斉明女帝「まひらくつのくれつれをのへたをらふくのりかりがみわだとのりかみをのへだをらふくのりかりが甲子とわよとみをのへだをらふくのりかりが」歌について
記紀いっぱつサイト「孫崎紀子氏の「舎衛女のうた」」より全文引用
https://blogs.yahoo.co.jp/rich036kit/16636343.html
【解読できない歌謡:日本書紀歌謡122番】
「日本書紀斉明天皇6年是歳条には以下の64文字の歌謡が掲載されている。
摩比邏矩都能倶例豆例於能幣陀乎邏賦倶能理歌理鵝美和陀騰能理歌美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝甲子騰和與騰美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝
カナに書き直すと、
まひらくつのくれつれをのへたをらふくのりかりがみわだとのりかみをのへだをらふくのりかりが甲子とわよとみをのへだをらふくのりかりが
となる。
岩波版の注はこの歌謡の解釈について、「諸説あるが、未だ明解を得ない。要するに征西の軍の成功し得ないことを諷する歌に相違ない。」と記している。
【孫崎紀子氏の発見】
ところが、2002年に孫崎紀子氏がこの歌はペルシャ語で読むことができるということを発見し、「舎衛女のうた」を発表している。(最上段に別紙として孫崎氏作成のペルシャ語対照を記載)
ペルシャ語で読むと、
摩比邏矩都能 倶例豆例
於能幣陀乎 邏賦倶能理歌理鵝
美和陀騰能理歌美
烏能陛陀烏邏 賦倶能理歌理鵝
甲子騰和與騰美
烏能陛陀烏 邏賦倶能理歌理鵝
●直訳
まひらくつのくれつれ
(あなたに危険の迫ることがないように 人を惑わせる仕事)
をのへたをらふくのりかりが
(彼は神ではない そして道を知らせて下さい火の労働者よ)
みわだとのりかみ
(友愛と光が少ない)
をのへだをらふくのりかりが
(彼は神ではない そして道を知らせて下さい火の労働者よ)
甲子とわよとみ
(私の記憶があなたと共にありますように)
をのへだをらふくのりかりが
(彼は神ではない そして道を知らせて下さい火の労働者よ)
となるという。
【ササン朝ペルシャの王族が日本まで来ていた】
この歌は孝徳紀、斉明紀に記されている以下の吐火羅(=都貨邏、覩貨邏)国人の来訪記事と符合している。
六五四年(孝徳天皇の白雉五年)夏四月、吐火羅國の男二人女二人、舎衛の女一人、風に被ひて日向に流れ来たりき。
六五七年(斉明天皇の三年)秋七月、都貨邏國の男二人、女四人、筑紫に漂ひ泊てき。言さく、「臣等、はじめ海見の嶋に漂ひ泊れり」とまをしき。すなはちはゆまを以ちて召しき。辛丑の日、須彌山の像を飛鳥の寺の西に作り、また盂蘭盆の會を設けき。暮、覩貨邏人を饗へたまひき。或る本にいはく、堕羅人なりといへり。
六五九年(斉明五年)三月、丁亥の日、吐火羅人、妻の舎衛婦人と共に来り。
六六〇年(斉明六年)七月、また覩貨邏の人乾豆波斯達阿、本土に帰らむとし、送使を求ひ請して、「願はくは後に大国に、朝らむ。所以に妻を留めて表とす」と曰ひき。すなはち数十人と西の海つ路に入りき。
白雉5年(654)に吐火羅國の男二人女二人、舎衛の女一人が日向に、斉明3年(657)に都貨邏國の男二人、女四人が筑紫に到着した。斉明5年(659)に吐火羅人、妻の舎衛婦人が朝廷にやってきた。翌斉明6年(660)には、覩貨邏の人乾豆波斯達阿は一度国に帰り、後にまた戻ってくるので妻を人質に置いていく。」と申し出たという。
孫崎氏は斉明6年条に記された歌は残された妻の舎衛婦人が夫の無事を祈って歌ったものと詠んでいる。
ここに登場した吐火羅人とは、651年に滅亡したササン朝ペルシャの王族が唐に亡命した後、その一部が倭国まで移動してきたと推測している。したがって歌謡はペルシャ語で書かれ、ゾロアスター教を思わせるところもある。またペルシャでは人質を残して帰国することが慣習として行われていたことも孫崎氏は報告している。
この小論は2002年に世に出ており、2016年には現代書館から『「かぐや姫」誕生のなぞ』という題名で出版されている。これまで解明されなかった日本書紀の歌謡の謎が明確に解き明かされているにもかかわらず、私の知るところでは学会の反応はほとんど感じられない。素人の言うことには耳を傾けないということかもしれないが、もしそうだとしたら真理を追究する姿勢からは程遠いといわざるを得ない。
https://blogs.yahoo.co.jp/rich036kit/16636343.html
Kawakatu注
はゆま は、宮崎県北部の地名
吐火羅 は、グレコ・バクトリア王国を滅ぼした遊牧民(トカロイ)が、のちにバクトリアのトハラ人の土地となってトハリスタン人を指す様に。これが中国で吐火羅。この場合は鹿児島県のトカラ列島か?不明。
須彌山の像を飛鳥の寺の西に作り は、明日香村にある須弥山石のことか?
