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●織田信長故郷は越前・織田氏出自は高句麗か?
1越前織田・劔神社
「劔神社の創祀は悠久の昔、遥か北に仰ぐ座ヶ岳の峰に素盞嗚大神を祀り、〝劔大神〟と称えたことに始まります。
神功皇后摂政の頃、第十四代仲哀天皇の第二皇子忍熊王は、劔大神の御神威を頂き当地方を治めることができたことを感謝し、現在の地に社を建て〝劔大明神〟と仰いだことを社記は伝えています。
奈良時代より祈願の霊場と尊ばれ、朝廷をはじめ多くの人々から厚い信仰を受けてきました。現在所蔵する国宝の梵鐘は、第四十九代光仁天皇の御奉納といわれています。
中世以降は、朝倉氏を始め武将の崇敬も厚く、特に織田信長公は氏神と崇めて、格別の信仰をもって神領を寄進するなど、神社を保護しました。
江戸時代の末には、伏見宮家の御祈願所と定められ、拝殿の御寄進をいただき厚い尊崇をうけて今日に至っています。越前国二の宮として一の宮の氣比神宮と共に、福井県民はもとより県外の方々からも篤い信仰を受けている神社です。」
「当社の鎮座地である越前町織田は、織田信長公の祖先の故郷です。越前織田荘の荘官として、また越前国二の宮劔神社の神官として大神に仕えてきた由緒ある家柄でした。」
https://www.tsurugi-jinja.jp/yuisho/ご由緒/
場所・福井県丹生郡越前町織田金栄山
ご祭神
素盞嗚大神(すさのをのおおかみ)
氣比大神 (けひのおおかみ)
忍熊王 (おしくまのみこ)
スサノオは新羅由来の紀州和歌山木ノ氏つまり紀氏の祖人
気比大神は新羅由来の都怒我阿羅斯等(新羅王子ツヌガアラシト)建国由来の敦賀一の宮である
忍熊王(おしくまおう)は仲哀天皇の子供でヤマトタケルの甥である
さて、福井県越前町には織田という字があり、ここが織田信長祖先の出身地だとされている。そこにある劔神社は織田信長も奉斎した歴史があり、境内に小社があって信長自身が祭られている。
2 小松建勲神社
「◆ 神功皇后摂政の頃、第十四代仲哀天皇第二皇子、忍熊王が賊徒討伐の際、素盞嗚大神の御神助を得て平定されたので、王がその神恩報謝のため織田の地に社を営み、それまで座ケ岳(当社、北に位置)の峰に祀られていた素盞嗚大神の御神霊を“劔大明神”と仰ぎ奉られたのが当社のはじまりと、社記は伝えています。
奈良時代より祈願の霊場として朝廷をはじめ多くの人々から厚い信仰を受け、現在所蔵する国宝の梵鐘は第四十九代光仁天皇による御奉納といわれています。中世以降武門の崇敬も厚く、特に織田信長公は氏神の社と崇め、格別の信仰をもって神領を寄進し神社を保護しました。」
tutuji.com/tsurugi/keidai02.htm
御祭神:
平重盛公、織田信長公
織田信長家紋はスサノオの神文・木瓜(もっこう=キュウリの輪切り)であるが、織田氏は平家出自を名乗り、平家アゲハチョウを家紋にした。信長はスサノオ、平重盛を信仰したが、同時に武家の独立の祖・源頼朝も崇拝していたという。
地名「小松 こまつ」は高麗津で、高句麗由来地名である。ただし半島が新羅に寄って統一されて以後は「新羅」が朝鮮の呼称となり、その後「高麗」と呼ばれたので、ここで言う新羅や高麗がそれぞれ、その時代に新羅、高句麗だったという証明は難しい。
しかし織田信長先祖がもし滅亡高句麗から逃げてきた渡来系氏族だったとするならばの話だが、かなり面白い妄想が可能になるだろう。これはそういう筆者の、古代から中世をつないでしまおうという、無謀な妄想である。
