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「我が国の伝染病史は、縄文遺跡に現れた結核や寄生虫症に始まるが、有史以後は『日本書紀』の崇神天皇五年に全国. 各地で疫病の大流行があった記事がもっとも古い記録である。」
日本医師学会 http://jsmh.umin.jp/journal/49-1/11-13.pdf

『日本書紀』
五年、国內多疾疫、民有死亡者、且大半矣。

六年、百姓流離、或有背叛、其勢難以德治之。是以、晨興夕惕、請罪神祇。先是、天照大神・倭大国魂二神、並祭於天皇大殿之內。然畏其神勢、共住不安。故、以天照大神、託豊鍬入姫命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城神籬。神籬、此云比莽呂岐。亦以日本大国魂神、託渟名城入姫命令祭、然渟名城入姫、髮落體痩而不能祭。

大意
崇神天皇即位5年、国内に疫病が多く発生して、民の半分以上が死亡した。
即位6年、百姓は流浪し、なかには背くものもあり。
疫病の勢いはすさまじく、徳を持って治めることは難しかった。
天皇は眠らず朝まで神祇に祈願した。
これより先に、天照大神・倭大国魂二柱の神を宮殿の中に並べて祀っていたが、この二柱の神の勢いが強く畏れおおく、共に住むには落ち着かなくなっていた。
そこで天照大神を豊鍬入姫命を付けて、倭の笠縫邑に祀ることにした。
また磯堅城に神籬を建てた。
日本大国魂神は渟名城入姫を付けて祀ったが、渟名城入姫は髪が抜け落ちて祀ることが出来なかったという。
https://nihonsinwa.com/page/961.html から編集



これが文献上最古の疫病記事である。
その後も『日本書紀』には疫病記事は絶えない。
崇神天皇時代のこの疫病流行は、その原因を大物主の祟りと考えたようである。
ゆえに崇神は、代々宮中で祀ってきたアマテラスと倭大国魂を、大物主に対しては効果がないと判断したのか、あるいは神が大物主の祟りを受けぬようにか、外へ動かしたという。祖先神と地主神は大王家にとっては最重要であるにも関わらず、祟りを畏れるあまり、祭祀場所を移すとは非常に異例のことだ。

現代の皇居にはアマテラスはちゃんと祀ってあり、本体は伊勢神宮に祀ってある。一方、倭大國魂は今も笠縫の大和神社に祀られている。アマテラスが天皇の祖先神として、いつ宮中に戻ったかという記事は見当たらないが、想像するなら、まずは持統天皇以降のことだろう。想像にすぎないが、天皇制が開始された時代が天武死後~持統朝ゆえに、藤原氏によって戻されたと考えるがよいかと思える。



●疫病を経験した天皇
崇神
垂仁
欽明
敏達・聖徳太子
聖武
嵯峨など枚挙にいとまなし






一方、考古学や古病理学では、人骨、生物骨のストレス・マーカーから、疫病を推定できる。
世界史ではローマ帝国が天然痘で滅亡した例が著名だろう。
ストレス・マーカー
 


「ストレスマーカーとは、生体においては、ストレッサーに応じた防御・回復反応の過程で増減す る化学物質を指すことが多い。一方、古病理学的ストレスマーカーとは、骨や歯に記された栄養 不良や貧血、消耗性の全身性疾患などの痕跡を言う。代表的なものに、歯や脚の骨に現れる成 長遅滞線(エナメル質減形成やハリス線)、眼窩の上壁に生じ、鉄欠乏性貧血による骨髄の代償 性過形成の結果と考えられている眼窩篩(クリブラ・オルビタリア)がある。ここでは、以上の一般的 なストレスマーカーに加え、前述の傷病痕等も合わせてストレスマーカーと称する。」
日本古代の疫病とマクニール・モデル   本庄総子 http://www.shigakukenkyukai.jp/oshirase/2019reikai_youshi.pdf


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このように日本古代においては、疫病でのパンデミック現象や天皇の交代が起こることもあった。疫病や災害は当時、十分な「王殺し」の理由になれた。

卑弥呼は中華三国の争乱によってどこにつくかに不安感を持った倭国王族たちのいがみあいをまとめきれなくなり、ちょうど起きた日蝕を理由に殺された可能性もある。その後、また女王臺與が立つのは、ちょうど『日本書紀』アマテラスの岩戸隠れからの再登場に合致する。

継体大王の死も、その直後の二人の子供の死も、実は流行り病が原因かもしれないし、あるいはそれを理由に政治的に殺されたやも知れぬ。ならばそれは蘇我満智~稲目が関わるのか?


