2016年03月29日 17:21 民族学伝承ひろいあげ辞典
●製鉄諸条件の整っていた安芸広島
1江の川、太田川上流の砂鉄
2それを生む中国山地の花崗岩地層基盤
3日本一の赤松植生が炭焼きに最適
4赤松に適した雨量と気温、そして偏西風が運ぶ松の種のとどまる立地と定着最適性
6日本海渡来氏族の製鉄にも、北部九州移住者の製鉄にも最短である
7中国山地がなだらかで出雲との往来が至便
8中世以降、製鉄に関心の高い実力者毛利氏が移り住んだこと
結果的に広島市に今でもシェア100%という縫い針産業が定着した。
最古の四隅突出型墳丘墓があるのは広島県安芸、その発生から移動の歴史
●四隅突出型墳丘墓の歴史
■弥生中期後半(BC100-AD50頃)
広島県の三次盆地に発祥したという。
ここは江の川をさかのぼった中国山地の山あいに相当する。
参照
書紀 巻一 第八段 一書第一「一書曰。素戔鳴尊自天而降到於出雲簸之川上」
書紀 巻一 第八段 一書第二「一書曰。是時素戔鳴尊下到於安芸国可愛之川上也」
※安芸国の可愛川の川上とは今の江の川の上流のことであろう。出雲東部にある安来は「やすぎ」だが、「あき」から来た地名か?Kawakatu
■弥生時代後期前半(AD50-180頃)
この時期になると日野川を下り、妻木晩田遺跡の洞ノ原2号墓を端緒にして、伯耆地方を中心に一気に分布を広げる。
規模も少しずつ大きなものが造られるようになり、突出部も急速に発達していった。
■弥生後期後半(AD180-AD250頃)
分布の中心を出雲地方に移して墳丘の一層の大型化が進むとともに、分布する範囲を北陸地方などにも広げていった。
しかし、弥生時代の終わりとともに忽然とその姿を消してしまう。
北陸では少し遅れ能登半島などで造られている。
源流は今のところ判明していないが、貼り石方形墓から発展したという可能性もある。
日本海側を中心に約90基が確認されている。
北陸地方(福井県・石川県・富山県)では現在までに計8基が知られている。」
http://houki.yonago-kodaisi.com/F-K-kohun-4sumi.html
●安芸太田の砂鉄と広島針とたたら製鉄
「広島針の製造の歴史は、遠く300年以上前、藩主浅野家が下級武士の手内職として普及させたことに始まります。以来、品質の向上や製造の効率化などを図り地場産業として名を知られるようになりました。
広島湾に注ぐ太田川の上流50キロの中国山地の中にチューリップの針工場がある「加計」(現、安芸太田町)という地域があり、江戸時代には、中国山地の大砂鉄地帯に位置する出雲と並ぶ芸北地域の「たたら製鉄の中心地」でした。そして、太田川の水運を使って必要な物資を諸国から集めるとともに「たたら製鉄」により製造された鉄を広島に送る集積地として繁栄を極めてきました。
広島針はこのように加計の砂鉄を原料に「たたら製鉄法」によってできた鉄を太田川の水運を利用して、現在の広島市に運び、そこで針として加工することで発展してまいりました。
この鉄を独占した広島藩では、「縫針」生産の地場産業がおこり、現在でも、広島は手縫針、侍針の全国生産量の9割以上を占める我が国最大の針の産地となっております。」
http://www.tulip-japan.co.jp/hiroshima/
「広島針の歴史は江戸時代に浅野藩主が長崎から針職人を連れて来たところからはじまります。広島の北部には針の材料となる鉄を「たたら」で生産する中国山地が控えていました。鉄はその中国山地から清流太田川を利用し、舟で広島へ運ばれていました。手工芸で生産されていた針はその後、機械製造へと移行するとともに品質・生産量が向上しました。「縫針」の生産量は現在も国内シェアはほぼ100%です。」
http://design-bm.shiga-irc.go.jp/collabon/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E7%9C%8C_%E5%BA%83%E5%B3%B6%E9%87%9D-%EF%BD%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B9%E9%87%9D%E3%83%BB%E3%81%8B%E3%81%8E%E9%87%9D%EF%BD%9E/
「庄原市と県境を接する島根と鳥取は、たたら製鉄を文化遺産として広域連携しているのに比べて、もうひとつの大産地であった安芸太田、北広島、安芸高田、石見は、全くそうした動きが無い」
「確か5年くらい前、著者の研究成果を雲南市でのフォーラムで拝聴したことがあり、出雲より安芸のほうが、製鉄炉の地下構造が先進的だったという話でした。」
「たたら製鉄跡の発掘調査は、戦後に始まり、島根中心に進んできたのでデータが偏り、主な産地が島根であるかのように誤解されている。で、面白いのが、戦国時代の広島の旧豊平町の発掘データと、島根のデータを比べると、明らかに安芸のほうが2世紀くらいは進んでいたということ。毛利、吉川、小早川など、安芸の勢力が拡大するのと重なるように、出雲や三原に地下構造が伝わったという事が、発掘データから読み取れます。地下構造とは、炉の地下の石組による排水口や空気口により、地面からの湿気を遮断することで、炉の温度を上げ、より量産するための当時の先端技術。何故ゆえ安芸に、独自の技術が生まれたかは解からないが、朝鮮半島の発掘調査と比べても、長四角の炉のカタチ&地下構造は日本独自のもの。たたら製鉄の考古学は、まだ途上の学問であるということらしい。」
「近年、新潟(越後)の柏崎に、海砂鉄由来の大規模な製鉄コンビナートが発見され、平安時代あたりの遺構ではないかと発掘調査されたばかり。毛利を軸とした先進的な製鉄技術は、越後との関係に由来するかもしれない。そういえば、ヤマタノオロチと高志(北陸~越後)の関係も気になるところ・・・」
http://nagareni.seesaa.net/category/10038429-1.html
●アカマツの分布も広島が日本一
アカマツ林の分布面積は、広島県が日本一!

