「歩は本来距離の単位で,左右の足を1回ずつ運んだ距離であり(その半分は跬(けい)),それと尺との関係には変遷があったが,方1歩の歩の大きさの実態はさほど変化しなかったといわれる。【三宅 史】。…」コトバンク跬
「後漢・魏の時代の一歩は六尺なのですが、後漢と魏では六尺の長さが少し違います。唐代になると一歩は五尺で1.555mに相当します。
<後漢>一歩(六尺)1.382m
<魏>一歩(六尺)1.447m
*一歩の意味は左足と右足で踏み出したときの長さの事で、ほぼ六尺。片足の幅を半歩として跬(キ)といい三尺になります。」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12142358227
跬(けい)と歩(ほ)
現代日本では一歩とは、片足を踏み出したことを言うが、古代中国では日本の一歩は一跬である。もう片足を踏み出して一歩と数えた。
その古代中国の一歩とは六尺だから、時代によって差はあるが、魏では約1・5m。
すると卑弥呼の墓の直径は、百歩だから150m弱だったとなる。
現代日本では一歩とは、片足を踏み出したことを言うが、古代中国では日本の一歩は一跬である。もう片足を踏み出して一歩と数えた。
その古代中国の一歩とは六尺だから、時代によって差はあるが、魏では約1・5m。
すると卑弥呼の墓の直径は、百歩だから150m弱だったとなる。
魏志が言う百歩を現代日本の感覚で考えてはならない。
ただし中国の数字表現は大げさだったことも否めず、卑弥呼の墓が徑100歩だったとあってもも、それがちょうど箸墓の前円部の直径とほぼ同じだとしても、早計には箸墓が卑弥呼の墓だとは決められない。
時代的にはそれはむしろ宗女臺與の時代の墓だった可能性も高かろう。
鏡で考えれば、故・森浩一などが言う神獣鏡の三角縁は、中国では呉の様式であり、それが近畿で多く出るようになるのは、やはり臺與の4世紀だと考えられる。絵柄も南朝が好む神仙思想の神獣であるので、卑弥呼はこれを好んだと思いがちだが、実は神獣鏡は「臺與が近畿で女王となって」からの好みだろう。すると卑弥呼には神獣鏡ではなく画像鏡や内向花文などの漢鏡が魏から贈られたと考えることになる。つまり3世紀平原までの北部九州で出る鏡である。
魏の小王は、漢鏡を百枚、土器に入れて使者に持ち帰らせたと考えるほうが整合だ。その鏡は、往古、小林の分配説があったが、正反対に、北部九州にあった第一次邪馬台国から全国へ配布された、だから近畿の3世紀に漢鏡は少ないと考えるのがよいのであるまいか?
それほど大事だったからこそ、墓にはたった一枚の漢鏡が死者の頭部に置かれ、国内で作られた十把一絡げの、棺の外に置かれた神獣鏡は、卑弥呼の鏡の代用品だったことになるだろう。
近畿では、北部九州よりも近い距離にあった公孫氏燕国が、一時的に呉と協定して、魏を挟撃する同盟だった時期に、「鬼道」を学び、江南の神仙思想を取り込んだのである。しかしやがて神獣鏡よりも卑弥呼ゆかりの漢鏡を欲するようになったはずである。ゆえに、北部九州を通じてしか手に入りにくい漢鏡を非常に大切にしたのであろう。
一方、北部九州では、死者を魔物から守るはずの鏡を、すべて割って埋葬することが流行った。すなわち当初は呉の神仙思想的な鬼道を重んじた卑弥呼も、魏が優勢となったときからは鬼道を捨てて、北朝魏にすり寄るしかなくなった。すると彼女の呪術にもかげりが出る。その頃、ちょうど北部九州では日食が起きたのである。彼女のカリスマ性は地に堕ちて、「以て卑弥呼死す」るしかなかった。
その時期は弥生中期後半~後期中盤、後漢の倭国の乱から平原古墓完成までの時期である。この期間に邪馬台国は伊都国以南に間違いなくあったのである。卑弥呼も筑後川沿岸の山門地域のどこかにいたはずだ。それはおそらく吉野ケ里ではなかったか?
