かむやまといわれひこのみこと
はつくにしらす天皇
さののみこと



絶対にいた・・・20%
いなかった・・・70%
いなかったがモデルはいた・・・5%
いたとかいないではなく、天皇の始祖はそういう人でなければならなかった・・・2%



歴史学者に聞いたとした、ざっとこういう具合に意見が分かれるだろう。


最後の意見は、Kawakatuの意見で、これが核心だと思う。
それは『日本書紀』が民族主義、皇国史観で貫くべき史書として成立するための肝だった。
藤原不比等が、蘇我氏飛鳥王権を滅ぼしたときに、それは決まっていたと言える。
なぜなら、藤原京政権以前の近畿王朝のすべてが、渡来人が建てたものだったからにほかならない。
九州王朝も、吉備王朝も、出雲王権も、河内王朝も、継体王家も、蘇我王朝も、すべて舶来の王が立てられた。ゆえに藤原王朝以後はすべて国産王家であり、それを強く言うためには、国産の始祖王がいたことにする必要があった。


しかし、実際には、神話にある天孫のいた高天原とは、どうにも大陸を差している。それをさとられぬために九州出身の神武という大前提が必要。

神武以降の崇神までの天皇は、完全につなぐための創作である。

崇神は大和王権の始祖で、大和の豪族たちの伝承の人である。



そして何よりも神武東征のモデルはアレクサンダー大王の東征である!
http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16242366.html
http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16242369.html



神武東征伝説というのは世界史の学者や、海外の歴史家に言わせれば中世の遠征と侵略でできているとい『日本書紀』日本史のはじまりからもう中世なのだ。これはあきらかにあとから、例えば海外の始祖王の遠征をリカバーしたもの。そんな歴史はまず世界史ではない。

神武のモデルはアレクサンダー大王。
秦氏がおそらく持ち込んで改変してある。

これは持統の祖先が、そういう英雄であったことを民族主義者の藤原不比等が強く言いたいのだ、となるしかないのである。


では誰が本当に実在した天皇だったか?
それはおそらく天智からであろう。
舶来王朝とは明白に違う血筋であることを、不比等は息長氏という創作の母方を作ってまで証明しようとした。しかし実のところ初代天皇持統女帝が誰だったかわかりにくい。
なぜなら舶来王朝の最後だったワカタケル大王の高句麗系王家の血は、蘇我氏がそれを妻にすることで先んじており、まずこれを徹底的に貶めるのは、蘇我氏を卑怯にもクーデターで殺した藤原氏と天智の宿命であった。よって蘇我氏は半島に近い出雲大社へ封じ込める。さらに天智の母方が息長氏であるとする。ここではっきりと前の王家とのつながりを不比等は「切れている」としている。ところが『日本書紀』では天智までは母方は息長でも、父方はワカタケルの子孫とならないように、百済系の継体が緩衝材として入れ込まれ、それが百済の史書で、全員死んだことにした。日本の史書にはそうは書けなかった。うそがばればれだからだ。


そして持統には最古の女王・卑弥呼の子孫だと言うアマテラスのイメージが付加されている。

蘇我氏以前に、天皇はいない。すべて大王である。持統からが天皇を名乗った。


それを可能にするのは、天皇の初出があった中国との国交の断絶だった。したがってグローバルな天武は困った存在ゆえに、その血脈のすべてを誅殺。これに異議を唱えたのは橘諸兄である。藤原氏が衰亡すると遣唐使が開始された。