酒の話を書こう。
自分自身はいつまで飲み続けられるか知らぬが、酒のみKawakatuが描く日本古代史の一気飲みである。そろそろやめどきかなあ・・・?
酒を避けてKawakatuも辟の神になりたいものだが。


副題 神武が飲んだ牛酒とは黒酒であり、決して牛肉と酒ではない。
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右が大嘗祭の本来の黒い濁酒・黒酒(くろき)=牛酒?
新嘗祭神嘉殿の儀 | 衆議院議員 河野太郎公式サイト (taro.org)

「牛 酒 を設 けて,皇 師 に労へ 饗す 」『日本書紀』巻第3神武天皇即位前紀戊 午 年8月(第1段)大和国宇陀血原の条



 
神話の酒
八醞酒 やしおりのさけ
スサノオがヤマタノオロチに飲ませた酒である。
「古事記では「八鹽(塩)折酒」、日本書紀では「八醞酒」と記す。やしおりのさけ、と訓ずることが多い。
 この八塩折酒について、本居宣長が「八回酒で酒を重醸した」と解した。酒を水代わりにして酒を醸しさらにそれを繰り返してヤマタノオロチも酔っ払うアルコール分の高い濃厚な酒を造ったのであろうと。
 本居宣長の「古事記伝」というのは古事記研究のバイブルみたいなものであり、その解釈論は現在においても生きている。本居宣長に異を唱えることは生半可なことでは出来ない。したがい、現在も解釈本を見れば、八塩折酒は重醸であると書かれていることが多い。八度、手塩にかけて造った酒であると。定説となっている。
 しかしこの説に対して柳生氏は、明確に誤りであるとする。酒造業からの視点は、鋭い。
 そもそもヤマタノオロチが襲ってくる火急の場で8回も醸造を繰り返してられるか、という問題もあるのだが、さらに根本的な問題として、酒は重ねて醸してもアルコール分は高くならない、という事実があるようだ。」

原始時代の実際の酒醸造
重醸酒 ちょうじょうしゅ 
「噛み酒のような単純な造りを、出来た酒を足しながら何度かくり返し、アルコール分を次第に高めていく太古の醸法。この語自体は現代の酒造用語につかわれることもある。●「やまたの大蛇」退治のくだりで、すさのおのみことが教えた酒は八(や)塩折(しおり)の酒というから、穀類の重醸酒かと思われるが、──&『日本の酒』第四話 手握り酒 てにぎりざけ 手で握り結ぶことのできる半固形状の酒。醸酒を十分に搾りきっておらず、アルコール分を比較的多く含んだ酒粕であったよう」


唾液酒 だえきしゅ 
「唾液中の酵素の働きを利用して醸した原始的な酒。《口噛み酒》がこれに当たる。●古くは、一夜酒の一つに口醸(くちか)み酒(唾液(だえき)酒(しゆ))があった、という。──&『酒の日本文化』一 食べる酒 たべるさけ 醪(もろみ)の絞り粕を草鞋(わらじ)形などに握って、火で軽くあぶったもの。含まれたアルコール分が燗付けされた状態になり、すばやく酔える。これを食べたことから、日本ではこの名がついた。●液体を分離せずにモロミをそのまま食べてしまう「食べる酒」もあ..」


口嚼ノ酒や麹酒記述は古代日本の記録にもある
一つは『大隅国風土記』逸文(713年(和銅6年)以降)である。大隅国(今の鹿児島県東部)では村中の男女が水と米を用意して生米を噛んでは容器に吐き戻し、一晩以上の時間をおいて酒の香りがし始めたら全員で飲む風習があり、「口嚼(くちかみ)ノ酒」と称していたという。口噛み酒は唾液中の澱粉分解酵素であるアミラーゼ、ジアスターゼを利用し、空気中の野生酵母で発酵させる原始的な醸造法であり、東アジアから南太平洋、中南米にも分布している。現代日本語でも酒を醸造することを「醸(かも)す」というが、その古語である「醸(か)む」と「噛(か)む」が同音であるのは、この口嚼ノ酒に由来すると言われている[4][5]が、異説もある[4][注釈 1]。


カビ(麹)の酒
もう一つは『播磨国風土記』(716年(霊亀2年)頃)である。携行食の干し飯が水に濡れてカビが生えたので、それを用いて酒を造らせ、その酒で宴会をしたという記述が見える。こちらは麹カビの糖化作用を利用した醸造法であり、現代の日本酒のそれと相通じるものである。このように、奈良時代の同時期に口噛みによるものと麹によるものというふたつの異なる醸造法が記録されている。



