筆者、以前から医者は果たして「科学者」だろうか、それとも「技術者」なのだろうかということを、決めがたく思ってきた。
おそらく、医者の本分は、学んできた技術だろうと感じてきたが、医師に言わせれば自分は科学者であり、技術者だと言うだろうとも思う。事実、医術にはその両方が必要である。
今回医者と科学者の違いがはっきりと違うとわかる二つの明暗分かれるニュースが飛び込んできた。
哲人とも鉄人とも、あるいは静かなる意思の人、現地では聖人、神にも値するだろう中村哲氏という一人の医師が銃弾にさらされ、死んでしまった。同時に、ノーベル賞を受賞した化学者・吉野彰氏の授賞式記者会見での歓喜の表情と言葉も流されていた。
これほど対照的な出来事がほぼ同時にニュースで並んでしまった皮肉・・・。
昨今のノーベル賞の流れでは、物理学や化学の受賞者には、好んで実用性の高い発明者が選ばれる傾向にあり、吉野氏の発明もリチウム電池という「ビジネスになる」ものである。そう本人も発言しているわけなので間違いあるまい。その満面の笑顔を見ていると、「ああ、現代の科学は実用、実業になってしまったんだな」と、つくづく感じさせられた。きわめて現代的なことだろう。
それをTVで見つめながら、筆者の脳裏は先に報道があった中村医師のショッキングな死、それ以上に彼がこれまで成してきた「崇高」とも言える寡黙な姿が浮かんでおり、思わずその明暗のニュースの「ある種の残酷ともいえる 対称性に涙があふれてしまうのだった。
なにゆえにノーベル賞は、中村に平和賞を授けなかったか。
これは先日亡くなった緒方貞子さんの死去の際にも感じたことである。
目立たないことには、なんらの賞も与えられないのか?ノーベル賞や国民栄誉賞は死去してからでは贈られぬのか?
もちろん世論は諸所あるところだろう。筆者自身も、砂漠に樹木を植えること、他国に身を捧げることのいわゆる違和感や無意味さを、客観では思うところもあるが、主観では誰にも考え付かない壮大なる事業への意思には、素直に尊敬と感動を覚えてきた。
中村は人ばかりでなく、地球を治そうとした。
それは果たして地球から見て崇高だったのか、不遜だったのか凡なる自分には判別しがたい。
ただ、稀有なひとりの「技術者」であった。「星になった人」とは彼のような人を言うのだろう。
おそらく失礼であろうが、ローマ教皇よりも天皇よりもダライ・ラマよりもグレタよりも、あらゆる政治家よりも、技術の鉄人である。
ある地域には、そしてその事業の成功を手本とする後続の人々にとっては、なくてはならぬ人だったということである。彼は死んで地球と人類の歴史のひとつにになった。
慙愧合掌
(リチウム電池技術ももちろん、やがて温暖化を救う巨大リチウムバッテリーを生み出す科学史のひとつであることも間違いない。それができれば、電力全部が備蓄できるようになり、化石燃料に頼らなくてもよい新時代になるからだ。)
受賞を称賛する。
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知人の農業家が言っていた。
土木や農業、開拓をすると地質・土壌・地層・災害危険性が見えてくると。中村にも見えただろうか。
縄文の古代米は、最初、水を求めて扇状地を遡上するところから始まった。
縄文コメ栽培には高台の水の湧く土地が必要だったのである。しかしそこは同時に地滑りの起きやすい地形でもあった。弥生の水田は反対に河川沿線だった。そしてそこもまた水害、氾濫の起きやすい場所だった。やがて両者が見出したのは縄文の傾斜地に弥生米の棚田を作り、乱暴なる水を受け流す手法だったのではなかろうか。
中村が作った灌漑堰は、古代秦氏が京都桂川で作った堰と同じものである。水を制する者は国を制する・・・歴史はそう語る。ところがしかし、貧する他の土地のものたちとの経済的格差を生んでしまう。聖人はよそから見れば悪者に見えたのであろうか?人類はやはりまだサルなのか・・・。
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