
『隋書』倭国伝には、蘇我馬子の時代(『日本書紀』の言う推古年間)に、隋という大国へ正史を送る記事が載っていることは当然ご存知だろう。例の「日出る処の天子より、日没する処の天子へ、つつがなきや云々」というやつである。
このとき倭国へ使者が訪れ、倭国王に謁見しているシーンが克明に描かれている。
そこでは倭王は姓をアマ、名をタリシヒコであるとされてある。
阿毎多利思比孤
開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言 俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰此大無義理 於是訓令改之
「開皇二十年、倭王の姓はアマ、字名はタリシホコである。
号はオオキミ。
遣使して宮中にやって来た。
お上(高祖=煬帝)は所司(担当官)に命令して、その風俗を訪ねさせた。
使者は”倭王は天を兄とし、日を弟として、天がまだ明けない時に出て政務を聴き、跏趺して坐っています。日が出るとそれをやめ、我が弟に委ねようといいます。”と言った。
高祖は”これはあまりにも筋の通らないことだ。”と言い、訓令してこれを改めさせた。」
一方『日本書紀』はこの場面を、推古が謁見したことにしてある。
だが推古天皇は女性である。『隋書』のタリシヒコはおそらくタラシ彦だから男王だ。
おかしな話なので、九州王朝主張する人たちが、これは近畿の王権ではなく、九州王権でのできごとであるとしたいようである。第一に「阿蘇山あり」と書いているではないか、と。
その話はさておき、これが正しく大和で起こったことだとまず考えてみると、やはり王が男女で食い違うのは奇妙なことだ。だから近畿の人たちは、タリシヒコは当時推古の摂政だった聖徳太子(厩戸)に違いないと考えたいらしい。どっちも面白い。
もしこれが大和のことならば、タリシヒコの候補は三人いると大山誠一は書く。蘇我馬子・推古女帝・厩戸皇子である。どれが最もタリシヒコに近いか?大山は即座に馬子だと言う。なぜなら『日本書紀』にはこの謁見で最後に使者と合い間見えたのは蘇我馬子だ。最後に会うのなら普通なら大王のはずだと。だから馬子が大王だったのだから、飛鳥政権とは蘇我大王時代だったと。だから推古などいなかったとなるわけだ。
それはおかしい、女帝は当時の儒教中華思想ではありえないものだったから、互いが描いていないだけで、その場にはいなくとも推古は祭祀王として影に存在した、というのは学者の考えである。
Kawakatuは
1 推古女帝などいなかった
2 この謁見は九州であった
3 アメノタリシヒコとは奴国王である
と妄想しているが、そんなことは言っても証明不可能なので、あくまでも大和の誰かだとしておくほかないだろう。
それはさておき、このアメノタリシヒコの号名には、『日本書紀』の天皇に対しての読み方である「スメラミコト」などはまったく出ていない。このときの倭王はアメノタリシヒコなのであって、別称は「オオキミ」なのである。つまりとにもかくにもこの倭王は絶対にまだ「天皇」ではないわけである。オオキミと読むのなら「大君・大王」なのだ。
これだけは絶対に間違いがない。
だから、このときまで天皇称号は大和にはないのである。
●天皇とはそもそも中国で始まった称号
「唐の第三代皇帝高宗は、在位の途中の上元元年(674年)8月に皇帝の称号を「天皇」に、皇后の称号を「天后」に、同時にセットで変更した。崩御後も、天后である則天武后によって天皇の称号を贈られ、諡号を「天皇大聖大弘孝皇帝」と記録された。」Wiki天皇
実はこの直後に日本で天皇称号が初めて登場する。それが持統(じとう)天皇である。
鵜野讃良媛皇女。
河内馬飼氏をめのととして、天智の次女。天武正妻。
それまでは全部大王=オオキミである。これは木簡では天武の死後の長屋王の時代である。
つまり天皇を生きながらに名乗った人は、唯一、持統しかありえなくなる。
そもそも天皇とは諡号であると考えるならば、死んでからが天皇でもよいわけで、それを生きている間は「今上大王」としてもよかったのではないかとも感じてしまうが・・・。
ともかく、持統以降、天皇はスメラミコトと言うようになるが、それ以前はオオキミ。これだけは全く譲るところではない。
では日本で「タラシ彦」とは出ているのか?
