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積年の敵対子孫同士が握手?
geinousite.whdnews.com/p/1703/IoaPf66A1.html





大河ドラマで来週から明智光秀をやるらしい。
『麒麟がくる』だ。
キリンとか希林ではなく、麒麟。
池端俊策の原作脚本。まあ、定説を大きく上回ることのなさそうなものとなるだろう。
長年、Kawakatuには本能寺の変については持論がある。ちょっと簡単にそれだけを書き留めておきたい。恋愛小説の合間の、古代でもない、民俗学でもない、逆転の戦国仮説だ。あくまでも持論である。
一笑にふしてもらってかまわない。


幕末の勤皇・佐幕派に戦国武将を仕分けすると、本能寺はわかりやすい。これが持論である。
要するに信長を中心に、真の信長派と、そぶりだけの一派とに区分けしてみるといってもいい、

織田信長はご存じの通り、神になろうとした唯一の武将だ。それ彼のいう「天下布武」の真の意味である。それに気づいた者がいた。神になるということは日本では、天皇を排斥して、武士がなりかわるという、国盗りどころか神盗り物語になってしまうのだ。そんなだいそれたことを考えたのは信長だけである。

光秀や家康らほかのどの武将にしても、考えられない罰当たりな行為であり、到底許容できなかったはずである。ゆえに信長は殺されて当然なのであった。それは忠臣・秀吉でも同じことである。とんでもなかった。では誰が猫の首に鈴をつけるか?

光秀は本能寺の直前に、信長との確執があった。この理由も、勤皇の常識から出られない光秀への失望が信長に急速に増幅したからだ。光秀はあくまでも武家であり、足利将軍を頭領としての天下布武のレベル。しかし信長は将軍も天皇も必要とせず、神になることが天下布武。この違いは、最初信頼していた光秀への、愛憎あまりて憎さ百倍へと変化させるに十分だ。

光秀にとっても、あれほど罵倒、侮蔑、犬扱いされては、NHKが言うように、精神的にも限界。

一方、家康も秀吉も、信長をどうするかで悩んだことだろう。この二人には不都合な互いの先祖へのコンプレックスという共通点があった。ふたりの親が、どちらも放浪の阿弥・乞食坊主の出身であったという負い目である。特に親が松平に養子に入った家康にとっては、そのままの身分から家臣となった秀吉よりも負い目は大きい。つまり秀吉の口から家康のいやしき出自がもれたら困るのだ。内心ひやひやしなければならず、いつかはこの二人は決着をつけねばならぬ宿命にあった。

いくさもうまくない家康はさまざまな画策をしていたことだろう。そもそも本能寺の最中に、なぜ彼が危険な伊賀上野越えをしたのかがおかしい。信長が死んだとしても、畿内には当時、ほとんど有力武将は存在しない。何を急いだのか?

そのわけはひとつしかあるまい。自分が変のフィクサーだったからだ。光秀と密約していたのだ。殺せば大名に・・・。ところが光秀がそれを決心したのは、31日未明から早朝だったとNHK歴史番組も言っている。悩みに悩んだ真面目な光秀は信長に直接会いにゆき、そこでやっと決意するのである。

これには待っている家康はびっくりした。慎重居士の光秀がもし動かなければ、自らが兵を動かすつもりだったのが、一気に事態が進展。準備した浜松の勢を早く止めなければ、光秀との画策、合同計画がばれてしまう。だから急いだのだろう。

秀吉も、実はこれを待っていた。彼も信長暗殺とその後の処遇を光秀と密約をかわしていたはずだ。家康とは別口で密かに光秀に白羽の矢を立てたのだ。光秀には十分に信長への恨みと不信感が見て取れた。秀吉と家康だけがそれを見抜けた。ともに人たらしだからだ。だから中国からさっさと引き返せた。ほかの家臣はそんなことは考えもしていないから、心の準備があった秀吉は上げ潮とばかりに京都へ。家康があわてている時には、もう計画通りに信長にとってかわっていた。しかも秀吉は、京都に出張っていた信長の弟にも、あとはお前にと、口約束。平気でこれを裏切れる立場にあった。

スケートの織田君のおっちょこちょいは、信長ではなく弟的である。信長の血は織田一族の中では突然変異的で、あらゆる武将・偉人の中でも際立って独裁者的。天才としか言いようがない。ゆえに日本中の誰もが、信長が死んだことを内心ほっとしたはずである。金正恩にも似るとさえ言える。実は織田家の派生地は尾張ではなく越前であるが、福井県は小松などの高句麗地名の多い土地である。織田が高句麗由来氏族である可能性は捨てがたい。

さて変のあと、光秀は殺されたことになっているが、これには家紋の同じことから日光・天海変身説があって、なかなか面白い。まあ家紋などは江戸期なら誰でも好きなのをつけられたから、あてにはならないがね。


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