これは未来へのいろんな問題がある。
例えば現代人は、今回の感染症流行に対して引きこもり対策で対抗した。引きこもるということは、あらゆるコミュニケーションが寸断され、経済は大停滞するというデメリットを伴ったわけだ。すると当然国家的には大損失の数か月となった。介護施設などは特に、すべを失って機能できなくなってしまった。
遺跡から見る縄文社会、先土器時代社会、あるいは遅れて滅びたとかつては言われていたネアンデルタール人などの弱者介護は、感染があろうとなんだろうと、 一族ぐるみの介抱をしていたことが報告されている。
家族制度では、すでに戦後の現代社会では崩壊寸前であったところに、新型コロナはそれをダメ押しするかのように、それまでの核家族すらも否定する、たったひとりの最小単位でしか生き残れないまでの「人類生き残り最終回答」をつきつけてきたと言えないか?
ひとりものなら、すでに人生そのものがほぼ引きこもりと同じ状態。それが続いただけだったはずだ。
年金組、あるいは生活保護組は、さらに「何も変わらぬ」それがひとりものならなおのこと、一切これまでと同じだったはずである。
一番がんばらねばならなくなったのは現役組だけだったと言える。
彼らには「明日がない」。将来の年金も期待できない。だから政府は生活保護を進めたと思う。
そもそも介護とは、家族でもない他人、その専門家=プロ=営利を背景にした他者が、赤の他人をみるのが建前であり、そこには核家族では親を観られないという前提が存在する保険制度である。そこにはつまり「おれには親の面倒などみられない」というはなはだ罰当たりな前提も存在する。だから当然介護費用は病気よりも高額という事実がつきつけられたわけだ。
縄文人以前は、一族が介護した。
以後もそうだった。
しかし今は違う。
だから奇妙なゆがんだ思想で、老人やある種の看病を受けねばならぬ施設の患者たちを、「皆殺しにしてよい」「必要がない」などという狂った「神思想」の犯罪者が登場することになった。
現代人の生き方が「それをさせた」と言ってしまったら過言だろうか?
二親を観た自分としては、こう言いたい。
「介護をしたから兄弟・親戚から差別された」と。
親を観たことを偽善とされ、やっかまれ、最終的に、親族一同から総すかんされたのが筆者でる。
子としてまっとうな苦労をやったあげく、筆者は一族に見捨てられた。縄文人とのその巨大な大差は、いったい現代人が進化したのかという疑問しか生まず、精神は壊れかけた。
そこから立ち直るために、筆者には10年以上の時間が必要だった。今も、心は元に戻ってはいない。
しかし、一族はその責任はとらない。そこにまったく気づかないからである。
だからわたしはひとりで暮らしている。
心は一生元には戻るまい。
人間は嫌いである。
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