『日本書紀』仲哀天皇の和風諡号が「たらし・なかつ・ひこ」である。
しかし「たらし」だけなら母方が息長氏の人はみな「たらし」がつくことになっている。
ということは「たらし」とは息長氏の高貴な人の称号だとなってしまう。
天智天皇も母方は息長氏と『日本書紀』ではなっているが、「たらし」はつかない。
天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。
これこそは藤原政権の開祖という呼称になっていることがわかる。
そのような諡号の大王は、神武と崇神の「はつくにしらす」、欽明の天国排開広庭などがあるが、それはそれこそ王家の血脈の変化を示すことになるわけだ。
皇国史観の学者、天皇大好き学者、大和至上主義学者たちは、いつまでも「母方が変わった」だけだとするのだが・・・。それは遺伝子分析のない時代だったからそれでもよかったわけだ。今上(平成)天皇のゲノム分析ができるはずもなかろうが、科学者ならやってみたいはずだ。
美智子さまのは?あの方は民間(日清製粉社長令譲)人ですから必要なかろう。
さて、その天智jさんが亡くなったときに、妻が詠じた歌にも「タラシ」がある。
天皇聖躬不予(おほみみやくさ)みましし時に大后(おほきさき)の奉れる御歌一首
天の原振(ふ)り放(さ)け見れば大君(おほきみ)の御寿(みいのち)は長く天足(あまた)らしたり
万・巻二(一四七)
あまのはら ふりさけみれば おほきみの みいのちはながく あまたらしたり. 万葉集 倭大后
天足と書いて「あまたらし」である。
そう言えば鹿児島県に「あもりがわ」、岡山県には「あしもりがわ」があるかな?
天から降ると書く。
つまり「あまたらす」とは天から降りてくる、降りてきた人=高天原の人という意味になるだろう。
ところでここにも「おおきみ」とある。
まだ天皇ではないのだ。天智さんは。わかるかな?
それがつまり「アメノタリシヒコ」なのである。
大王だったのだ。
だから右翼がどう思うかはしらねども、天皇ではないアマタラシ彦の誰であろうと、彼らには関係もないことになる。ただし天皇は神武からいたんだと彼らは言うだろうが。
少なくとも、あとはその大王がニホンのどこの人だったかについて『隋書』は何も書いていないだけだ。当時の中国にとって最古の倭国はあくまでも『漢書』が言う「奴国」でしかなく、そこに倭王がいたことになっていた。『隋書』も当然『漢書』地理史に順じて記事を書いている。
ただこれだけは言っておく。
蘇我氏の時代、文献では九州の筑紫国造はすでに継体によって滅ぼされ、代わって物部荒鹿火が国造として君臨したはずであり、筑紫国造家の血筋は「大彦子孫多氏からカムヤイミミ子孫多氏」へと書き換わったし、考古学的には、筑紫からは王家の墓は一切出ていないし、2世紀奴国、伊都国王墓でそれは終わってしまっているのが実情である。3世紀以降の九州大王の遺跡など一切まだ見つからない。
それが事実だ。どうしようもない事実なのだ。
文献をいじっていても仕方がないのだ。証拠を探さなきゃ。
文献いじりなどは子供のお絵かきに等しい。
掘りなさい。九州王朝論者は全員で。
おしまい。
コメント
コメント一覧 (6)
うらやましいかぎり。
まだ引っ越し先も決まっていない状況です。
kawakatu
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kawakatu
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今のところ俯瞰すると、どっちもどっちです。
税金を使っているという意識が皆無ムです。決定打がいつまでたっても出てこない。怠慢ですな。どちらも。しっかりしてくださいあなたも。責任感まったくないでしょ?
kawakatu
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頼れるものは自分だけ、それが邪馬台国研究です。
邪馬台国なんぞ、しょせん狗奴国に敗れた負け犬国家でしょうに。
kawakatu
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てめえらそんんあに渡来した奴らの邪馬台国なんぞが大事かよと、聞き返したいね。
ばか。
kawakatu
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