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予告しておいた邪馬台国参考文献と展示資料館一覧は、あまりにも多すぎて書写していると死ぬので、勝手に探してください。中村の著作の最後にも掲載があります。
遺跡一覧に佐賀、熊本、福岡の遺跡を追補しました。

●方相氏(ほうそう・し)とは
中国『周礼』に登場する四つ目の呪術師。
日本では京都市の吉田神社がこれを追儺(ついな)儀式で登場する。
日本ではつまり、「四つ目のなまはげ」とでも言おうか。
追儺とは鬼や魔物つまり疫病神などを払う儀式だ。

文字の通り、また目が四つであるままに、四方=四至をにらむ化け物である。
いわゆる来訪神や障儀神であるか。
節分の鬼と同じモノ。


→追儺の除目




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「中国では『論語』[6]に「儺」の語が見られる。古い時代には大晦日のみにおこなわれるものとは語られておらず、年間に三度おこなわれるかたち(三時儺)が執られていたりもした。『隋書』によると隋王朝ではこの方式を採用していたようで、年に三度(春・秋・冬)行われている[7]。六朝時代ごろに大晦日とされるかたちが出来たと見られている。唐以後は行事に用いられる人数も増大してゆくようになったが、宋の時代には方相氏たちによる舞は失われて、武人や鍾馗などが儀式に登場するようになった。

宮中のほかに民間でも同様の疫鬼を追い払う儀式がおこなわれており、儺戯などと呼ばれており現代も中国各地で民間行事として受け継がれてもいる。

日本の文献では『続日本紀』に見られる「天下諸国疫疾、百姓多死、始作二土牛一大儺」(慶雲3年(706年)十二月晦日の紀事)という疫鬼払いをするために行われた記述が古いものとして挙げられる。日本の大儺でも用いられ始めた桃や葦の弓矢は、中国の儀式でも魔除けの効果をもつ武具として用いられていたものだが、後漢までの文献に見られる形式であり、それが伝来して固定化したものであるといえる。『三代実録』には追儺での方相氏役として関東地方から身長が6尺3寸(約190センチメートル)以上の者を差し出させたこと(貞観8年(866年)五月十九日)なども見える。」 WIKI

古くは四つ目ではなく、熊の毛皮を被っており、北方系シャーマンの姿だったようで、熊の頭
を被るために、熊の目が呪術師の目の上にくるために、のちにそれを四つ目の仮面としたようである。

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https://blog.goo.ne.jp/yoshi_iltuki/e/997f5606d6f8d20dc3b73fb84d4c994f


設楽博巳は、方相氏と纒向遺跡で出た木製仮面を関連づけて、弥生時代には中国から方相氏の観念が届いていたとする(「弥生絵画と方相氏」2010『史学雑誌』119-9)。しかし、南方系神仙思想が主流だった卑弥呼の鬼道では、いかがであろうか?また、思うに纒向だけではなく、木製仮面が農具を使っていることから、これをかぶったのはブルーカラー作業員で、地方出身者であることが考えられる。纒向は溝が多く造られていて、近くで東海系や日本海系土器が出る。土木作業後のうさんとして酒宴は毎日だっただろう。粗末な仮面ゆえに、中華の呪術師それも北方系で、熊の化身だったとなると、かなり格差がありはすまいか?設楽の妄想であろう。


むしろこれは秦氏の摩多羅神が近いだろう。また東北のなまはげが似ている。熊はアイヌも神にしている。やはり北方系シャーマンからではあるまいか?つまり纒向の作業員には東海を経由しての関東蝦夷もなざっていたと見る。