堕羅人 は吐火羅人に同じ。いずれもペルシアのやや北部の国家
海見の島 は不明。宮崎県の細嶋か?青島か?わからない。「みみ湾」だろうか?
ゾロアスター は拝火教。製鉄と関係があるのかも知れない宗教。
盂蘭盆会とあるので、これはインドのサンスクリット語で、そもそもは仏教よりも先にインドの行事であるから、ペルシア系遊牧民も知っていた可能性がある。それがこの文献からはトハラ人婦人によって斉明朝にはじめてもたらされたとも解釈可能であるか?
https://blogs.yahoo.co.jp/manase8775/41413577.html
北川はゆま
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E7%9C%8C%20%E3%81%AF%E3%82%86%E3%81%BE
トカラ列島
http://d.hatena.ne.jp/sheila0116/20080907/1220777561
須弥山石・明日香村飛鳥資料館所蔵レプリカ
https://www.asukanet.gr.jp/ASUKA2/ASUKAISI/sumiyamaisi.html
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以下はKawakatu筆
孫崎の直訳を通しで並べてみよう。
「あなたに危険の迫ることがないように 人を惑わせる仕事。彼は神ではない そして道を知らせて下さい火の労働者よ。友愛と光が少ない。彼は神ではない、そして道を知らせて下さい火の労働者よ。私の記憶があなたと共にありますように。彼は神ではない、そして道を知らせて下さい火の労働者よ。」
以前このブログで「飛鳥のペルシア人」と銘打った記事を啓上した(百済昌王が寺院建立のために蘇我王朝に贈った工人や博士)さい、筆者Kawakatuは、
1 飛鳥には吐火羅人「トカラ人」、つまり鹿児島南部のトカラ列島か、近東のトハラ人が海を経由して琉球や中国へ向かう航路をペルシア人が6世紀までには持っていただろうこと。
2 それが難破したか、あるいは航海の目的地が日本の種子島(製鉄基地?)としてペルシア商人たちが持っていて?そこで日本人に出会った。あるいは商用でやってきて、倭国の王に会いたいと考えた。
3 飛鳥時代の倭国の王であるなら当然蘇我馬子か蝦夷である。しかし彼らが会うのは男王ではなく女帝だ。ということはもしかすると、少し飛躍するが、彼らは九州の小国家王家に来たのではあるまいか?
4 斉明女帝は恋多き女性。女性王として蘇我氏とのはざまで心が揺れ動いている。 ペルシア人工人の「まだら」の肌に恋心を感じたとしてもおかしくない。まだらとは日焼けして衣服のない箇所が黒く、衣服の下は白い肌のことである。しかも工人の肉体は筋肉りゅうりゅうでマッチョである。少なくとも日本人にはない褐色の肌と頑強な筋肉に、ある種のあこがれを持つのは、高貴な有閑マダムならありえぬことではない。いや、よくあることだ。まだらな肌が彼女をして、めくるめく思いにさせたかも知れぬ。これは妄想だが。
5 それはともあれ、斉明が作らせたのはペルシア系の石像物であるが、それは九州ではなく明日香村にある。問題はここである。斉明は果たして筑紫の女王なのか、飛鳥の大王なのか?当時の奈良飛鳥王家はまず大王は蘇我馬子一族であった可能性が高い。聖徳太子は記紀の創作した人物だし、推古や斉明が実在した物的証拠はない。考古学的には飛鳥には、『日本書紀』の言う皇極(斉明)の「たぶれ心のみぞ」らしき遺跡(酒舟石遺構)が出ているから、これが証拠かもしれぬ。
6 以前飛鳥のペルシア人で書いた井本英一の著作『古代の日本とイラン』では、伊藤義教博士の考察である、百済から贈られたペルシア人には画工や博士とともに建築工人が含まれていたという。しかしこの斉明の歌にはそういう渡来人物の具体性はなく、かなり思わせぶりで神秘的な文言が並ぶ。その中には「火の労働者」つまり鍛冶らしき仕事をしている人物が描かれ、さらに「彼は神ではない」という不思議な一文も存在する。
百済からやってきたペルシア人たちの人名解釈(伊藤)一覧 井本英一
さて、ややうがった考え方をすると、このペルシア人?は製鉄工人ではないか。そして神ならぬ「彼」とは、大王蘇我氏ではないかとなる。すると自然、この倭国は飛鳥だとなるわけだが、それは『日本書紀』記述によりすぎた、あまりに常識的見方だろう。飛鳥王権そのものが筑紫・九州にあった王朝だったと考えてみたらいけないか?なのである。そして人質としてあとに残されたこのメイド女性の歌った「彼」や「神」と「火の労働者=製鉄工人」と斉明の関係は?