信長が浅井・朝倉つまり滋賀と福井(近江国と越前国)をあれほど欲したかについて、考えているのは、古代継体天皇がやはり近江琵琶湖から越前三尾へのルートを持っていた人ということに非常に似ていることに気づくはずだ。信長は尾張の人だから、関ヶ原から日本海へ出るには、伊吹山を越えて、安土=息長坂田へ出て、のちの鯖街道のような道で越前へ出なければならない。継体はもともと越前三国・九頭竜川の母方三尾で育ち、近江の息長氏✖葛城氏の子・神功皇后の子孫なので、伊吹山は越えなくてもよかった。ただ宮のあった淀川から山背・近江大津~安曇川から福井へ出られた違いはあるが。
しかし記紀のヤマトタケルは、尾張から伊吹山を越えてゆき伊吹山の神に祟られ死ぬ。タケルは熱田の尾張宮簾姫に草薙剣をあずけたまま伊吹山に入った。その理由は伊福部氏という製鉄氏族がそこで剣を製造していたからかも知れない。伊福部の剣を欲して不破を越えようとしたが、山の白鹿神に魅入られて=伊福部氏によって殺されたのかも知れない。
不破は天武天皇も東国尾張氏の力を借りて壬申の乱に成功したと書かれる。二人ともに尾張氏の助けがあったというから、天武にはヤマトタケルの要素が持たされていたとみている。
さて、信長は高句麗復活を夢見たのか?新羅交易を考えたのか、いずれにせよ浅井朝倉を攻める。いわゆる小谷城・姉川・金ヶ崎の攻防である。今朝、実は「英雄たちの選択」がこれを扱っているのを見ながら、この記事がひらめいたのだった。NHK大河「麒麟が来る」もちょうどそのあたりまで来たころだ。
なぜ信長は琵琶湖にこだわり、祖先の故郷福井にこだわるのか?関ヶ原から西国へ入る唯一の道だと言うのなら福井はいるまい。大津から宇治川でも木津川でも山背へも大和へも入れる。なぜ越前福井か・・・それは日本海へ出るためであろう?ほかになかろう。ではなぜ日本海なのか?である。
そこは半島の鉄への最短コースだったからではないか。まずは鉄砲のために鉄が大量に必要だ。しかし日本には砂鉄しかない。鉄鉱石がいる。だから信長の浅井朝倉攻めは、その指針の先には李氏朝鮮との交易がまずある。
では麒麟・明智光秀はなぜそのあと本能寺で信長を殺したのか?信長の朝鮮侵略・・・これをあたかも筑紫君磐井のように阻止したい?ならば明智は新羅系渡来人の子孫か?となる。
「あけち」とは土地を開いたという地名で、光秀一族は地名名乗りであるから、特に岐阜の明智とは関係ない場所から来た人であろう。信長も織田は地名名乗りだ。ほとんどの中世武士は地名を名乗るもので、出自も源平藤橘(源氏・平氏・藤原氏・橘氏)を自称するだけであり、直接その地名や四氏族とは無関係な人なのである。
秀吉を、なぜ信長は筑前守としたかを考えると、朝鮮半島の見張り役(いずれは朝鮮攻略するから?)として、秀吉の城を作る能力を買ったからだろう。実際、信長死後、秀吉はまるで信長の意志を引き継ぐかのように、肥前名護屋城を建て、実際に朝鮮攻めをやった。その最終目的は中国だったとも言われる。その意志はおそらく信長由来ではないか?
一方、光秀は、一方では神・天皇になろうかという信長にあきれてもいただろう。光秀はかつての足利将軍と対立した楠木正成のごとくに天皇を守ろうとしてもおかしくない律義さの人である。光秀が道三の岐阜(美濃・土岐)にいたのかも不思議である。明智一族先祖の最初の目的が見えない。光秀は道三を失い、足利につき、そしてまた夢破れて信長についたが、信長は彼をどこの大名にした?山城北部の由良川の先、丹波国だ。それがいかに信長が光秀を信頼していたかの証明になる。丹波は日本海に面するからだ。越前若狭湾と並んで宮津湾も、海外交易の良港を持つ。越前には数多くの潟湖があった。宮津湾は北国攻略の要でもあった。信長の視線は広い。世界、中華、東北・北海道そしてカムチャッカまでを見ている。彼は地球儀を毎日見ていたと宣教師フェノロサは書いた。信長は世界侵略を夢見たのか?そういうスケールの人である。
本能寺の変は、家康と秀吉が「させた」かもと前回書いた。しかし、光秀には半島新羅人子孫としての目があったのかも知れない。
その2へ続く
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