※黒酒・・・くろき。大嘗(だいじょう)祭に使う、醴(あまざけ)を黒い色にした酒。※風土記の時代以前、日本ではかなり原始的手法で酒を醸していたらしい。まるで原始時代そのものの醸造法が飛鳥時代まで残っていたというわけで、のちに濁酒や清酒がうまれるためにはどうも渡来人の登場を待つことになるようだ。
※故森浩一先生が『ぼくの考古古代学』に書いたように、祭器は催事ののちに少し離れた場所に埋められてきた。その遺跡までを考古学では「祭祀遺跡」と呼んできたが、実は祭祀場ではなくゴミ捨て場がほとんどだ。地域によっては遠く離れた2000m以上の山の頂上に捨てた遺跡が見つかっている。おそらく修験者などが代理で捨てに頂上まで登ったのだろう。それは捨てたというより、山岳修験者による「かたしろ」としての神への鎮撫だったかも知れない。ならばそこは立派な祭祀遺跡だ。分祀された祭祀場とも言えようか。



『日本書紀』酒に関する記述
「饗宴 を含 め た飲 酒 につ い ての記事 を巻別 ・項 目別 に挙 げる と表2・4の ようで ある。
(1)饗(み あへ)た て まつ る
「饗 た て まつ る」 とは,貴 人 に対 して 心 を こめて 飲食 の持 て成 しをす るこ とで あ る。
「夫 の 品の物 悉 に備 へて,百 机 に貯 へ て(数 多 くみあへの もの を並べ た机)饗 たて まつ る」
〔巻第1神 代 上 第5段(一 書第11)〕

「一 柱 騰 宮を造 りて饗 奉 る」
〔巻第3神 武天皇 師位前紀甲寅年10月 〕
「殿 の 内 に機 を施 きて,饗 らむ と請 す に因 りて作難 らむ(か まえて事 を起 す)と す」

「牛 酒 を設 けて,皇 師 に労へ 饗す 」
〔巻第3神 武 天皇 即 位 前期戊 午 年8月(第1段)〕

(2)饗(あ へ ・あふ)
「饗」 とは,飲 食 を設 けて人 を もて なす こ と。〔巻 第3神 武天 皇〕

「葉盤八 枚(平 皿)を 作 して,食 を盛 りて饗ふ」
(即位前紀戊午年11月7日)〔巻第11仁 徳天皇〕

「高麗 の客 を朝 に饗 へた まふ」(12年(421)8月10日)〔巻 第19欽 明 天皇 〕
「膳 臣 傾 子 を越 に遣 して,高 麗 の使 に 饗た まふ」(31年(570)5月)

「高麗 の使者 を相 楽 の館 に饗 た まふ」(31年(570)7月)」

※項目非常に多し。あとは元記事を読まれたし。
天甜酒 あまのたむさけ
「『日本書紀』巻二・神代下に初出、「極上の醇酒」の意である。天は美称の冠詞」 

韲酒 あえさけ
「調味料などを和えた酒、すなわち料理酒と解釈されている。朝廷の台所である内膳司(うちのかしわでのつかさ)へ月ごとに調理用に届けられた、と記録されている。●平安時代の『延喜式』第四〇巻に出てくる「造酒司(さけのつかさ)」の条に「韲(あえ)酒(さけ)」というのが登場してくる。造り方を見ると、米と麹の使用量が多く、──&『酒に謎あり』謎の5」


牛酒 うしざけ
「神武天皇が東征のおり、強行軍で疲れた兵士をねぎらうため与えたという酒。どんな酒か素性はわからないが、『日本書紀』神武東征の件にこの言葉が見える。」
※牛酒とは?
1 大嘗(だいじょう)祭に使う、醴(あまざけ)を黒い色にした黒酒(くろき)。黒米を使って牛のように真っ黒な酒
※最上段PDFによると「饗(み ... 牛酒 を設 けて,皇 師に労へ饗す」. 〔巻第3神. 武天皇. 即位前期戊午年8月とある。
※牛酒は牛と酒を飲食したのか、あるいは「牛酒」という酒なのかの詳細研究記載はない。牛に醸もさせた酒なのか、いささか気味が悪いが?あるいは気を「うし」なうほど強い酒か?はたまた松坂牛のように牛に飲ませる酒か?まさか天皇にそんなものを飲ませるはずはないが?「うしざけ」と読ませるか、「牛と酒」と読ませるかは分析サイトが一切ないので、あなた調べてみたら?後者なら紀元前の日本ですでに牛を食っていたことになってしまうが、前者ならただの酒だろう。

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調理用に清酒化された調味酒・黒酒
熊本に赤酒、鹿児島に黒酒があるが同じもの。鹿児島の黒酒は風土記逸文に記録もある。
古代の黒酒(くろき)煮魚・煮物にコクと旨味 料理酒(みりん)として最適 - ものづくりとことだまの国 (zero-position.com)



原始、酒は口で醸んで(噛んで)醸した「サル酒(口醸み酒)」が常である。果物などを噛んで、口中の唾液で醸す。原始的社会が残存するアフリカ原住民やボルネオあたりなどでは、まだこれが続いている地域もあることだろう。


するとそれが唾液の大量に出る牛の口中で醸されてもおかしくはない。できればの話だが。あるいは牛の涎をあつめたか?


