坂越(さこし)の大辟(おおさけ)神社や、世阿弥「風姿花伝(花伝書)」には「河勝は祟る鬼」という伝承が記録されている。
なぜ河勝は祟るのか?それは河勝が蘇我氏に組した闇の暗殺者で、歴史の闇である障礙神 (しょうぎじん=マハーカーラのごとき宿神=後戸の神=影のフィクサー=月氏族)だったからだろう。しかしそれは蘇我氏台頭までのことで、のちには藤原氏に組した。その証拠は松尾神社の勘定に藤原不比等が関係した記録が松尾大社にあるからだ。また平安遷都も秦氏は藤原氏との婚姻で関わった。時の権力者は蘇我に代わって藤原氏。
そのように秦氏は、権力の影の存在=月のまた月氏族である。その月読を祭ったのは壱岐氏という海人族。壱岐対馬の海人・海士たちだ。だから記録が少ない。記録が少ないから「謎の氏族」となり、後世の人々が興味津々で空想するところとなった。
やれ、イスラエルだの、やれ景教・ネストリウス派キリスト教徒、やれ秦の始皇帝の子孫・・・まあ、勝手な妄想があとを絶たなくなった。金になるからである。とんでも説は常に金になる。その始まりは明治時代の佐伯教授から。明治時代は日ユ論が沸騰したわけだが、その理由は昭和期ドイツとの同盟で再発する、そもそも日本人は優秀だという曲がった民族主義にある。日本人がもともと新興国家で世界に参加したい明治期に、そういう至上主義がはやりにはやった。つまり世界的にはアイデンティティがない後進国だからこそ、ステータスを天皇や、神武や、アマテラスに求めた結果、聖徳太子はキリストのようで、そのキリストはユダヤ人の聖人だから、太子もその子孫・・・。最初はユダヤ人差別の立場から、なぜか一転して日本人はユダヤと同族で、キリストの12使徒の氏族のうちのひとつだった・・・と、まあ奇天烈な優等民族思想が生まれた。けったいな時代だった。
河勝が祟り神だと言われたのは、八幡神も稲荷神も同じで、聖徳太子がそうだったからである。そのはじまりは息子の山背皇子の不遇にある。入鹿が殺したと書かれたが、実際に山背や古人が不都合だったのは中大兄ただひとりなのである。つまり天智は無能な政治家だが、鎌足のおかげで皇太子になれた。つまり山背も古人も殺したのは蘇我氏ではなく藤原氏である。
結果的に藤原氏は蘇我氏に代わって政界のドンになれたのだから間違いない。
天智はおろかにも、その後白村江で大失敗。戻ってきてもなかなか大和には帰れず、九州に残留。戻ってきても民衆からの評判がよかろうはずもない。それでおじの孝徳まで裏切り近江遷都。これがまたまた悪評。ついに靴を残して狩りの最中、馬から落ちて頓死した。
つまり馬の鞍のひもが切れていたのだ。イコール暗殺である。誰に?藤原氏から秦氏へ指示。
見限られたのである。
そこでまた皇位争いが。大友と天武の壬申の乱・・・しかしそんな考古学的証拠はなにひとつない。藤原氏は天武を選んだ。しかし天武が理想としたのは蘇我氏の政治。孝徳もそうだった。ゆえにこれも殺した挙句、後継者はすべて抹殺。御しやすい天智の娘で天武の妻だった正当性が強い持統女帝を担ぐ。
聖徳太子は祟り神となってしかるべき入鹿そのものの逆転したイメージ。蘇我氏が祟らぬようにその子孫である厩戸を聖人に。ところが救世観音は包帯でぐるぐる巻きにして隠匿。これも藤原氏が。
対外的には聖人だったとして蘇我氏の祟りを畏れ、『日本書紀』にも一文たりとも太子や入鹿の祟ったことなど書かない。河勝の祟りなども書かれない。書けば祟るからだ。入鹿だけは聖人にはできない。たとえどんなに素晴らしい政治をして天皇家を盛り立てた偉人だったとしても。だから蘇我や秦河勝を知るモノから藤原氏はバッシングされたはずだ。それを避けるための聖徳太子、河勝の偉業記事でごまかしたのである。支持率が落ちた政治家のやることはみな同じ事さね。
広隆寺には毎年、天皇即位のたびに、今でも!即位儀礼で身に着けた衣冠束帯が、なぜか贈呈される。理由はご本尊の弥勒菩薩のモデルが33歳当時の厩戸だからとされているそうな。つまり祟りを畏れて送るのだろう。きっと令和の天皇もそうしただろう。
それは結局、聖徳太子=蘇我入鹿=祟り神と言っていることになるんじゃないだろうか?知らないがね。

