筑紫の水沼君 つくしのみぬまのきみ
日本書紀には 『即ち日神の生(あ)れませる三(みはしら)の女神(ひめかみ)を以ては、葦原中國の宇佐嶋に隆(あまくだ)り居(ま)さしむ。今、海の北の道の中に在(ま)す。號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰(まう)す。此筑紫の水沼君等の祭(いつきまつ)る神、是なり』 とある。
物部氏の史書と言う『先代旧事本紀 せんだいくじほんぎ』略して「旧事本紀 くじき」は、一部分がのちに加筆された偽書ではあるが、真実の部分も多い書物だととらえている。なにより記紀の書かない部分にも触れているのはありがたい。
そこに、筑紫の水沼君は物部連の子孫であると書いてあり、宇佐の三女神を宇佐の北にある「海の北の中に今はますとも書いてある。海の中の道主貴とは、海の中道つまり志賀島の大神か、そうでないなら宗像神社の海中の島々のうち沖ノ島を指すと思われる。
さて、物部氏が筑紫に入ったのは継体大王の6世紀、磐井の乱平定のためであるから、記紀には「竺紫物部」とある。人物としては物部麁鹿火(あらかひ)からである。だから宗像氏も物部氏から出たのなら、それ以後になるはずだ。しかし水沼君(水間君)の記事は、筑後三田川=神崎郡より筑後川(みづま川)を遡った三潴郡の人で、初記事は景行天皇紀にさかのぼる。ただし記紀の景行天皇あたりの天皇は創作であろうし、大和が筑紫に由来することを証拠づけするためにある人たちだから、記事そのものは実際は継体大王あたりのことを前倒ししてあると考えてかまうまい。
さて、以前も書いてきたが、吉野ヶ里のある神崎郡は、記紀記録から考えれば神崎村(町)の東に隣接した三田川村に中心地が想定できないかと以前から考えていて、なぜ三田川をもっと発掘しないかとやきもきしている。というのも、「みたがわ」はかつて「めたがわ」で、文字も三田ではなく末多、米多と表記していたからだ。「まった」「めた」であるが、「まつ」は松で、百済王族の家紋を表す名前だ。大阪府枚方市の百済王一族は天皇から「三松」の姓をさずかったが、その松の木とは神獣鏡にある笠松を言うと自説を持っている。あくまでも妄想だが。笠松は大王の衣笠・蓋を意味する。古墳時代なら装飾古墳に描かれる翳=さしばである。大王の印。
百済武寧王の叔父で、日本にやってきた記事があるのは東城王であるが、呼び名は末多王(めたおう)である。一方、筑後川にも末(米)多君(めたのきみ)がいた。この「めた」が後年「みた」に音韻変化して今の三田川地区につながる。「かんざき」は「神の城」であるから、王がいたところという地名であり、百済東城王がいた地名となる。百済は当時、高句麗に責められていて、日本に一時的避難の記事が記紀に出てくる。武寧は筑紫の島で生まれたので斯麻王(幼名「しま」)と言った。
その斯麻王を連れ帰って王にしたのが、先代王だった叔父の末多王である。自分はそこで死んでいることになっているが、王を譲ると吉野ヶ里に入ったのではないか?歴史からは消える。しかし継体大王は武寧王とは盟友となった。互いに死んだときには贈り物が届いた仲である。武寧の棺は継体が送った日本の楠製品だ。継体へは銅鏡が送られた。隅田八幡宮人物画像鏡。
その後、天智天皇の時代、百済王になる余豊璋が『日本書紀』に登場する。
その弟の天武の時代になってようやく筑紫宗像一族の名前が登場した。胸方君徳善である。娘を天武の妃に出したからだ。それまで宗像氏の人名は記録に出ていない。その後も出てこない。その時代のみ、徳善の墓前後だけが前方後円墳を許されるが、もはや大和ではそれは古式の墓になっていしまっていた。代わりに最大級の墓室と、海外からの贈答品が莫大な数量で見つかった。宗像氏が海外貿易の商人だったことの証である。彼らは物部氏との婚姻で、宗像の女神=スサノオの娘三人の神を宗廟宇佐神宮の神として祭ることを許される。この宗像三女神=宇佐比売神こそがアマテラスの分身。つまり太陽神である。つまり伊勢が『日本書紀』上の天皇祖神・アマテラス大神なら、宇佐と宗像はスサノオ=紀氏とアマテラス=天皇家の娘を祭った第二の宗廟なのである。そこに神功皇后と応神天皇という伽耶由来の王家の祖人伝説をオブラートしたのは田川・香春の秦氏であろう。
それにしても『日本書紀』編纂当時、紀一族で最有力な地位だったのは紀臣であり、不比等とも盟友関係にあった人物・・・紀臣が神話の重要なキーパーソンになる。
「しかし、これまで検討してきたように、スサノオは紀伊国で信仰されていた神であり、その神格は、シャーマンの鍛冶神であった。
そして、古代の北方の騎馬遊牧民民族では「原始首長=シャーマン=鍛冶師」でああった。
また、「新羅第二代の王「次次雄」が、巫を意味する、「ススング」「スサング」などの語と同系であること、この語から「ススウ」「スサウ」と変化し、「スサヲ」「スソウ」となることから、スサノヲの語原をやはり韓国語の巫を意味する「ススング」「スサング」に求め、スサノヲの呪術師的、巫覡的性格が、スサノオの命名の原因であったと考えらえる。
だから、スサノヲは農業神ではなく、出雲国で信仰されていた神でもない。
スサノヲは、紀伊国で渡来系氏族の紀の川北岸の紀氏集団が信仰していた神であった。
紀の川北岸の紀氏集団は、秦氏と同時期に、朝鮮半島南部の倭人集団の王であった葛城氏と共に渡来した、金官伽耶国の貴族層であった。
渡来時の前後の時期には、金官伽耶国には、前秦の遺民の貴族層も移住してきていたと考えられ、彼らは、秦氏と共に渡来したと考えられる。」
https://ameblo.jp/ufjtmb26/entry-12272452729.html
スサノオ神話の大元が紀州、紀臣にあることはもうすでにここでも分析済みである。記紀はそれを出雲に持って行ったにすぎず、理由は継体時代から飛鳥時代まで、宍道湖の港が欲しかったからである。よって大和は古墳時代から出雲に銅鐸の結界を作るが、筑紫も銅剣の結界を作り、両社は出雲で対立してきた。それを後年、両社が共有することで平和になるのでは?それで銅鐸も銅剣も埋められた?
佐賀県基肄郡、大崎町の山下景比売伝承と大崎神社と武内宿禰・・・紀角宿禰こそが武内宿禰のモデルだったかも知れぬ。
いずれにしてもアマテラスもスサノオも、考え出された時期は持統天皇即位直前である。それまではそんな神々は氏族の氏神でしかなかっただろう。それを持統女系天皇家のための祖先神にするために、紀氏と不比等の画策で記紀神話はできあがるのである。
神話を事実に見せるために、魏志卑弥呼まで持ち出そうとしている。卑弥呼などいたかどうかも定かでなく。邪馬台国もあったかどうかもわからないのにだ。なぜ?中華には邪馬台国や女王国といった空想の国家が海中にあって、呉越をにらんでいると思わせる必要があった。すべては空想の国々だ。日本に行ったわけでもなく、ずべて海人族から聞きづ手で書いたSFファンタジーでしかない。
だまされ、うそを書き連ねているものたちが、金を儲けているだけさね。あほらしい。

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