あるいは
「『古事記』には応神天皇(『新撰姓氏録』によれば仁徳天皇)の御世に来朝した百済人の須須許里(すすこり)が大御酒(おおみき)を醸造して天皇に献上したという記述がある。『新撰姓氏録』によれば、この献上を行なったのは兄曽曽保利と妹曽曽保利の二人ということになっており、この二人を酒の神として祀る神社もある[要出典]。百済からの帰化人が用いた醸造法ということであれば、それは麹によるものであったとみられる。」と日本酒の歴史 - Wikipediaにあるようなおそらく最初は濁酒から清酒への道が存在するが、あくまで記録上の最古の記事であり、それ以前はやはり口噛みの果実酒が古かろう。これはできれば若い美女などに醸んで欲しきものではある。


神話スサノオの造らせた「八醞酒 やしおりのさけ」も醸造方法は不明であるが、スサノオは新羅から帰ったのだから、すでにコメのかび酒つまり濁酒だったかも知れぬ。

こう見てくると「牛酒」とは、やはり気持ちはよくないが、牛の唾液のアミラーゼで発行させた果実酒とみるのが妥当ではないか?そう結論付けるしか今はあるまい。

ダウンロード


『延喜式』奈良時代後半~平安時代(宮中の酒造り確立)の記述
延長5年(927年)「延喜式(えんぎしき)」
「造酒司(さけのつかさ)」
酒の種類・仕込み配合等詳細記述あり。
ⅰ. 御 酒(ごしゅ):冬に仕込み、4回しおり(搾ったり、濾すこと)、甘口で酸の少ない澄み酒
ⅱ. 御井酒(ごいしゅ):初秋の仕込、濃厚甘口の澄み酒
ⅲ. 醴 酒(れいしゅ):汲水の代わりに酒を使う盛夏用の甘い酒、味醂・白酒の原型
ⅳ. 三種糟(さんしゅそう):麦芽・米麹を併用、うるち・もち・モチアワを用いた味醂系の酒
ⅴ. 白酒・黒酒(しろき・くろき):新嘗祭(にいなめさい)用の酒。久佐木灰(くさぎばい)を入れたものが黒酒、入れない方が白酒、共に大篩(おおふるい)で濾過した。





・・・・・・・・・・・・・


それにつけても、「牛酒を設けて」とか、スサノオが「やしおり酒を造らせる」とあるのを見ると、酒の発酵がすぐにできるはずもないのに、なにかこうすぐにできて飲ませたような書き方は違和感がある。そんなことに気づいて書いている人も少ないのも変だ。
その場で造らせたはずがないのだ。となると前々から地元の衆は、そういう酒を常備していたと考えるのが違和感がないのではなかろうか?


となると「牛酒」も、常備酒であろうし、牛と酒で歓迎するのは魏志倭人伝に牛がいないと書かれた倭国では牛肉食そのものがあるわけもなく、やはりどうしてもこれは「牛酒」という一つの名詞だと考えざるを得ない。

牛酒とは?
1 大嘗(だいじょう)祭に使う、醴(あまざけ)を黒い色にした黒酒(くろき)。黒米を使って牛のように真っ黒な酒
2 牛の唾液で醸造した酒
3 失し酒で、気を失うほど強い酒
4 松坂牛のように牛に飲ませる酒

などが考えられ、もちろん1が最もふさわしい。
奈良県酒造組合では今も黒酒を造っておられる。黒酒の木簡も出土している。
奈良県酒造組合 日本清酒の発祥 (yamato-umazake.com)

すなわち奈良や京都という天皇の都には黒酒があるのだ。これが牛のような黒い酒であろう。

ダウンロード (2)ダウンロード (1)

宮中大嘗祭献上酒の「くろきとしろき」、左・金沢市の醸造所、右・富山市の醸造所で今も製造中
その他の県でも神武東征伝承を受けてのことか、黒い酒作りが盛んである。
大嘗祭黒酒 - Google 検索