右の図の赤い点は、日本の中のアカマツ林 の分布を示した図です。九州から東北の青森県まで、全国に広く分布しています。 下の表は、県別のアカマツ林分布面積、トップ5を示したものです。なんと、広島県は、アカマツ林の分布面積は日本一なのです。
ではなぜ現在、赤松に寄生する松茸の産出量1位が長野に奪われたのか?
マツタケの歴史は森林枯渇の歴史
2017年11月23日 08:49
「半島の東から北部は乾燥気候で日本以上に松茸にむいた気候である。しかし中国には松茸はなかったようで、中国へ旅した李氏朝鮮時代の使節が中国人に「松茸ってどんな味?」と聞かれたという記事が『心田稿』にある。
中国の文献で松茸が出てくるのは1918年の『植物学大事典』が初出であるから、まったく知らなかったと言ってよかろう。
日本では東日本ではまったく松茸を知らない人ばかりだった。
「江戸では高すぎて高嶺の花だった」(渡辺信一郎『江戸川柳飲食事典』)
「手に入っても多くは塩漬けだった」(図説江戸時代食生活事典)
つまり関東以北には松茸はなかった。赤松も少なかったということになる。赤松は関東ローム層やシラス台地などの火山灰地層では育たない。残念ながら。
『日本書紀』応神天皇条、国樔人の献上品として「茸」とあるのが松茸の初出であるそうな。
『播磨国風土記』には「甘茸」とある。播磨は今でも松茸の産地。かわかつ買ったことあり。大きくて香りが高い。
「茸」という文字をキノコ類にあてるのは日本と朝鮮だけ。
中国では菌、芝など。
これからの穴場はロシアと北の国境であろう。手つかずのシロがありそうである。」
民族学伝承ひろいあげ辞典2007/8/25「松茸、キノコ」より
マツタケの歴史は森林破壊の歴史
そうだじゅん
マツタケが日本を代表するキノコになった理由の裏には豊かだった日本の、人間による森林伐採の歴史がある。本日はその因果関係をもう一度ちゃんとたどってみよう。話は弥生時代、卑弥呼の時代に始まる。
製鉄が渡来すると森林伐採はすぐに始まった。高温を作り出せる炭が求められたからである。その前の縄文時代からでも、すでに船材としての樹木伐採は徐々に増えていた。私たちは現代日本の豊かな森林の、特に原生林と呼んでいる風景を、太古から変らないものと思って生きている。しかし、太古から手付かずの原生林など、実はほんのわずかな僻地だけにしか残っては居らず、ほとんどの森はすべて人間の炭材、建築材、仏像材、船材としてすべて植生が切り替わったものを見ているのだ。
古墳時代から掘っ立て柱の巨木利用が始まる。神社の式年遷宮や王宮の遷都・遷宮は、都市、神社周辺の山々から伐採された樹木でまかなわれた。特に飛鳥時代、王朝が安定化してからは、それが顕著になった。奈良の山々の森はあっという間に禿山と化してゆく。全国神社の式年遷宮の多くが20年ほどの間隔で行われたのは、掘っ立て柱基礎そのものの、土中での腐敗に根本があった。ほかにもさまざま理由はあるが、まず根本は根元が20年もすると腐り、建造物が倒壊したからである。記紀でも、出雲大社がよく倒壊したことを記録している。やがて20年単位の遷宮は定着して神事となることで、慣例化したのである。そしてそのことは、宮大工技術の存続を許した。
蘇我氏~天武天皇時代あたりには、百済仏教とともに礎石を置く大陸型の建造物が入り、奈良の山々からはほとんどの樹木が消えていた。そこで木津川を経由する杣(そま)番匠(ばんじょう)たちのきこりの川による遠隔地からの樹木運搬が開始された。聖武天皇時代には天然痘が流行り、天皇は疫病から逃げるために何度もの遷都を繰り返すようになった。これらは地方での森林伐採を進めてゆくことになった。
日本は季節風が吹く。大陸の高気圧から北西の風が吹いてくる。その風は乾いて、寒冷な風であり、大陸から土やほこりとともに植物の種も運んでくる。人的に伐採された禿山に、種は落ち、植生が変化した。もう縄文時代の植生はまったく変ったと言える。その種の中にアカマツの種もある。アカマツは、ほかの植物が嫌う乾燥した土を好んで育つ植物で、従来の湿った落葉樹の森では育たない。それ以前は奈良・京都で秋の味覚・珍味であったキノコはほとんど平茸であったのが、鎌倉時代前までにすっかりマツタケに切り替わっていた。木曽義仲のエピソードに、京の都に入って国司に振舞うためにキノコを探させたが見つからず、故郷の木曽から取り寄せ食わせた話があるが、それが平茸であった。要するに湿めった森が近畿では消えていたのだ。それを食べた国司はおどろき青くなったとある。うまさに驚いたのだろうか?
