民族学伝承ひろいあげ辞典

脳梗塞男の料理とエッセイ、ときどき爆笑、ときどき不満爆発? 著書『秦氏が祭る神の国・その謎』2005年  1955年大分市生、京都育ち。 脳梗塞、高脂血圧、緑内障、糖尿病と闘病中。

2008年02月

傀儡子や磯良舞いの神楽では、最初に意味不明の発声がある。これはいわば、磯良を呼び出すための呼び声である。「阿知女々々々於々々・・・」という。「あちめあちめ」と呼ばれて、磯良が「おお」と返事するのである。折口信夫は細男を「才の男」と考え、才は海系、大人(お ...

『傀儡子は定まれる居(おりどころ)なく、当(まも)る家なし穹廬氈帳(きゅうろせんちょう=空の下、葦の中にムシロを広げてとばりとし)、水草を遂(お)いてもて移徒す(=水と食物を抱えて移動する)頗る北狄(ほくてき=北の蛮人)の俗(ならび)に類(に)たり男は皆 ...

美しいという文字はふたつの要素から構成されている。「羊」と「大」。中国では美の基準が羊の大きさにあったことになる。『漢字』から。面白いと思ったらクリックして!→https://history.blogmura.com/にほんブログ村 歴史ブログ http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/ ...

修験道の聖地に入るための架け橋である。この橋を渡るとその先は菊理姫(白山比売)のいる黄泉の国。おやまを巡って帰ってくれば黄泉がえりと相成る。ゆえに登山という行為そのものが「巡礼」なのだ。それは母親の胎内をゆくような、いわゆる「胎内巡り」なのである。写真の ...

折口信夫『大嘗祭の本義』「にへ・には・にうは、贄(にえ)と同根語である事が訣る。にへのいみといふことで『のいみ』といふことが『なめ』となつたのである。」・・・・・・・・・・・・・・・・・「にえ」とは生け贄などと言って忌み言葉になることが多いが、本来は「租 ...

「(私が谷川健一に同行して四天王寺を訪れたとき聞いたのは)守屋廟は、聖徳太子が物部守屋の乱を平定後、四天王寺を創建したときに、敵将の守屋の霊を祀るため、建立されたとの伝承があるが、私はその時、敗北した守屋の奴(やっこ)が四天王寺に奴婢(ぬひ)として引き取 ...

ニコライ・アレクサンドロビッチ・ネフスキー「柳田國男への書簡」から「北神谷(きた・かべや)の鎮守様はご承知の通り白山神社です。これをあやまってシラヤマ神社と言うと百姓が非常に怒るそうです。『我々は立派な百姓ですが、○×○ではあるまいし』と」・・・・・・・ ...

柳田國男『海上の道』所収「稲の産屋」より「曾ては日本の西南一帯の地にも、産屋をシラと謂った時代があつたのではないかと私は考えて居る。ほゞ紛れのない一つの例証は、いはゆる産屋の穢れをシラフジョウという地方語は、こちらでも決して珍しくない。是は喪の忌を黒不浄 ...

別にコンサートのことではない。http://haruichiban.sakura.ne.jp/top-page-all.htmlこっちの春一番である。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E4%B8%80%E7%95%AA春先、最初に吹く季節風は強風である。これを風水で南南東にいるとされる蛇にたとえる。鍛冶屋はかまどの ...

白山信仰に関わる静岡県磐田の白山神社には以下のような被差別民の皇子説話が碑文となって残されている。「抑此地称王院人王第五十代桓武帝御子海上皇子御陵也うんぬん・・・」(京見塚王院墓地碑文)(海上皇子という表記は開成皇子かいじょうのみこ・が正しいのだが、磐田 ...

滋賀県高島市安曇川町三尾里にある安閑天皇を祭る安閑神社前に、「神代文字(じんだいもじ)」と称される奇妙な壁画を持つ奇岩が置かれている。以前、かわかつワールドブログの方で近江紀行としてアップしたことがある。http://white.ap.teacup.com/kawakatublog/81.html安閑 ...

オシラサマとは道祖神、あるいはサエノカミの別名である。特に福井県、岐阜県の県境にある白山神宮の修験者が伝え、民間に広まった。神となり、名前は特に「白山菊理姫」とも云う。白山神宮祭神。これは修験者が神名統一と高尚にするために名付けたものだろう。よりましは桑 ...

●秋田藩大滝(『すすきのいでゆ』所収)   オケ(苧桶)の中に紡績に用いる麻糸を残していると蛇に化けると言われており、一月十五日の夕刻までに取り出してすべて紡いだと言われる。これは三輪伝説にある苧環神話の亜流であろう。●愛知県かたわの里の伝承では、桶の中 ...

この問題を大きく提唱した第一人者は大山誠一(『聖徳太子の誕生』吉川弘文館1999)である。「厩戸王という一人の有力な王族が実在したことは確かだが、聖人として信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。その聖徳太 ...

