考古学とはどうあるべきなのか。歴史学とはどうするべきものなのか?
過去の事実から知ることのできる、日本の歴史。歴史研究とはこうやるものだ、ということを教えたい。過去は恣意的に決めるものではないというスタンスの実例。




戦前、東京駅から福井県敦賀港、ウラジオストック、パリを一枚の切符で結んだ大陸鉄道があった話はNHKがテレビでもやったのでご存じの人もいるだろう。

欧亜国際連絡列車と呼ばれていたらしい。


●欧亜国際列車とは?
「正しくは「欧亜国際連絡列車」。列車そのものが国境を越える訳ではないので、
本当の意味の「国際列車」ではありませんが、しかしこの列車は日本の国内路線
(東京~敦賀)と、日本海を渡る船(敦賀~ウラジオストック)、
そしてシベリア鉄道を連絡して、東京とヨーロッパ諸都市を結ぶ経路を形成し、
共通の切符が発行されました。
(東京で終点であるパリまでの切符を買う事が可能な路線でした。)



*1912年に,上記ルートの接続列車として,新橋(当時,東京駅はまだない)~
金ヶ崎駅(1919年に敦賀港駅と改称)を結ぶ直通列車が開通します。
これが「欧亜国際連絡列車」の始まりです。


*第一次世界大戦、ロシア革命などによって一次中断することはあるものの、
1940年(第二次世界大戦が本格化する頃)まで列車は運行され続けました。
(1932年の国際連盟総会において、国際連盟脱退を宣言した松岡洋右一行の
往復にもこの経路を利用。)
この経路が利用されたのは、当時の海路では約40日かかった東京~パリ間を
17日間で結ぶものだったからです。


この「欧亜国際連絡列車」の乗り継ぎ駅。つまり東京を始発した列車に於ける
日本国内においての終着駅が金ヶ崎駅(1919年に敦賀港駅と改称、
戦後は貨物専用駅となる=2009年3月にその使命を終え閉鎖)であります。
*現在、旧敦賀港駅跡地には鉄道資料館がオープン。
(通票閉そく機の実物、列車や機関車の模型のほか、敦賀の鉄道史や
欧亜国際連絡列車の運行ダイヤなどもパネル展示。)



●杉原千畝と敦賀!
1940年には杉原千畝の「命のビザ」を持ったユダヤ人難民が、シベリア鉄道経由で
敦賀港に上陸し、敦賀から列車で横浜・神戸へ!そしてアメリカへと渡りました。
まさに当時の敦賀は、鉄道を中心としたヨーロッパと日本の玄関口でも
あったわけです。」
http://www.bitlabo.com/~ichiriki/tsuruga_tetsudou/turuga_tetsudou.html



「欧亜国際連絡列車とシベリア鉄道経由のルートでは、東京-パリ間をわずか17日間で結び、多くの人々や文化を運びました。このことから敦賀はシベリア鉄道経由でヨーロッパと結ぶ玄関口だったといえます。 ... 明治から昭和の戦前まで、 ロシアのウラジオストクへの航路と接続していた。」

https://tetsudo-ch.com/2735840.html




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東京駅と軍港のある敦賀を結んだのは琵琶湖である。政府と軍部と国鉄は、まずは海からの物資と人を運ぶための長浜~敦賀ルートを早々に架設し、やがて東京からダイレクトに敦賀金ヶ崎港駅(のちの貨物列車敦賀駅)をつなぐことで、大陸への最短距離を作ったのであった。


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山口淑子(李香蘭)や岡田嘉子も乗ったのか?東京駅からベルリンへの切符(産経デジタルより)
https://yahoo.jp/siDOfe



「 敦賀駅と敦賀港を繋いでいた敦賀港線(つるがみなとせん)は、北陸本線が滋賀県の長浜から敦賀までつながった1882(明治15)年の開業。戦前はウラジオストクへの国際航路への接続線として栄華を誇り、終着駅の敦賀港駅では東京からの直行列車・国際欧亜連絡列車が発着していました。・・・といっても、当時東京駅は未開業。正確には新橋駅からの直行列車です。」

「 夫の鉄幹を追いかけてパリに向かった与謝野晶子、国際連盟脱退で有名なのちの満鉄総裁/外務大臣・松岡洋右、ストックオリンピックで金メダルを目指した「いだてん」金栗四三・・・新橋(東京)からやってきた直通列車を敦賀港駅で降りた乗客は、ここから船でウラジオストクにわたり、シベリア鉄道を経由して欧州へ向かいました。」

http://www.gclass.jp/2019/08/2019.html
















東京からなぜ長浜経由か、東京の現代人にはちょっと不思議な気がするのではないかと思う。つまり東海道線で名古屋から長浜へ出て、新幹線なら米原であるが、そこから福井へ出たわけだが、古代史好きな人なら「あ」と思う人もいるかな?

これは古代の継体大王の考えた百済流通ルートとほぼ同じである。古代は東京からではなく、大和から京都を経て琵琶湖、琵琶湖から福井という鯖街道のひとつが往古から切り開かれる。琵琶湖がジャンクションになっていたわけだ。

鯖街道というのは三つルートがあった。琵琶湖経由、鞍馬経由、周山経由である。平安京時代では京都から周山街道、鞍馬街道、貴船街道の三つになるが、奈良時代までは木津川・宇治川~琵琶湖経由がメイン。瀬田が大事な関所だ。東国へ向かうなら瀬田から東回りで長浜から伊吹山を越える。欧亜鉄道は奈良時代とは逆向きに長浜を経由して北の米原経由で福井へ向かったのだろう。

要は、敦賀港の明治・昭和までの重要さが言いたいわけであるので、細部には間違いやずれがあるやも知れないが、ここでは気にしない。詳細はご自分で確認されればよいことだ。


敦賀つまり記紀で言うなら気比つまりツヌガ(角賀)だが、なぜここに都怒我阿羅斯等伝承があり、小浜や舞鶴に軍港があるかということを考えて欲しいわけである。少なくとも、6世紀の継体大王がいたという時代に、やたらに福井が歴史に出てくる。継体が現れる前には、前例的に都怒我阿羅斯等と敦賀、応神天皇と気比大神の名まえの交換といった、継体と福井のための前置きが置かれるのである。その前には出石、豊岡のアメノヒボコを重視していたのが、日本海へ出るルートが継体から変わったわけである。いわゆる兵庫姫路カンナミ~城崎ルートでの日本海コース変更は、言い換えれば古い出雲~丹後氏族よりも、新しい若狭~越前氏族の重視を意味していた。

その理由はなにか?そういうことを考えるのが歴史だと筆者は考えている。
少なくとも、石器を捏造して有名になることが歴史研究でないことは確かだし、歴史書記述をこねくりまわして恣意的に自分の考え、あるいは先達の果たせなかった夢を切り開こうとかいう不純な文学的動機などは不要のものと考えている。

藤原某が石器を捏造する背景には、芹沢長介の果たせなかった「日本人は3万年以上前にきて」「原人も日本から出る」といったような、背後に見え隠れする日本人至上主義=軍部と同じ民族主義的イデオロギーのあった明治の夢を、現代の考古学者や歴史家が背負ってやる不純で、人間的すぎる、非科学的で主観的な学問のあり方が存在することは忘れてはならない。人間的夢追及の結果としての石器捏造、原人人骨捏造であると考えることが日本考古学信頼回復への近道だろう。

先達を偉大だとか、神だったとか、権威だと思うことこそがすでに邪教だと言える。


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気比神宮へ参拝されたら是非廃線跡や金ヶ崎港駅跡などもご訪問を。
もちろん安倍晴明神社もあるぜよ。