秦河勝坂越伝承についての疑義シリーズ。

秦河勝(はたのかわかつ)が兵庫県の坂越へ逃げたという伝承が坂越の大辟(おおさけ)神社には存在する。その時代は、蘇我入鹿が実質的王権ともいえるようになるときから一巳の変の間だと言われる。いわゆる「入鹿の乱」を逃れて=避けて、河勝は兵庫の生島へ逃れたという伝承だが、このとき河勝の年齢は80をとうに過ぎている。それが生島の山へちょいちょい上っていたという伝説もあり、とてもおでhないが80代の老人にそんなことができたはずもないわけで、坂越伝説には信ぴょう性はない。

だが、蘇我入鹿の圧政を逃れて・・・にはある程度の真実が見え隠れするところがある。

厩戸皇子のお気に入りだった河勝には、不遇の厩戸を復権するべき動機がある。そして蘇我入鹿はそれが気に入らなかっただろう。その理由は厩戸を聖徳太子にしてゆく神聖化にあるのではない。入鹿が即位させたかった古人大兄皇子と河勝が即位させたかった山背皇子という対立にあったと考える。

厩戸を聖徳太子にイメージアップしたのは、最初秦河勝だった可能性もある。また、もし河勝が入鹿と対立して兵庫へ一時的に「おおさけ」したのならば、一巳の変で入鹿が殺されたならば、当然、逃げた坂越から河勝は京都へ戻ったはずなのに、そういう記録はない。そもそも年齢的に、そういう往来は河勝には無理なのである。

筆者はこの伝承は、秦氏眷属、それも身分的には秦氏血族でもない食農民秦部たちが作り出した伝説であろうと考えている。つまり秦河勝は実際には坂越大辟などやってはいないだろうと。

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坂越大辟神社





関裕二はこの問題を真剣に謎として考えたらしく、伝説であるとはとらえなかったようだ。(『伏見稲荷の暗号 秦氏の謎』2012)

そもそも河勝がなぜ蘇我本家から逃げねばならないか?そんな理由などない。そして一巳の変で入鹿を殺すなどという理由もまたない。ならば坂越へなど逃げる必要もないのだから。ところがあとを受けた藤原氏も天智天皇も、まったく秦氏を復権させなどしていない。むしろ秦氏はないがしろで、桓武時代になってようやく平安遷都で山背の土地を譲り、藤原氏と婚姻して、やっと復活する。

関は、秦氏が全部放浪の民=賤民になりさがって歴史から消えたと思い込んでいるようだが、どっこい明治時代、官位についた政治家や官僚の大半が、秦氏出自を名乗っており、消えてはいない。平安時代にも秦下、秦中氏は松尾を中心に、大いに繁栄、右京区の一角を占めた。

秦氏の大問題は河勝には存在せず、むしろその後稲荷信仰と八幡信仰が、全国10万にのぼる大小神社の大半の合わせて7万社もの神社が勧請され、今も続くことにある。

しかし、この理由は、稲荷を商人と職農民が、八幡を武家が信仰したからだとはっきりしている。その根源には日本人の多くに海人がいたことが大きい。海の民の多くは被差別の神人であり、贄を天皇家や貴族や神社に差し出す代わりに税を免除された非人である。その海人は往古から大陸を往来できた拉致外の民である。その信仰は太陽信仰、月信仰だ。太陽信仰は天皇家が取り込み、月信仰は代々の宰相一族が取り込む。秦氏は彼ら海人との同族化を推し進めた氏族だ。鴨氏しかり葛城氏しかりである。なぜなら秦氏が最初から倭人の舟で伽耶金海から船出して日本へ来たからである。海人なくして渡海はできない三世紀のことである。なぜ三世紀か?京都府宇治市や深草に朝鮮式弥生遺跡が出るからだ。


関は考古学をあまり知らない。文献ばかりで推察する傾向が強い作家だ。参考にならない。

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