吉野ケ里のある神崎はもと水間(三潴)であり、三田である。三田は「めた」と読むのが古い。「めた」は末多である。卑弥呼のバックには韓半島南部の、のちに百済を築く余一族がいたとも考えられ、のちに吉野ケ里には百済王族が入ったとも考えられる。
卑弥呼の居場所が「見るある者少なし」と隠しごとのように書かれたのは、北部九州倭人が、中華の使者たちに教えなかったせいではないか?だから吉野ケ里のような大きな遺跡の地名が魏志にはないのかも知れない。
考古学では、九州でも近畿でも、そんなに巨大なものではなく、円墳のようなもので、直径も小さかったと考えられ始めている傾向が見えている。すると纒向型古墳群がその大元を吉備の楯築に求めるように、その形状は墳丘墓であり、吉野ケ里の墳丘墓も、大きさで楯築をうわまわる巨大さであるが、ここであってもおかしくはなくなるのである。
もちろん『三国志』そのものが、何度もの書写であり、原本もわからない書物であることから、記述が正しいとはとても思えず、かなりの誤写があることは間違いない。古田武彦が言っていた邪馬台国ではなく邪馬壹国だという意見も、数ある書写本の中のたった一冊しか書いておらず、『翰苑(かんえん)』や『後漢書』では臺であることを忘れてはならない。「臺」は「台」で一字で王がいる台=首都をあらわす文字なのだ。壹などではなんの意味もない。「やまいー」国などありえない国名である。まして「いち」であるはずもない。つまり「やまたい」とは、「やまこく」の首都=筑紫にあることは間違いなくなる。「やまは「耶麻」であり魏志にちゃんとかかれている国名だ。それは山門である。
山門は臺與の頃には近畿に移ってヤマトとなる。だから最初は「倭」表記である。筑紫の倭国=やまこくが移動したからヤマトが倭になったのである。のちに大和表記に。しかし意味は同じである。最初の地形地名である山門なのである。
邪馬台国は吉野ケ里に最初あった。けれど女王は二人ともに一大率つまり国家の官庁のあった伊都国の平原に埋葬されたのだと考える。そして奴国が魏志に重複する理由は、奴国には南北に飛び地があって、それが狗奴国であり、北部博多湾の奴国とは同盟関係だったと見る。卑弥呼の死後、狗奴国王卑弥彦と奴国王升一族は北部九州を牛耳るが、伊都国住民は移住。大和に移った。奴国・狗奴国連合は臺與を立てる伊都国のヤマトに攻め込み、5世紀、河内に大国家を創建。大和の伊都国勢力はこれにより地位を奪われ、大和の伊都=やまいと=ヤマイチ国になってしまうのなら話は面白い。
奴国・狗奴国連合の河内王家は、やがて観念的に記紀の中では子孫をなくして消えてしまったことにされる。そして代わりに息長の血脈の継体をはさんで、大和王朝へとなったかのごとく描かれたのは藤原氏の策謀でしかない。それは天皇家のための幻想王朝史であり、実際は伊都国大和が奴国山門となし崩し的、きわめて日本人的和合によって東国までがしぶしぶ共立合体=大同団結しただけである。藤原氏はこのあいまいな関係を一本化するために、観念としての天孫降臨神話を創作したのである。こうして日本は、天孫子孫の天皇を中心とする国家創立観念を押し付けられ、平和のためにだまされようと考え始めたのであろう。もう天災だけでも多いのに、いくさはこりごりだと貴族は考えて、あのような穢な事(きたなごと)には背を向けた、和歌に生きる「えせ政治」「国風文化」の暮らしに埋没したのである。結果として日本人は主観的でおたくな生き方を選ぶ。内向的で、しかし重箱の隅にこだわる、よく言えば異常にこまやかなる日本文化と、和を重んじる「なあなあ世界」ができあがる。
おしまい。

コメント
コメント一覧 (2)
kawakatu
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しました
自由にものが言える時期は、今が最後。
もうじき、言いたいことも言えない時代になるはずですからね。
自由がいかに大事かがを、軽んじる人たちが増えているのですから。
もっと書け、もっと言え。今こそそういう時代だと、ぼくは言いたいのです。
自由も民主も、死んでいく今だからこそ。
おふたりとも、もっと発信してください。強く。強く。
なにやってんだと。
kawakatu
が
しました