「それは宮中で用いる神供の酒であり、黒御酒くろみき・白御酒しろみきともいいます。 

にごり酒です。久佐木灰くさぎばいで黒く色づけしたものが黒酒、入れないものが白酒です。 

昔は賢所構内で醸造されていました。現在は2つの業者さんが請け負っているそうです。 

新嘗祭や大嘗祭(来年!)には、この白酒黒酒が絶えることなく現代も使われています。」

白酒(しろき)・黒酒(くろき) | 宙と石とのあいだで♡ ✴︎✴︎ オルゴナイト ワークショップ ⁑ 石川県 金沢市 野々市市 白山市 能美市 小松市 ✴︎✴︎ (ameblo.jp)

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ただしこのお話は、時代的には神武の紀元前などではなく、せいぜい古墳時代の話を神武時代に持って行ったと考えるのが妥当だろう。


Kawakatuは記紀の神武~三輪王朝の記憶は、すべて古墳~飛鳥時代の出来事に前倒ししたと考えており、欽明以前の天皇はすべて創作された架空の時代と考えている。ではその具体性をどう説明するかとなると、過去を生きて伝世されてきた氏族たちの言い伝えを天孫存在のために潤色・コラージュしたと考えたい。日本史の記録はあくまで飛鳥時代の宮中の誰もが知っていることから実際は始まるのである。それ以前は記憶の切り貼りであろう。


しかもたちの悪いことに、記紀記述の飛鳥以前はみな、藤原氏にとって都合のいい女帝のために描かれた偽書であるのだから、敗北した氏族の伝承や記録は焚書してあり、天皇にとって、ひいては宰相・大臣にとって都合よく変形されてしまったのだから、神話も含めて、敗者を丁重に葬り去り、返す刀で鎮魂、鬼やらいするという「祟り封じ」のノウハウで描き出されるという、実に言霊思想に溢れた「歴史の捏造」に出来上がっていると見るしかない。


たとえば平安時代までに、一書が政権交代のたびに書き加えられたり、道長の時代に藤原摂関家の安泰以降は、さらなる潤色も加えたと観る。要するに歴史書とは、あとから書かれるしかないものだから、当然、勝ったものが書く権利があったのである。平安時代を古代の終わりとするわけは、実はそこにもあるのではないか?


神武を人皇の最初としたものの、そこには中華思想や西欧思想にあった中世的な人物像で描かれているわけで、西欧歴史学者が「日本史は中世から始まる」とよく言う理由は、神武が東征して領土を拡大するという、アレクサンダーのオリエント侵攻のごとくに書かれただけの寓話になっているとしか思えぬのである。


1 神武東征、天武壬申のクーデターの二か所は、そうした大陸を意識した挿入記事で、天皇家の正統性の証拠作りに仕上がっている。
2 神話も記紀編纂前にあった事件の空想小説仕立て。
3 崇神以後の3世紀後半の三輪王朝は奈良や筑紫などの小国家王家の記憶上の話を天皇の業績にしただけ。
4 実際の歴史は、渡来人によって書かれ、渡来人の新知識なくしては神話も人代も生まれないのであり、稲作、製鉄、酒造などの記録も具体性を持たない書き方。
5かといって秦氏が酒造の始まりとは書いてもおらず、ススコリは単に百済人としてある。秦氏松尾の神を酒の神としたのは奈良ではなく京都の秦氏が酒や織物技術を伝えたためである。秦酒公という人物も、「さけのきみ」=「辟の君」なのであり、「辟」とは土地開発であるから阿蘇建磐龍の「裂く」=蹴裂(けさき)神話も同じことだ。


「さけ」が酒になり、秦辟公が文字を良字の「酒」に代えるのであるが、「さけ」はまた裂けるだから、口の裂けた動物=きつねを稲荷神に秦氏は用いるのである。「おおさけ」とはそういう意味だ。「おおさき」も同じ意味の地名・人名である。開拓・開闢・開墾した名前である。京都盆地を最初に開拓したから「さけのきみ」なのだ。だからその秦氏の上になる神は「おおさけ」なのである。安直な駄洒落でしかないが、それこそが言霊思考の賜物だったのである。


牛酒の結論
書いてきた通り、神武が飲んだ牛酒とは黒酒であり、決して牛肉と酒ではない。
大嘗祭で黒酒が使われるのは、おそらく神武東征の故事にある牛酒が慣例化して白黒の酒を使うのではないかと思え、牛酒=黒酒と結論するのが妥当と結論した。

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参考「大嘗祭」の本質を探る – 國學院大學 (kokugakuin.ac.jp)


思うのは簡単だが、調べ上げるのは甚大な努力がいる。
しかし思いは詳細な調査のきっかけでもある。四方山話さん、ありがとう。またひとつ知識が増えた。

記事完成所要時間4時間。


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