s_kaisin001
蘇我入鹿は時代の寵児だったが、藤原氏によって斬首された
グローバルで自由な社会を作ろうとした改革者は
このように民族主義者によって暗殺される
それが歴史である









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ひとつのブログサービスが終わろうとしている。

ヤフーだ。


あんな大きなプロバイダーがサービスを終了すれば、どれほどの「ブログ難民」がサーバー上でさまようことだろう。気が遠くなってしまう。


そうだわれわれは難民さながらなのだ。

ブログ・ロヒンギャ?


彼らはブログをやめるか、難民になってさまようか、早速別会社のサービスへ移動するか、ともあれ一時的に行き場を失うことになった。


職場を首になった就職浪人みたいなものだ。
あるいはもっと激しく言うなら、大地震と原発と大津波で故郷を失った被災者かも知れない。


実際の難民はあちこちで差別されている。
人間とはそうした生き物である。


ぼくはそうはなりたくはなかった。
だからすぐに引越し作業に入った。
すると多くの人もそうしはじめた。

するとヤフーはいきなりブログからナイスボタン(拍手ボタン)を消し去った。

行き場をなくしたブロガーたちに、後から砂をかけたのである。

それはもう差別である。



確かに、ブログをやっている中には、作っただけで利用しない人、ほったらかされたブログも山ほどあることだろうとは思う。そういうのを運営会社はロスだと考えたのかもしれない。またSNSの台頭で、プロバイダー自身がブログと言うサービスを自分で開設していることそのものの無用を感じたのかも知れぬ。


かくして、ネットの中の時代の波の中で、われわれは強制的に浮浪者か難民のように行き場を失うことになった。引っ越しても、引越し先の先住民たちに嫌われ?無視され?差別され?寄り付いてはくれないかも知れない。


けれど、ネットなどは所詮バーチャルな仮想世界でしかない。


検索で飛び込むヒトのほうが、実は多いのだ。そしてそもそも彼らは行きずりの異邦人である。彼らの中で、ここは面白いからいつも覗くことにしようという熱心な読者は、ほとんどいない。彼らは水なのだ。ただ流れ去ってゆく。

最もネット利用率の高い大学生なども、四年もすればいなくなる。

画像や情報や知識だけを奪って、いずこかへ消えるだけである。足跡さえ残さない。
土足で入ってきて、必要なものだけ持ち去り、自分のサイトに勝手に貼り付けてそ知らぬ顔。
まるで泥棒である。


そもそもそんな検索泥棒など来なくてもよいのだ。引っ越せば、もう来なくなると思えばよいのだ。


つまり引越し後のカウント数こそが私への正しい評価だと思えばいい。
当初、ヤフーでの友人もいくらかは引っ越し祝いにコメントしてくれはするだろう。でもだいたいそれっきりとなる人は多いのも事実。祝儀である。枯れ木も花である。


ぼくはブログやネットにはそもそも双方向性を求めては来なかった。好きなことを書いているだけでよかった。それで根つきのフォロワーが来てくれたなら、それで幸せだった。そう、ちょうどそれを形にしたのが今のSNSだ。あれらは双方向ではなく、追随者を増やす「ゲーム」なのである。しかしぼくはフォロワーさえいなくてもよかった。つまり根っからのひとり、一匹狼のように世間の流れを無視して、ぼくに必要な知識のキーワードを解釈して行こうと言う目的でブログを開始した。最初からぼくのブログはぼくだけのために書き始めたメモだったのだ。

それはこの民族学伝承ひろいあげ辞典という古代史のヒント集だった。
最初書き始めた頃は、歴史のしろうとだから、多くの意見はネット上でも学会でも無視されていた。だから徹底的に権威者による同じ発言や考古証拠を集め始めたのがこの民族学伝承ひろいあげ辞典のきっかけである。それには画像も重要だった。ビジュアルは人をなによりもすばやく納得させる道具である。そのことは広告業経験者としてよく知っていた。コピーだけでは人はなかなか認知しない。そもそも人は文字をよみたがらない。しかし画像の説得力が文章までも読ませるのである。ビジュアルには瞬発敵な説得力がある。そして文字には、言霊がある。