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さて、疫病とは関係はないが、今の天皇の始まりはどこに求めればいいかを考えてみると、歴史研究家の磯田道史も番組「英雄たちの選択」内で発言したように、継体大王に求めるのがよさそうだ。継体より前の『日本書紀』天皇が今の天皇家と直接血縁であったかどうかは、はなはだ難しい。

ただし、前方後円墳という墳墓形式は3世紀から変わらず、この仮定と矛盾してしまう。墳墓形式が変わらなければ、それは同一王統だと考えるのは考古学者の松木武彦だ。継体大王の今城塚古墳も、その前の河内王朝の墳墓も、また卑弥呼時代の墳墓も、一貫して前方後円墳でつながっている。そして飛鳥時代前期まで前方後円墳は続き、蘇我氏の時代から方墳になり、やがて八角形へと変化するので、王朝の断絶は蘇我氏時代に起こり、あとを継いだ藤原氏と天武時代から上八角形墳あるいは上円下方墳が天皇の墳墓となったことになる。

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つまり考古学との矛盾を解くには、継体がよそから来たにも関わらず墳墓形態だけは引き継ぎ、前の王家とのつながりを、時の大和豪族への大王許容の条件としたことが推定できる。だが人によっては、それがなおのこと継体と武烈の無血縁を思わせてしまうわけだが。

こうした古い慣習を引き継ぐノウハウは、武烈を最後とした、始祖応神に始まる河内王朝もまた、その前の崇神の三輪王朝(大和根付きの小国家)つまり3世紀プレ大和王朝をあるいは滅ぼし交代したとしても、墳墓だけ引き継ぐことによって、前王朝との断絶なき引き継ぎを意図したものと妄想できてしまう。そのために崇神以前に、三輪王家の正当性のために、もうひとり始祖王としての九州古王家の子孫・神武の東遷をわざわざ置いたのだろう。中国を意識した長い政権が、飛鳥・奈良以後も続くとしたいのが『日本書紀』藤原史観だと考えられる。従って『日本書紀』は対外的に創作された史書と考えざるを得ないのである。

問題は継体死後、あとつぎ二人(安閑・宣化)がともに死んだとする百済記の記事ではないか。
もちろん本来は正嫡と言える欽明を担ぎたい在地勢力は大半だったはずなので、二人がすぐに王位を譲らされたのであり、政治的に二人は消されたと考えられる。

今城塚からは阿蘇ピンク石石棺らしき破片と都合三つの石棺が出ている。三人が埋葬されていたことになる。ところが安閑・宣化の墓はちゃんと別にある。これもあとから作られたのだろうか。誰が?藤原不比等しかいないか?あるいは蘇我氏のなせる業か?面白い。

二人が殺されたとすると、あとを受けた欽明天皇もまた継体とは切れた新王家である可能性も出てくる。文献ではこのとき蘇我氏の先祖が初めて登場する。蘇我稲目である。稲目の墓は方墳だろうが、妻の一人は高句麗王から贈られたとあり、その墓は都塚古墳ではないか。高句麗式階段状方墳だからだ。どうやら蘇我氏は高句麗になにがしかのえにしのある氏族らしい。稲目の子・蘇我馬子も墓は方墳(石舞台)だったが、彼の担いだ女帝・推古の最初の墓は前方後円墳(植山)で、中から阿蘇ピンク石石棺が出てきた。継体今城塚と同じ阿蘇の石を使ったのはなぜか?そこに蘇我の意図が見える気がする。阿蘇ピンク石はもしや王朝交代のシンボルかも知れない。



もちろん、継体時代にピンク石がわざわざ熊本から運ばれたのは、継体が新羅に寄っていた筑紫君を意識して、包囲網として火君を取り込んでいたからだろう。すると『日本書紀』磐井のところで筑紫国造磐井が「火と豊」に呼びかけて乱を起こした記事は、にわかに矛盾していることに気が付くはずだ。考古学的に、大和が派遣した火国造だっただろう熊本の江田船山古墳からは継体のシンボルである広帯二山式王冠などが出るので、火君は継体に取り込まれていたと見てよい。だから『日本書紀』はうそを書いたことになる。(当ブログ「筑紫国造磐井包囲網と装飾古墳の隆盛」参照)
kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16242307.html

※国造と君の違いは、時代がまず違うこと。
君は朝廷以前からの在地豪族で、国造は6世紀以降、飛鳥・大和王権から派遣された知事。
『日本書紀』には国造を前倒しする癖がある。権威が古くからあると思わせたいからだ。だから筑紫君を国造とも書いたのだろう。そして「昔は同じ釜を食った仲間ではないか」と近江毛野に言ったというのも、当然うそだったことがわかる。もっと疑うなら、磐井の反乱以後に起こる武蔵国造の反乱の首謀者・上毛野君小熊君という人名が近江毛野に似るのも、なにか作為があるかも知れぬ。

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継体は百済と近しく、伽耶王だったかも知れない。伽耶の鉄と関係するのなら葛城氏との関係も考えられる。いずれにせよ、息長・葛城父方と地方小豪族の三尾氏から継体は出たとされつつも、近江に住んでいたとも書かれる。三尾氏のいた越前と近江は隣接する。滋賀県の安曇川沿い高島市に三尾と息長の痕跡として田中古墳群や鴨稲荷山古墳、また水尾(みお)地名がある。田中古墳群には継体の父親・彦主人王墓や母親・振姫ゆかりの石、田中神社、安閑を祭った安閑神社などがある。

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伝彦主人王墓・安曇陵墓参考地


不思議なのは安閑の墓がなぜか河内の羽曳野にあることだ。近江で祀られた天皇の墓が、河内王朝の墓所にあり、しかし父・継体だけは摂津淀川沿いの三島にある。これは摂津の今城塚が継体本人の意思で造られたに対して、安閑や宣化の墓は、あとから政治家の手で造営されたことを暗示する。



継体や安閑・宣化、また崇神などが生きた時代にウイルス感染症が流行したかどうかは定かではないが、天然痘やコレラはあったかも知れぬ。世界の疫病の歴史はこの書物に詳しい。


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