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なぜ河勝は祟るのか?それは河勝が蘇我氏に組した闇の暗殺者で、歴史の闇である障礙神 (しょうぎじん=マハーカーラのごとき宿神=後戸の神=影のフィクサー=月氏族)だったからだろう。しかしそれは蘇我氏台頭までのことで、のちには藤原氏に組した。その証拠は松尾神社の勘定に藤原不比等が関係した記録が松尾大社にあるからだ。また平安遷都も秦氏は藤原氏との婚姻で関わった。時の権力者は蘇我に代わって藤原氏。
そのように秦氏は、権力の影の存在=月のまた月氏族である。その月読を祭ったのは壱岐氏という海人族。壱岐対馬の海人・海士たちだ。だから記録が少ない。記録が少ないから「謎の氏族」となり、後世の人々が興味津々で空想するところとなった。
やれ、イスラエルだの、やれ景教・ネストリウス派キリスト教徒、やれ秦の始皇帝の子孫・・・まあ、勝手な妄想があとを絶たなくなった。金になるからである。とんでも説は常に金になる。その始まりは明治時代の佐伯教授から。明治時代は日ユ論が沸騰したわけだが、その理由は昭和期ドイツとの同盟で再発する、そもそも日本人は優秀だという曲がった民族主義にある。日本人がもともと新興国家で世界に参加したい明治期に、そういう至上主義がはやりにはやった。つまり世界的にはアイデンティティがない後進国だからこそ、ステータスを天皇や、神武や、アマテラスに求めた結果、聖徳太子はキリストのようで、そのキリストはユダヤ人の聖人だから、太子もその子孫・・・。最初はユダヤ人差別の立場から、なぜか一転して日本人はユダヤと同族で、キリストの12使徒の氏族のうちのひとつだった・・・と、まあ奇天烈な優等民族思想が生まれた。けったいな時代だった。
河勝が祟り神だと言われたのは、八幡神も稲荷神も同じで、聖徳太子がそうだったからである。そのはじまりは息子の山背皇子の不遇にある。入鹿が殺したと書かれたが、実際に山背や古人が不都合だったのは中大兄ただひとりなのである。つまり天智は無能な政治家だが、鎌足のおかげで皇太子になれた。つまり山背も古人も殺したのは蘇我氏ではなく藤原氏である。
結果的に藤原氏は蘇我氏に代わって政界のドンになれたのだから間違いない。
天智はおろかにも、その後白村江で大失敗。戻ってきてもなかなか大和には帰れず、九州に残留。戻ってきても民衆からの評判がよかろうはずもない。それでおじの孝徳まで裏切り近江遷都。これがまたまた悪評。ついに靴を残して狩りの最中、馬から落ちて頓死した。
つまり馬の鞍のひもが切れていたのだ。イコール暗殺である。誰に?藤原氏から秦氏へ指示。
見限られたのである。
そこでまた皇位争いが。大友と天武の壬申の乱・・・しかしそんな考古学的証拠はなにひとつない。藤原氏は天武を選んだ。しかし天武が理想としたのは蘇我氏の政治。孝徳もそうだった。ゆえにこれも殺した挙句、後継者はすべて抹殺。御しやすい天智の娘で天武の妻だった正当性が強い持統女帝を担ぐ。
聖徳太子は祟り神となってしかるべき入鹿そのものの逆転したイメージ。蘇我氏が祟らぬようにその子孫である厩戸を聖人に。ところが救世観音は包帯でぐるぐる巻きにして隠匿。これも藤原氏が。
対外的には聖人だったとして蘇我氏の祟りを畏れ、『日本書紀』にも一文たりとも太子や入鹿の祟ったことなど書かない。河勝の祟りなども書かれない。書けば祟るからだ。入鹿だけは聖人にはできない。たとえどんなに素晴らしい政治をして天皇家を盛り立てた偉人だったとしても。だから蘇我や秦河勝を知るモノから藤原氏はバッシングされたはずだ。それを避けるための聖徳太子、河勝の偉業記事でごまかしたのである。支持率が落ちた政治家のやることはみな同じ事さね。
広隆寺には毎年、天皇即位のたびに、今でも!即位儀礼で身に着けた衣冠束帯が、なぜか贈呈される。理由はご本尊の弥勒菩薩のモデルが33歳当時の厩戸だからとされているそうな。つまり祟りを畏れて送るのだろう。きっと令和の天皇もそうしただろう。
それは結局、聖徳太子=蘇我入鹿=祟り神と言っていることになるんじゃないだろうか?知らないがね。
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