すると自然とそのヒントに同じ価値観を感じた人々がやってくるようになった。
そんなことになるとはまったく考えもしなかったのに、200万人ものアクセス数になった。

でもアクセスカウンターの数値はグーグルの数値とは違う。ロボットで数えた実数と、HPやブログのカウンター数値は齟齬がある。ブログカウンターはUUとPVがあり、ほとんど気休めである。このブログの右側バーにある3つのカウンターを見ればわかるがろう。同じPVカウンターで数値に差がある。一番下はUUカウンターである。PVとはやってきたひとりの人が何ページを見たかの数値、UUははいった人ひとり一回しか計らないカウンターである。今回、正直に二種類、三つのカウンターを設置した。ぼく自身は人間だからUUは見たくはない。少ないからだ。しかし思ったのは、ヤフーのカウンターはPVだったんだなということだった。だまされていた。しかしそれはブログを書く原動力ともなってくれていたのは否めない。いずれにせよカウンター数値などはそういうしろものなのだ。


アクセスカウンターはあくまでもブロガーには目安、気休め、虚栄心のためにあり、運営者には広告塔で、 見に来た人のそのブログの人気度を計るためにあるようなもので、水増しされている。そのブログにたくさん人が来れば、それはサービス 提供者の利用率に反映されるという、言うならば広告費、CM料、必要経費なのである。いや、あらゆるネットサービスはそうなのだ。TVのCM、新聞の広告なのである。

広告を掲載してくれる会社からの金への期待しかそこにはない。だからブログ運営者へ少し金銭がアフィリエイトされてもペイしているという構造だ。テレビのCM掲載料と同じである。カウンターなどは視聴率と同じなのである。だから数値に一喜一憂することはない。ネット参加で一番重要なのは、読者との絆や、それを誰が利用したかなのである。後者はブロガーの知名度をあげてくれる。結果的にうそでもブロガーたちには満足感が充満する。それが愉悦で生きがいを生むのである。かくしてわれわれはそのウソの満足度に常習的になってゆく。

ぼく古代史ブログは、よくテレビ製作者が覗いている。そう感じている。なぜならぼくが記事を書くと、いくつかが翌年には番組になっていることがある(さして多くもないが)からだ。


要するにそう思い込むことは、たとえウソでも生きがいになるのだ。
人間はウソで生きている。自分にすらウソをついて、これでいいのだと思えることこそが人間なのだ。
それだからこそ、世間から詐欺は消えない。だまされたい、ウソでも幸福だと思いたい。金があると思われたい自己欺瞞や自己顕示欲があるから明日を行き続けて行ける生物なのだ。だからだまされる。だまされたいからだまされる。

生きがいとは、現役時代よりも退役後こそ必要なアイテムである。
引退すればなにもすることがない無趣味な人は多い。
人間の90パーセント以上は、自分の考えや何をするかがない人が多い。
ほとんど人間は働きアリに向いており、やめてしまうとどうしていいかわからなくなる。
そこにブログと言う救いの神が登場した。作家になるには、本を出すには金がない人々が飛びついた。
無料だったからだ。



今、その時代が終わろうとしている。
SNSは論客には向かないメディアだし、大半の人たちは、アフィリエイトのためにネットを使う時代になった。何か書きたいから・・・そんな人は迷惑な時代になったのだ。


実はこれは民主主義の崩壊しはじめるのとリンクしている事態だと、考えた人は少なかろう。

自由にものが書けない、言えない・・・そこからしてすでに自由主義や個人主義や民主主義は壊れ始める。すでに堤防の一部が欠けはじめた、ということなのだ。

若者たちを見ていればそれがはっきりわかる。
彼らは結婚しない、子供も作らない、安定した企業しかいきたくない、結婚は高収入の男としかしない、してもすぐ別れる。まるで経済界である。スクラップ&ビルドを繰り返せると思っている。中国人のように即物的である。

自分だけがよければいい、保身、わがまま、引きこもる、壁を作って出てこない・・・まったくかつての中華思想そのままである。それは全体主義の復活に等しいのである。そこに気づかない。


世界はこのままでは戦争を始めることになるだろう。
ブログの終了は戦時中の伏字と変わりがない。
真っ黒な教科書がそのまま暗黒時代を示唆していた。

それをもう日本人でさえ忘れていこうとしているのだとぼくはひしひしと感じているのだ。
ここ10数年、その違和感がどんどん増している。この現実世界への違和感だ。住み心地が悪くなっている。世界大戦の直前がこういう感じだったんだと思う。若者たちがどんどん自由を嫌うようになった。殻に閉じこもり、仮想の世界に引きこもり始めているのを感じる。異質な考えや、思想を排除しようとしている。


危険である。



差別と民族主義は争いしか導かない。それが歴史なのだ。