そういえばギリシア人が地中海の森林を、船材としてすっかり切り出したために、地中海沿岸は森が消え、そのあとに中東人、ユダヤ人たちがオリーブを植える話が思い出される。フランスでは牛肉を確保するために、豊かなブルゴーニュの森まで伐採し牧草地にしてしまった話もある。そしてそれは西洋では容易には復元しないようである。しかし湿潤な日本では、森の再生が起こる。人の伐採はそれを追い抜くほどのスピードで起きたのである。人工的に樹木を植え始めるのは記録では奈良時代、それ以前もあっただろうが知る由もない。
ただし、植物の種や花粉の分析で、当時の環境再現は今や考古学でも始まっている。その当時の植生は堆積物の年縞(ねんこう)からわかる。その種や花粉は現代の、あとから植えられた植生と違っている。日本では特に違いが出る。つまりそれは日本列島の環境の歴史なのである。
マツタケは和歌にもなっている。藤原定家ですら歌にした。平安時代、日本を代表するキノコはマツタケに変っていた。丹波のマツタケは往古は多すぎて、すき焼きに放り込んで食べるという風習を生んだ。それは今も丹波では続く。しかし、それが始まったのは平安時代、丹波篠山の古い原始林が伐採されアカマツに変ったためであり、環境・植生の歴史上ではアカマツ・マツタケは森林破壊の痕跡として把握されるのである。
さて、今年はマツタケが不作だったという。マツタケは乾燥した日当たりのいいアカマツの、しかも6~10年の稚木の足元でしか育たない。古いアカマツ林だとどんどん消えてしまう。なぜマツタケがどんどん高嶺の花になってきたのかは、こうした理由からである。アカマツの再生が充分でない環境になっていったからである。つまりアジアの、いや地球の気象そのものが大きく変ってきたにほかならない。そしてその歴史も、作ったのはわれわれ人類である。それを現代人は「温暖化」と呼んでいる。温暖化は海を暖め、雨が増える。インドシナの熱帯雨林のように日本の森を変えてゆく。そこにマツタケなど生えるはずもなくなる。これはもう止められない日本列島の運命だ。
森の変化は、海の資源すら変えてしまう。漁獲量変化も起こっている。鯨の北上コースにも影響する。プランクトンの多い海の場所を変えさせるからだ。そしてまた、海賊的な海外漁船の乱獲がこれを助長している。あなたの子孫の時代に、日本人はもう魚もキノコもまったく違うものを食べていることになるのだろう。伝統はこうして消えてゆく。そして新たな生き方が求められ、変らなければその民族は滅びるしかない。
ただそれだけのこと。それも歴史。
参考文献 田家 康『気候で読み解く日本の歴史』2013 日本経済新聞社出版
松茸、赤松林は炭焼き、たたら製鉄、鋳物産業と直結していた。つまり安芸広島に針鋳物が繁栄したもとは弥生時代から続く渡来系移民の製鐵のための赤松植林とたたら製鐵による武器産業であり、広島が四隅突出型墳丘墓の発祥地であることとおおいに関わっているわけである。
そして今西日本の赤松が枯渇している理由はまず温暖化によって南方から松枯れ病の原因である松くい虫が入ったこととリンクしている。この病気がニュースの話題に上った時代は、日本の高度成長期がある程度進んだ昭和の戦後であり、同時に赤松は西日本の温暖な気候では松くい虫が増えるため不向きとなった。ために松くい虫の住みにくい冷涼な長野や岩手へと松茸と赤松の産地も代わったわけである。そこには人的な松林管理の人手不足、林業の衰退が影響する。松茸は、適度な伐採や枯葉の除去が必要で、製鐵が近代産業化し、炭焼きたたら製鐵が消えたために赤松林が適度な管理をされなくなった昭和時代から松枯れしていったために松茸も激減したという因果関係があるわけであった。



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