なぜ縄文中期に火炎土器が出現したのかについて地球環境で考察する。
『列島創世記』縄文時代で著者の松木武彦は、中期に限って火炎土器などの凝りに凝った意匠が登場するのは温暖化が大きく関与したと書いている。
では縄文時代の気候変動をグラフで見てみよう。
恵さんと仲間たち (fc2.com)
このグラフだけでなくほかにも専門家のサイトがあり、このグラフと大差がないことを確認済み。
周期的な気候変動 (hi-ho.ne.jp)
より学術的・専門的に図を見るならこのサイトをお読みください。
ところがグラフを見る限りでは、松木が言うようにはなっておらず、むしろ縄文中期は寒冷化しているように見受ける。これは列島全体の平均値であって、「相対的寒冷期」であると周期的な気候変動 (hi-ho.ne.jp)
サイトお阪口氏は分析している。どういうことだろう。
では東西日本に分けてみてみよう。
東北青森の三内丸山遺跡の気候変化グラフである。
このグラフで縄文時代中期とはいつごろなのか?

縄文時代は非常に長い。Wiki縄文時代によると
「16,000±100年前と考えられている[2][注 1]。終期は概ね約3,000年前」
と、諸説あるが全体でなんと13000年間にも及ぶ。
弥生時代が紀元前300年から西暦250年程度でせいぜい550年間しかないのだから、もはや縄文時代の呼び名もそれぞれの期間に名前付けしたほうがいいのではあるまいかとすら思えてしまう。
従って少なくとも現在の草創期、早期、前期、中期、後期、晩期という時代区分を今は使いながら考えるべきだろう。一括して「縄文時代は・・・」と言うのは無理がある。その期間に何度かの気候変動、環境変化があり、中心地も移動してゆくし、西日本にも縄文時代はある。
中期は5500年~4500年前の千年間で、それは気候グラフの三内丸山が温暖期だった時代に相当するとわかるだろう。つまり、日本列島の縄文時代で、全体は平均して相対的寒冷化時代なのに、関東、甲信越、東北、および北海道南部は温暖化していたのである。一方、そうなれば西日本がよほど寒くないと、このような平均値での寒冷化は出てくるはずがない。
東日本が温暖だったその時代、まさにデザインに凝りに凝った異形の土器は登場したのだとわかるわけであり、松木の言ったことは証明されたことになる。
それを裏付けするのが中期までの縄文遺跡、人口密度の分布である。
『列島創世記』より
縄文・弥生時代の人口密度の変化 | 縄文時代, 歴史 年表, 歴史 (pinterest.jp)
「縄文時代 今から約1万年余り前から、地球は氷河時代がようやく終わり寒冷から温暖化が進んだ。名古屋付近で台湾なみの暖かさとなり、海抜は今より5mほど高くなった。温暖化により地表の氷河が解け、水が海に流れ込み海面が上昇したのである。その結果、日本列島もユーラシア大陸と切り離されて、大陸との陸橋が水没し、現在の日本列島が形成され、現在に近い自然環境となった。」
同上サイトから
この一文だけでは縄文時代はすべて暖かだったと思ってしまいかねない。全体的には確かに縄文時代は氷期から温暖期へ移行してゆく。しかし中期西日本はまだ寒かった。縄文海進が進んだ時期、縄文時代は確かに温暖化した。しかしそれは東日本の場合には顕著だが、西日本はまだ相対的に寒冷で、カルデラ爆発などで寒かった。それは西日本のほうが新しい付加体が多かったせいである。
東日本も中期後半にはやがて寒冷化してゆく。
地球環境はそういう宿命にある。縄文中期は特に前半から中盤は、その前の前期後半から上昇し始めたピークにあたる。しかしその後東日本は寒冷化してゆくことになる。西日本は逆にやや温度が上がった。ここに文化の逆転が生まれたゆえんもある。つまり環境変化・気候変化には地域でずれがある。その理由は海流や偏西風・季節風の通る位置が変わるからだ。
中期まで、西日本は人口も少なく、当然遺跡も少ない。鹿児島だけが密度が高かった。しかしカルデラ、火山噴火の火山灰によってまた寒冷化して上野原遺跡の人々は消えていった。東日本の縄文遺跡も最終的には関東地方に集中し始め、寒冷化を逃れようとしている。
温暖化の時代には、土器が爆発的に意匠を凝ったものになった。
東日本では定住化できるようになったのである。一方西日本はまだ定住できずに移動生活で、大きな集落がつくれず、土器もおとなしい。
東日本の前期もやはりまだおとなしい。
ところが中期中盤までに東日本だけが突然変化する。
そして後期になるとまたもやおとなしくなってしまう。
中期の火炎土器という名称だが、もういい加減に変えたほうがいいのかもしれない。
東日本でも甲信越地域だけで発達した尾高式土器だが、波のような縁のデザインは、今、多くの学者は波頭と呼び始めており。むしろ波頭土器と呼ぶべきかもしれない。あるいは「みづち」や「わらびて」「渦巻」など、多用してある土器腹部のデザインを名にしてもよかろう。
火であれ波であれほかの模様であれ、そこには生命へのあこがれが見て取れる。それこそは縄文中期人の、寒冷期を乗り越えた喜びや、定住できずに若くして死んでいかねばならなかった時代との苦闘の歴を乗り越えた歓喜が爆発したとしか思えない芸術や死生観の大爆発が見て取れるだろう。