かわかつすべてのサイトに使わせて頂いた参考文献と資料集、およびおすすめの著書           2008・2現在<民俗学・民族学・フォークロア>平林章仁 『鹿と鳥の文化史―古代日本の儀礼と呪術 』白水社1992      『神々と肉食の古代史』 吉川弘文館 ...

高 寛敏(コ・カンミン)『古代の朝鮮と日本(倭国)』雄山閣 2007・・・・・・・・・・・・・・・高寛敏=1940年大阪生まれの在日朝鮮人学者。京大卒。教員。・・・・・・・・・・・・・・・日本書紀の「持統直系」重視「神集う「高天原」を支配する「天照大御神 ...

御年(ぎょねん)とはその天皇の生きた年数のこと。つまり死んだときの年齢である。崩年(ほうねん)とはその天皇の死んだ年のこと。つまり命日である。日本書紀と古事記で御年が一致する天皇は仲哀天皇だけ。崩年干支が一致するのはひとりもいない。安閑については年度はあ ...

神野志隆光(こうのし・たかみつ)『複数の「古代」』講談社現代新書 2007「(日本書紀の)紀年構成に即して見てみよう。この紀年構成が現実の歴史そのものでなく、虚構であることはよく知られている。それを批判的に再構築して史実を捉え直そうとするこころみもくりか ...

『古事記』応神天皇条○此の御代に海部・山部・山守部・伊勢部を定めた。○つまり山海のまつりごとをむすこの大山守命が受け、おすくに(食国=農林水産業の生産行為)は大雀命が管理し、伊勢=皇位には宇遅和紀郎子がついた。○剣の池を作った。○新羅の人、参り渡り来た。 ...

高句麗の起源を書き残した『三国史記』(12世紀)には「原三国史」としての『留記』『新集』と、10世紀頃の『旧三国史』という元になる歴史書があった。しかしこれらはご存じのように亡失し、『三国史記』の後半部分の多くは中国の史書に頼って作られている。高 寛敏『 ...

山形県の一部では菊花を常食とするそうであるが、この菊を食うのは中国経由であろう。それも南部。江南の食文化のひとつに蛇食がある。蛇は再生と長寿の秘薬とされたから、香港などでも九月の重用の節句にはにおい消しの菊花とともによく食べられる。これが海人族によって日 ...

畿内の鍛冶遺構は4後半~5世紀以降のものしか出てこない。3世紀の最先端の鍛冶遺構が北部九州におびただしく出ること、また4世紀以降の鍛冶技術による革新的な鍛冶具が北部九州の王墓から出てくることに比べると、畿内の3世紀までは「鉄はなかった」と言うしかない現状 ...

「信用できない情報ばかり邪馬台国が実際魏とおつきあいしたとされる時、陳寿はまだ6歳。当時のナマの情報は何も知らないでしょう。倭国を2度訪ねた魏の使者はそれぞれ別の人です。その両者にはまったく連絡がなかったようです。そして陳寿はその両者とも会ったことはあり ...

http://www.china.org.cn/japanese/ri-difang/yunnan.htmhttp://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/shotoku/ametartshihiko.htmロッコーンという門を建てることで有名な、中国雲南省の少数民族タイ族は俀族とも書くが、その国はかつて「てん国」と呼ばれ漢書にも出てくる古 ...

しつこいようが、河内地方の平野にあった喜連(きれ)近く、往古には 讃良郡と呼ばれた地域に河内飼部 という氏族がおり、持統天皇の養育にたづさわったと上田正昭が言っている。持統天皇の諡は菟野讃良姫であるから、これは馬牧のあった地名を名に負っていることになる。従 ...

http://homepage3.nifty.com/osuzume/okinaga/大阪市平野区喜連地域にあったという息長川(天野川)流域に居住したという氏族。馬を氏族名とする人物に関わる。平野喜連瓜破と来ると河内馬牧のあるあたりか?杭全近くか?面白いと思ったらクリックして!→[https://history.b ...

菱田哲朗『古代日本国家形成の考古学』京大学術出版会2007神野志隆光『複数の「古代」』講談社現代新書 2007新川登亀男『日本古代史を生きた人々』大修館書店2007高寛敏『古代の朝鮮と日本(倭国)』雄山閣 2007面白いと思ったらクリックして!→https://h ...

 過去の災害を教訓に、将来へ備える。それに役立つ「地震の日本史」(中公新書)を昨秋出版。古文書などの資料から縄文時代以降の被害を拾い集め、10年がかりで読み物に仕上げた。http://www5f.biglobe.ne.jp/~sans-culotte/topics050821-5.htmlhttp://mainichi.jp/select ...

応神15年(284)8月6日「日本書紀」 百済王、阿直伎を遣わし、良馬二匹を貢上。百済の国主照古王、牡馬壱疋、牝馬壱疋を阿知吉師につけて貢上れる人、云々。(馬の輸入初出)履中5年(404)9月18日「日本書紀」 淡路島に狩猟。この日、河内の飼部(うまかい ...

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