謎は深まる。
ともあれ、蘇我王家が「神」だというのは、天皇がまさに神の代弁者だったことにリンクするだろう。古代日本の大王や天皇は神でもあった。そのことは大山誠一『神話と天皇』でも明記されていることだ。特に藤原不比等や忌部忌寸らの考えた『日本書紀』イデオロギーでは、天皇は神の代理と言う最高峰だが、政治的な実力は皆無で、天皇制そのものは藤原摂関家のためにある仕組みであった。それは今もさしたる違いはない。天皇は「君臨すらしない」し「統治すらできない」のである。その存在意義は、古代から現代まで、総じて、「象徴」でしかなかった。
しかし、天武・持統のいわゆる藤原大宝律令王権が生まれる前は、王はいた。少なくともワカタケルは大王で、実権がある倭王だったことは間違いない。蘇我氏はそれを引き継ぎつつも、実はその宰相であっただろう葛城・吉備という妃を出す外戚の権力を奪い取った王権である。
ゆえにこのとき、飛鳥の王墓は前方後円墳から階段式方墳へと大変換しているわけである。墓が違うということは、王権が違うということだろう(考古学松木武彦の理論)。
すると蘇我王権下で、大王は蘇我本家しかありえないとするならば、推古~皇極・斉明などの「天皇」たちはいったいナンなのか?当然出てくるのは、象徴としての傀儡(かいらい)王でしかあるまい。傀儡であるならば「誰でもいい」「いなくてもいい」「よそのありもの王を連れてきてもいい」のではないか?つまり九州の女系シャーマンの伝統を持った「正統な奴国王の子孫」である。それに摂関家が婿入りするというのが、実は『日本書紀』藤原摂関家存在を許されるための、最大の論理の骨子なのである。
天武も持統もそうやって天皇になっている。藤原不比等の政治・政権理念は、蘇我氏と同じなのである。かいらい女帝、病弱・欠点大王、若年王などを頭において、政治は宰相が牛耳ったのが日本の長期的政治構造だった。その証拠は明治天皇だ。彼は伝統的な京都御所内の「おんなのような」「化粧した」「和歌ばかり詠んでいた」かざりもの天皇であった。それを軍部が御所から東京へとひきずりだし、象徴として君臨しているように見せかけたが、ところが日本国民は天皇のことをまったく知らない。そこで写真で肖像を作り全国に認知させた。さらに全国を巡行させたのであった。ようやく京都以外の日本人に天皇(お上)の存在が認知されたのだ。
幕末でも、京都以外では(江戸城外の市街地町民ですら)天皇などほとんど誰も知らなかったのである。知っていたのは京都市民、武士、公家、一部の知識人や学者、神社関係者だけだっただろう。
さて、神社にはお上からお仕着せされた記紀観念でできた神話的神社と、現地でもともと祭られていた自然神や偉大な小国家王、偉人を祭る本来的神社の二種がある。大山はそれを「見下ろす神社と見上げる神社」としている。いま、神宮とか大社などといわれている大きな神社、あるいは地方の一ノ宮などはみな前者である。その成立は当然『日本書紀』神話が成立してのちの中央からの意図があってできあがる。もちろんそれ以前には、在地の神が祭られていた小社だったものが、上から、『日本書紀』神話の神の名前がかぶさるのである。「神名の交換」とはこれを言う。つまり神社庁が管轄する10万内外のすべての神社とは藤原宮成立と持統女帝成立、アマテラス伊勢信仰成立後に完成したものにほかならない。看板にいくら成立は欽明天皇とか書いてあっても、それは虚構なのだ。伊勢神宮も出雲大社も、鹿島も香取も春日も宇佐も、有名どころは全部、奈良時代直前の8世紀の産物である。
『日本書紀』神話とは藤原氏の摂関としての正当性のために生まれたのだ!