KawakatuHP同時代年表 (oct-net.ne.jp)
及び『列島創世記』グラビアから
及び『列島創世記』グラビアから
およそ日常の料理道具(松木の言う什器)からは程遠く、理不尽なデザインの土器たち。
そこから飛び出さんばかりに横溢する生命力こそが、耐えて生きてきた旧石器~新石器時代草創期の彼ら祖先たちのまずしく寒く恐ろしかった時代を乗り越えた歓喜を物語る。まるで戦後の荒廃期・復興期を乗り越えて自由に世界に躍り出た日本人デザイナーの衣服のように、千差万別、爆発する芸術と温暖な気候と太陽の恵みへの讃歌がここにはじけている。
しかし、唯一変わらなかったものがある。土器底辺の丸底である。
土器を作るとき、ろくろの代わりにクジラの首の骨を台座にしていた伝統が最後まで続いたのである。もちろん尖った底の土器も現れた。しかし大多数は丸底のままである。尖ったものは鍋として火にあてるためであり、丸底のものは多くがドングリなどのあく抜き用であろう。これなら縁に飾りがあっても使用できるのだろう。
祭器?それはわからない。むしろ実用であり、であるのに理不尽を乗り越えて、必要だった理不尽なデザイン。今の主婦なら怒り出してしまうだろうその理不尽さは、弥生土器が女性中心に作られたに対して縄文土器が男性によった可能性を思わせる。そして女性たちにも、男たちの気候への地球への太陽への感謝が共有されたからこそ、定住化と採集生活と栽培生活の開始が見えてくるのである。
しかし・・・その温暖期は千年しか続かなかった。
三内丸山に寒冷期が訪れる後期後半~晩期には、縄文人は安定を求めて関東地方へと移住し始めた。そしてそこも寒くなると、南へ、西へ、そして大陸へと新天地、安住地を求める彷徨と漂白が続き、結果として、弥生人との出会いと文化・血脈のシャッフルと相克、反駁が始まり、多くの縄文人は寒さを覚悟しつつ、また東日本、北海道へと去らねばならなくなったに違いない。
日本の文化、東北人のがまんづよさや反骨心はこうしてできあがっていったのだろう。

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しかし、唯一変わらなかったものがある。土器底辺の丸底である。
土器を作るとき、ろくろの代わりにクジラの首の骨を台座にしていた伝統が最後まで続いたのである。もちろん尖った底の土器も現れた。しかし大多数は丸底のままである。尖ったものは鍋として火にあてるためであり、丸底のものは多くがドングリなどのあく抜き用であろう。これなら縁に飾りがあっても使用できるのだろう。
祭器?それはわからない。むしろ実用であり、であるのに理不尽を乗り越えて、必要だった理不尽なデザイン。今の主婦なら怒り出してしまうだろうその理不尽さは、弥生土器が女性中心に作られたに対して縄文土器が男性によった可能性を思わせる。そして女性たちにも、男たちの気候への地球への太陽への感謝が共有されたからこそ、定住化と採集生活と栽培生活の開始が見えてくるのである。
しかし・・・その温暖期は千年しか続かなかった。
三内丸山に寒冷期が訪れる後期後半~晩期には、縄文人は安定を求めて関東地方へと移住し始めた。そしてそこも寒くなると、南へ、西へ、そして大陸へと新天地、安住地を求める彷徨と漂白が続き、結果として、弥生人との出会いと文化・血脈のシャッフルと相克、反駁が始まり、多くの縄文人は寒さを覚悟しつつ、また東日本、北海道へと去らねばならなくなったに違いない。
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