまんま信じてしまう井戸端主婦では、研究家としては失格でしょう?天地真理はほんとに週刊誌が書いたようなひどい人だったのか?なんて信じるバカはいませんでしょ?いたらほんとのあほですよ。すごく欠点がないすごいアイドルだから徹底的に悪く書かれたんだって考えるのが当たり前でしょう。



祟りという立場で考えると非常に簡単ではあるまいか?

再放送の聖徳太子は『日本書紀』のままの解釈で、話にならないわけです。


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