それ以前はみな在地の豪族や王族たちの祭った神である。いまそれらはほとんど社から消え、アマテラスを初めとする記紀神話の神の名前に変っている。このことは大山も書いていることだ。
戦前・戦中のアマテラス神話を叩き込まれた世代は、そんなことはありえないことだろう。洗脳された意識は容易には覆らない。そこがイデオロギー教育の恐ろしさである。韓国を見たまえ。まさに変らないではないか。教育が完全には西欧化・自由主義化していないのだ。まだ。
韓国の自由主義は大統領がキリスト教を「なんちゃって」で導入したえせ博愛主義なのだ。なんちゃって自由国家なのである。実際はまだまだ儒教や道教に精神を縛られたままである。
さて、ペルシア人は本当に飛鳥時代の日本に来ていたのか?もう間違いなかろう。井上の説と今回の斉明の歌で、彼らが来ていることは明白である。すると気がつくことがある。
奈良の古寺に見られる巨大な柱のふくらんだ構造・・・エンタシスである。どうして日本人はそれを知っていたのか?蝦夷の匠を呼んで、ペルシア人建築士と饗応したのは斉明女帝だったのである。『日本書紀』がそうヒントをくれているではないか。そのとき完成したのが飛鳥寺。日本の仏教成立はまさにこの瞬間だったのである。(ただし『日本書紀』はそれを崇峻天皇年間の588年に前倒し?してある。)すると実際百済の仏教伝来は588年よりあとの600年代になるだろう。一応崇峻紀を信じるならそれは538年などではなく588年がよいかも知れないが。蘇我馬子の時代だから。百済の562年には高句麗が熊川まで、584年には高句麗がかなり攻め込んでいるから救援を求めるなら合致する。王は聖王でこれも合致する。飛鳥寺は6世紀終末の建立で、蘇我氏の氏寺。640年くらいの天皇は斉明である。あるいは孝徳も?すると仏教伝来=飛鳥寺建立とすれば640年仏教正式伝来となってしまう。
いずれにせよ仏教経典と寺院建立を求めるのは蘇我氏しかありえない。つまり聖徳太子も蘇我氏滅亡に関与して創作された仏教の聖人ということになるのである。
なぜ百済は技術者と仏教を倭国へ教えたか・・・。
それはもう中国が高句麗に攻め込んだせいである。百済も高句麗に攻め込まれ、新羅が伽耶を奪って迫っていた。助けを求めるのは対岸の倭国しかない。当時の倭国は、政治や精神性は大陸には及ばないが、軍事力だけは九州倭人・東国渡来人・海人族のおかげで充実していた。それで百済聖王(聖明王)の子・昌王は、寺院建立のための工人と仏教博士を飛鳥へ送り込み、援助を求めたのである。このときはじめて経典が飛鳥に来た。だからこのときが正式な仏教伝来なのである。緒論無用の事実である。
日本の文献学者は、まったくナイーブである。
聖徳太子もアマテラスも神武以来の天皇制も、蘇我大王家も、継体あとづけ大王も、どれもこれも戦後科学なら簡単明瞭になるべきものすべてを、戦時中の皇国史観と憲兵の恐ろしさから思い出そうともしなかった。いかに体力のない学問の徒であっても、それでは共産主義者や社会主義者にも劣る内向性ではあるまいか?びびりなのだ。腰抜けだったのだ。チキンハートである。そしていまだに宮内庁を牛耳り続ける藤原不比等の怨霊によって、脳髄までがんじがらめな権威学者は生きている。それが権威と言うものなのだ。ばかばかしい。
●孫崎紀子プロフィ-ル
1948年生まれ。金沢大学薬学部卒業、同医学部附属ガン研究所助手を経て、1971年に結婚後、外交官である夫と共に、ロンドン、モスクワ、ボストン、バグダード、オタワ、タシケント、テヘランに住む。2014年から2017年まで、上智大学・山岡三治教授「文化交渉学特講」(文学研究科)の講師を務めた(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
『古九谷の暗号 加賀藩主・前田利常がつくった洗礼盤』より
https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%AD%AB%E5%B4%8E%E7%B4%80%E5%AD%90_000000000659354/biography/
作品
『「かぐや姫」誕生の謎』
『渡来の 王女と“道真の祟り”』
『古九谷の暗号 加賀藩主・前田利常がつくった洗礼盤』
エッセイ「舎衛女のうた」
「舎衛 しゃえい」とは漂着ペルシア人につきそっていたというペルシア人メイドのこと。
斉明女帝とは深く付き合ったらしいが、のちに帰国。
(参考)
歌謡のペルシャ語による解釈(孫崎氏作成)
民族学伝承ひろいあげ辞典飛鳥のペルシア人研究記事一群
http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/search/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%81%AE%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A2%E4%BA%BA
http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/search?q=%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%81%AE%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A2%E4%BA%BA
飛鳥のペルシア人1記事は公開していません。あしからず。Kawakatu
記紀いっぱつさん、すてきなヒントありがとうございました!

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